互に愛し合おうではないか

古川信一牧師

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。

愛は、神から出たものなのである。

– ヨハネ第Ⅰの手紙 4章7節 –

このみことばは、新しい年、私たち茂原キリスト教会に与えられたものです。

「愛は、神から出たものなのである」ということによって、「互に愛し合う」ことのできる愛の出所、所属が示されています。

即ち「愛」は神に属しているということです。したがって愛は、本来私たちの中にはないということになります。

「神は愛である」とは、短いけれども何と力強い宣言でしょうか。そのことは、「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」ことによって明らかにされたのです。神の愛とは、決して抽象的、観念的なものではなくて、イエス・キリストの誕生と死という具体的、歴史的行為において、鮮やかに示されたということが意味されているのです。

神の愛がどのように私たちに現され、どのような特質をもっているのかが次のことばによって示されます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。神の愛、それは神がひとり子イエスを、私たちの罪のために十字架において犠牲にしてくださったということ、即ち、自分の最も大切なものを相手のために与えるというところに、その特質があるということです。だから「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」と勧められています。神はご自分の最も大切なひとり子であるイエスを与えるということによって、私たちに対する愛をはっきりと現し、私たちを「生きるようにして下さった」のです。

神の愛は相手を生かす愛です。神の愛によって私たちは生かされるのです。そのような神の愛を土台として「互に愛し合おうではないか」という勧めがされています。

 イエスの十字架に示されている神の愛を離れては、「わたしたちは互に愛し合う」ことはできないということです。キリストの十字架のもとからしか、他者を生かす真実な愛は出てこないのです。

 「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」。

私たちが互に愛し合うなら、その愛の交わりの中に見えない神が、見えるようにして、そこに臨在が鮮やかにされていくということではないでしょうか。

 私たちの内側からは、ここで勧められているような愛は出てきません。しかし、そこから出発していって、互に愛し合うということに、この年、共に取り組んでいこうではありませんか。

(2009年、元旦礼拝メッセージ)

2009年1月号