「動」と「不動」
山脇 望
「2月は逃げる」と言われるように、新年を迎えたと思ったら、もう3月です。手帖を開いて、1月からの生活、働きはどのようだったのか、と見直してみると、それなりの忙しい生活でありました。時の流れの速さは変わらないのですが、内なる時計の速さに加速がついている感じがします。
時が変わり、季節は変わり、そして生活内容、環境が変わり・・・と、めまぐるしい変化の中に生活しています。冬の冷たい風が吹き木々は枯れたように植えられていたと思ったら、そこから緑の色の芽がふくらみ、緑の世界に変わります。
赤ちゃんであった子供たちが保育園、小学校に、そしてさらには高校生になり大学生、社会人となっていくのです。何という大きな変化でしょう。これはこれからもつづきます。
人が生きていくということは、実に変化してやまない海の上に舟を浮かべて進んでいくようなものでしょう。自分自身の内も外もみな揺れ動いて生きているのです。今日安心し、穏やかだと思っていたら、次の日は嵐になったというようにです。大波が襲ってくるのです。その中で、懸命に舟の中に入った水を外にかきだ
そうと格闘しなければなりません。
大企業、機関の不正が発覚し、社会問題となり、操業停止、社会的信用の喪失、そして倒産・・・となってしまう現象を知らされます。止むを得ないことだったのでしょうか。
改めて、「動」の中の「不動」のものを内にそなえていることの不可欠さを覚えます。
イスラエルの民は激動の嵐の中にあって、「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得る。あなたがどこへ行くにも、あなたの神;主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。(ヨシュア記1・8~9)と語られました。荒れ動く、変化の中にあって不動の神の言を信じ、それにしたがって動く事がありませんように。どんな時にも主が共におられることを忘れて、心が動揺することがありませんように。
人生は実に、航海していると同じです。揺れ動く社会という海の上を進んでいます。しかし、どんな時でも進む方向が不動でありますように。
それが漂流との本質的ちがいです。
そして、どんな時でも変わることなく主が共にいますことを信じる心がありますように。
sorry
2007年3月号