召されたままの状態で
2020年7月26日
コリント人への第一の手紙7章17~24節
主の御名を賛美します。家の家族が20年前に東京から茂原の隣の睦沢に引越した時に、田舎は親切な人が多く良い所だなと思いました。昔の隣組の人たちが助け合って生きて行く良い精神が生きていると思いました。その反面、同じく隣組は皆同じ事をすべきといった様な考えで、お互いを監視し合う様な意識が残っていた部分もある感じがします。
聖書は田舎の隣組の助け合って生きる良い面と、7節の「ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしてい」て、ひとりびとりそれぞれが違っていて良いと言う都会的な部分もあって良いなといます。現代を生きる私たちは助け合いつつ、お互いの違いを受け入れる両面が必要だと感じます。
1、各自は神に召されたままの状態で歩むべき
パウロは、7章で2~9節で結婚について、10~16節は離婚について具体的な話をして来ました。
今日はそれらを纏めて一般的な原則の話をします。その原則とは何かというと17、20、24節で3回繰り返されている、「各自は神に召されたままの状態で、歩むべきである」ということです。
今日の聖書個所の構造は、3枚のパンに鋏まれたサンドイッチです。
パンは原則である「各自は神に召されたままの状態で、歩むべきである」です。具は具体例として、一つ目の具は割礼、二つ目の具は奴隷です。まずパンの御言を聴かせて頂きます。
初めに、「各自は、主から賜った分に応じて」です。
この辺りの感覚は、日本とキリスト教国では大きく違うのではないかと思います。日本の平等意識は、ある意味で皆があらゆる全ての面において同じであるべきという様なもので聖書の教えとは違います。
聖書では7節で、「ひとりびとり神からそれぞれの違う賜物をいただいてい」ます。
ですから、「ある人はこうしており、他の人はそうしている」様に、ひとりびとり違います。
ですからある人がこうしているからといって、自分も同じ様にしようとする必要はありません。
主から自分に賜った分を感謝して、渡辺和子シスターの本のタイトルにある様に、「置かれた場所で咲きなさい」ということです。人それぞれに置かれた場所が違いますから、咲く花も当然違って来ます。
他の人と自分を比べてねたむことは、私たちに賜物を与えてくださった神が悲しまれることです。
他の人が何かしているのを見て、子どもが自分も同じ事をしたいと言う時に、親は良く「人は人」と言いますが、正にその通りです。そして私たちは「召されたままの状態で」歩みます。
召されたというのは、主イエス・キリストを救い主と信じて救われる時のことです。
どんな状態の時に救われるかは、それも一つの導きですが、その状態に従って歩むべきです。
そして「これがすべての教会に対してパウロの命じるところです」。これはパウロがこの事をすべての教会に対して命じなければならない様な状態にあったということです。なぜその様な事を命じる必要があったのでしょうか。
主イエスを救い主と信じて救われる者は、霊によって新しく生まれ変わり、四重の福音で新生と言われます。新生して自分の生活を見直すのは良いことです。しかし、だからと言って浮足立って、7章の前半で言われていた、結婚しているのに、禁欲的に「男子は婦人にふれないがよい」と言って拒んだり、未信者の配偶者との結婚生活はきよくないと言って離婚したりしてはなりません。
信仰を持つことは主イエスを証して、神の栄光をあらわして生きることです。ただ勿論、機械的に全てを絶対に変えてはいけないということではありません。屁理屈になってしまいますが、神に召された時に罪を犯していたから、その状態を続けるなどということは有り得ません。
2、割礼
それではサンドウィッチの一つ目の具は、割礼という宗教的儀式です。まず「召されたとき割礼を受けていたら、その跡をなくそうとしないがよい」です。召されたとき割礼を受けているのはユダヤ人ですが、割礼の跡を恥ずかしいと思って消す者がいたと外典のマカバイ記に書かれています。パウロも割礼は受けています。
また召されたとき割礼を受けていなかったら、割礼をうけようとしないがよいです。割礼があってもなくても、それは問題ではありません。しかし割礼はユダヤ人が自分たちで作った制度ではありません。
創世記17:10で神が命じられた神との契約のしるしです。
しかしクリスチャンで割礼を受けたというのは聞いたことがありません。どうしてでしょうか。
ユダヤ人は神との契約のしるしである、言ってみれば契約書に押す印鑑の様な割礼を誇っていました。しかし大事なのは契約書の印鑑のしるしではなくて、契約内容である神の戒めを守ることです。
パウロはローマ2:29で、「霊による心の割礼こそ割礼である」と言いました。
クリスチャンは割礼に替わる洗礼によって、聖霊による心の割礼を受けることによって、聖霊の力によって神の戒めを守る者へと変えられて行きます。
大切なのは心の割礼ですので、身体は召されたままの状態にとどまっているべきです。
ただそれでも割礼を自分も受けたいという人がいたら私は敢えて止めようとは思いません。
ただそれで割礼を誇ったり、何か信仰的な効果があると思うのは間違いです。
2枚目のパンを挟んで、二つ目の具は奴隷という社会的身分です。
今日の聖書個所のテーマである3枚のパンは、「召されたままの状態で」ですので、奴隷についても「召されたとき奴隷であっても、それを気にしないがよい」となります。
その後の文章はまた色々と議論のある文章です。
口語訳は「しかし、もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」と訳しています。
新共同訳と協会共同訳の方は口語訳の聖書朗読を聞いて驚いたと思います。
新共同訳と協会共同訳は口語訳とは正反対に、「自由の身になれるとしても、そのままでいなさい」です。なぜこのような正反対の訳になってしまったのでしょうか。原語では、「もし自由になれるなら、用いよ」と書かれています。何を用いるのか目的語は書かれていません。
口語訳では、「奴隷から自由になれるなら、その機会を用いて自由になりなさい」と考えます。
新共同訳と協会共同訳は、「もし自由になれるとしても、奴隷の立場を用いよ」と考えます。
どちらが正しいのでしょうか。口語訳は23節の内容と合います。
新共同訳と協会共同訳は全体のテーマであるパンと合います。
結論を言うと、パウロにとっては「奴隷であっても気にしないがよい」ですので、訳はどっちでも良い様です。個人的には口語訳かなという感じはします。
パウロにとって奴隷であるかどうか気にしない理由は次のことです。
それは「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者である」ことです。これは社会的な身分としては奴隷であっても、主にあって召されたクリスチャンは罪から解放された自由人です。
逆に召された自由人はキリストの奴隷です。召されたクリスチャンは社会的な身分としては自由ですが、その自由はキリストに従順に歩む奴隷として生きることです。
あなたがたである、コリント教会員を含む私たちクリスチャンは、キリストの十字架の代価を払って買いとられました。これは6:20でも言われたことです。
この十字架の代価によって、奴隷は自由人に解放されました。
4、人の奴隷
そして自由人はキリストの奴隷として買いとられました。クリスチャンは神の奴隷となったのですから、人の奴隷となってはいけません。そんな事わざわざ言われなくても、現代の日本で「人の奴隷となる」者などいる訳がないと思われるでしょうか。
ところが「人の奴隷となる」者はいつの時代でも、どの世界でもいるものです。そしてそれは残念ながらキリスト教界でもあることです。神の奴隷は、神だけに従順に従って、神の御言と御心を求めて歩むものです。
そしてパウロ自身がローマ13:1で言った様に原則的には、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきで」す。しかしこの時のコリント教会がそうであった様に、人々の中には必ずと言って良いほどに、異端とか極端な人が現れて来ます。
7章では、結婚しているのに禁欲的に「男子は婦人にふれないがよい」と言って拒んだり、自分がクリスチャンになったら未信者の配偶者はきよくないと言って離婚したりする人々です。その様な時に、本当にそれが神の御言、御心に適うものであるのか、それとも人間の極端な思いから出て来たものなのか聖霊の導きの中できちんと見極める必要があります。
自分では何も考えないで、人の奴隷となって、人が決めた事に言いなりになって従って生きるのは、ある意味で楽なことです。自分で決めた事えはないので自分の責任を取る必要がないからです。
しかしそれが本当に神の栄光をあらわすことなのか、それとも人の栄光をあらわすことなのか、いつも問い続ける必要があります。
クリスチャンはこの世の多くの人が流されている人間中心の自己中心的な考えの奴隷から解放されるために十字架の代価によって買いとられました。その召しに相応しく聖霊の力によって神の栄光をあらわすものでありたいものです。
4、召されたままの状態で
本聖書個所のテーマである、「召されたままの状態で」ということを、私たちの具体的な生活に当てはめるとどの様な事が考えられるでしょうか。普通の日本人がクリスチャンになる時に良く考えるのが、家の神棚や仏壇、お寺のお墓等をどうしようかということです。
信仰を持つのだからキリスト教とは違う異教とは縁を切ろうと考える人が多いと思います。実際その様にされた方もこの中におられると思います。その様に出来た方はそれで良かったと思います。しかしパウロは今日の個所で、17節と言っています。
それは召されたままの状態で良くて、浮足立ったことはしなくて良いということです。初めにお話ししましたが、日本でも田舎に限ったことではないかもしれませんが、隣組根性の様なものが残っていて、皆が同じ事をすべきと言った古臭い考えで、他の人にまで自分の考えを押し付けようとする人がいます。
しかし聖書は7節で言っている様に、「ひとりびとり神からそれぞれの賜物をいただいていて、ある人はこうしており、他の人はそうしてい」て、ひとりびとりそれぞれが違っていて良いと言います。
異教の儀式の割礼の跡があろうがなかろうが問題ではありません。大事なのは、ただ神の戒めを守ることです。もしも家族等が亡くなった人の位牌や仏壇を、亡くなった人そのものの様に大切にしているのであれば、それを処分する事は愛のない行いです。それは神の栄光をあらわすことになりません。
その人はおそらく特に異教を強く信仰しているのではなくて、ただ亡くなった人を大切にしているだけです。私たちは亡くなった人を大切に思う思いに寄り添うことが、隣り人を愛することではないでしょうか。
そして伝道をして行く中で、相手が位牌や仏壇、お寺のお墓等を本当に必要でないとの思いに至った段階で処分すれば良いことです。
私たちは聖書の御心ではなくて、人の思いで考える人の奴隷となってはいけません。いつも神の御心は何かと求めましょう。全能の神に取って、この世の制度等は問題ではなくて、取るに足らないものです。その様なものを変えるために熱心になる必要はありません。
大事なのは聖霊の力によって神の戒めを守ることです。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは信仰を持つ者として、どうしたら良いのかと考え、時に極端な考えに行ってしまうことがあります。しかしあなたは神に召されたままの状態に従って歩むべきであると言われます。
私たちがこの世の制度に囚われることなく、キリストの十字架の代価によって買いとられた者として相応しく歩むことが出来ますように、力強い聖霊の力でお導きください。
主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。