神の国は力
2020年6月14日
コリント人への第一の手紙4章14~21節
主の御名を賛美します。ゴッドファーザーという題名のフランシス・コッポラ監督の有名なマフィアの映画があります。ゴッドファーザーは直訳すると神父なので何かキリスト教と関係があるのかと思って見ましたが特に関係はないようです。
ゴッドファーザー(代父)は元はカトリックで洗礼の時に立ち会って、洗礼名を付けて、実の両親が亡くなったら後見人になる人です。結婚式の証人、仲人の様なものです。クリスチャンの人間関係の結び付きを強める制度です。
しかしアメリカのイタリア系移民の間では地域に顔の利くマフィアにゴッドファーザーを頼むことのあった歴史的背景から、マフィアのボスがゴッドファーザーと呼ばれる様になりました。
ただ本場イタリアのシチリア島ではマフィアがゴッドファーザーになることを禁止する決まりを3年前に作ったそうです。恐らく今日の聖書個所からゴッドファーザーの制度が出来たのだと思います。
1、わたしの愛児
パウロは1章からコリント教会の争いの問題を解決するために、初めは穏やかな調子で書いていましたが段々とストレートになって来ました。先週の箇所では、コリント教会は6節で高ぶっている、8節では、満腹している、富み栄えている、王になっていると、訴えます。
これは私たちの人間関係でも同じですが、問題のある相手の問題を指摘するだけでは、相手は返って腹を立ててしまって、話を聞いて貰るものではありません。そこでこのようなことを書いた理由は、あなたがたをはずかしめるためではなく、わたしの愛児としてさとすためであると説明します。
3:6で神はコリント教会を含むクリスチャンを成長させてくださるとありましたすが、パウロも同じ様にコリント教会を自分の愛する子どもとして健全な成長を願ってさとすために書いています。厳しい書き方をしたのは愛の故です。
パウロは、「キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがた、コリント教会を生んだ」と言います。パウロは数年前の第二回伝道旅行でコリントで伝道して、コリント教会を建て上げました。パウロは自分はコリント教会を生んだ父、ゴッドファーザーであると言います。
養育掛は主人の子どもの世話をする奴隷です。養育掛が一万人というのは誇張した表現だと思いますが、父と養育掛は全く違う存在です。父は御言の種を植えて、イエス・キリストの土台をすえて、新しい命を生みました。勿論、新しい命自体は天の父からのものですが。
2、わたしにならう者となりなさい
パウロはゴッドファーザーとして、子どもであるコリント教会に今後の生き方を勧めます。それは父である「わたしにならう者となりなさい」です。これは驚くべき言葉です。
これは間違って読むと誤解を生みかねません。これは先週の4節の、「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはない」と同じ様な意味です。パウロは自分の全てが完全であって、「わたしにならう者となりなさい」と言っているのではありません。その様なことを言える人はこの世には一人もいません。これは17節3行目の「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかた」にならう者となりなさいということです。
それは1節の、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者の生き方です。
具体的にはどういうことかと言いますと、9~13節に書かれている様な生き方です。
またさらに具体的な内容は5章から一つずつ取り上げています。
パウロは後の11:1でも、「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と同じことを言います。これはパウロが使徒だから言ったということではありません。これは私たち全てのクリスチャンは、他の人に「わたしにならう者となりなさい」と言える様な生き方をすることを求められているということです。身が引き締まる様な言葉です。
3、テモテ
パウロはゴッドファーザーとしてコリント教会が本当に悔改めて、自分にならう者となることを望んでいます。そしてそのことが確実に実現されるためには、この手紙を書き送るだけでは十分でないことを知っています。パウロはとても戦略的です。手紙を第一の矢とすると第二の矢は使いとしてテモテを送りました。
テモテは、「主にあって愛する忠実なパウロの子」ですので、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者として忠実、信仰的です。パウロの子と言ってもパウロの実の子ではなくて、パウロの伝道によってクリスチャンとなりました。小泉チルドレンならぬ、パウロ・チルドレンの一人です。
テモテは第二回伝道旅行で、パウロとシルワノと一緒にコリントに行っていますので、テモテもコリント教会の父の一人、又はパウロの子という意味で言えばコリント教会のお兄さんです。この手紙が書かれている内容の実際の見本として、テモテはパウロの生き方をコリント教会たに思い起させます。
それはコリント教会だけに向けた特別な生き方ではなくて、パウロが至る所の教会で教えているとおりです。パウロはこの手紙の中でも福音書の内容と重ねて多く書いています。それはまだ新約聖書が書かれていなかったことも影響していると思われます。ある人の生き方を通して新約聖書の内容が伝えられていたのでしょう。
パウロがこの手紙を書いた時点ではテモテは既にここ、エペソを出発していた様ですが、マケドニアを通って色々な教会を通って行くのに対して、この手紙は海路でコリント教会に直行するので手紙がテモテより先に到着すると考えられた様です。
パウロはコリント教会の問題を解決するための第一の矢としてこの手紙を書いて、第二の矢としてテモテを送りましたが、まだ心配なことがあります。それはテモテのことです。
テモテはパウロが主にあって愛する忠実な者です。
しかしパウロがテモテに宛てたテモテへの手紙を見ますと、テモテはパウロよりも若いために軽んじられ易く、また臆病な性格でした。問題が山積みで、パウロさえも、さばいて馬鹿にする様なコリント教会に対して果たして上手く行くのかという心配がありました。
4、パウロはくるまい
実際、コリント教会のある人々は、パウロがコリント教会に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということをパウロは1:11のクロエの家の者たちから聞いていました。コリント教会はなぜパウロは来ることはあるまいと思ったのでしょうか。
それは5:9を見ますと、パウロはこの手紙の前にもコリント教会に手紙を送っています。そして今回またこの手紙を送って、さらに今回遣わされるのがテモテであると知れば、さらにもうパウロが来ることはあるまいと考えるでしょう。
コリント教会はテモテのことは知っているので、あのうるさいパウロは恐らく来ることはなくて、あの若くて臆病なテモテなら別に来ても関係ないと思っていたかも知れません。実際のところ、テモテの訪問は余り上手くは行かなかったようです。そこでパウロは第三の矢を放つ必要がありました。
それは、「主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行く」ということです。実際にこの手紙の終りの16:5ではコリントへの訪問計画を伝えています。
しかしそれはあくまでも主のみこころであればです。
今年度、茂原教会では昨年度の終る前には色々な教会の活動計画を立てていました。これは茂原教会だけではなくて他の教会も、千葉教区も教団もです。しかし新型コロナ・ウィルスの影響で殆どの計画は中止・延期になりました。
神が新型コロナ・ウィルスを起している訳ではありませんが、神の支配の中の起っていることです。私たちはいつも、自分の思いだけではなくて、「主のみこころであれば~します」という謙虚な思いもって、いつも全てのことに臨みたいと思います。
5、神の国は力
さてパウロはコリント教会に行ったら何をしようとしているのでしょうか。それはコリント教会の高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらうことです。言葉は大切ですが、言葉だけであれば何とでも言えます。ただ神の国は言葉ではなく、力です。これは2:4,5にも、信仰は神の力とあった通りです。
茂原教会では何度かお話ししていますが、国とはある権威が支配していることです。
1991年のクリスマスにソ連という国が無くなった時に、人も土地も建物も無くならないで変わりませんが、無くなったのはソ連という権威による支配です。同じ様に、神の国とは神の権威が支配しているところです。パウロが神の国の力を見せてもらうとは、聖霊の支配による力、行いをコリント教会の生活のしかたを通して見せてもらうということです。
それはあくまでも、聖霊の力であって、人の力ではありません。ところで「神の国は力」という御言を誤解してか、自分の力を現そうとして、何でも人間の思い通りに支配しようとする「支配神学」というものが全世界のキリスト教会で最近、流行っています。
支配神学では、全てが自分の思い通りにならないのは、祈りが足りないからサタンの支配に勝てないのであって、祈りによって神の力を使えばサタンの支配に打ち勝って何でも自分の思い通りになると教えます。祈りによってなされるのは神の御心であって、自分の思いではありません。
祈りによって神を利用して自分の思いを実現しようとするのは自己中心的な考え方であって、聖書の教からは懸け離れたものです。パウロがここで見せてもらおうと言っているのは、1、2節のキリストに仕える者、神の奥義を管理している者としての忠実さです。
6、どちらを望むのか
教会内で、「わたしはパウロにつく、わたしはアポロに」等と言って争う生き方等は論外です。パウロは教会内の争いの問題の最後を質問で終えます。「あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか。それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか」。
どちらを選んでも良いということではありません。
パウロは次にコリント教会を訪問する時は愛と柔和な心で再会したいので、この手紙を書いてテモテを遣わしました。私たちの茂原教会にパウロが訪ねて来ることはありません。
しかし私たちは、主イエス・キリストの十字架によって贖われた者として、神の国の力である聖霊によって生きる生活のしかたを、いつ誰に見られても良い様に日々歩ませて頂きましょう。
その様にすれば、神が誰か神の人を私たちに遣わされることがあっても、その人はむちをもった人ではなく、愛と柔和な心とをもって来るでしょう。また私たちはキリスト・イエスのおける生活のしかたを他の人に思い起させる、神の子として用いて頂きましょう。
7、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、神の国は言葉ではなく、力であると言われます。私たちはあなたの恵みによって救われる者です。私たちには何の力もありません。あなたの恵みを力を現す者として私たちをお用いください。忠実な信仰者として相応しく生きる者とさせてください。そして他の人にキリスト・イエスにおける生活のしかたを他の人に思い起させる者としてお用いください。
主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。