土の器の中の宝
2021年6月20日
コリントの信徒への手紙二 4章7~15節
主の御名を賛美します。もう30年位前の話ですが、キリスト教の国であるヨーロッパのスーパー等で買い物をする時に日本との違いに驚くことがありました。それは商品があまり包装されていないことです。当時は習慣の違いなのかと思っていました。
しかし日本でも最近は資源の節約やエコということで、包装が簡単になって来ています。またレジ袋の無料配布が無くなって、買い物袋を持参するようになって来ましたが、ヨーロッパでは30年前から行っていることでした。若しかすると今日の御言葉がそのような発想の背後にあるのかと考えさせられました。
1、落胆しません
パウロは「私たちは落胆しません」と1節と16節で2回言って強調しています。パウロはなぜ「落胆しません」と2回も言っているのでしょうか。それは普通に考えれば、明らかに落胆するような状況だったからです。そうでなければ、わざわざ「落胆しません」という必要はありません。
どのような意味で普通なら落胆する状況だったのでしょうか。パウロたちは、四方から苦難を受けています。途方に暮れています。迫害されています。倒されています。具体的な内容は11:23~28に書かれています。おまけにコリント教会を開拓しましたが問題が山積みです。
要するに何をしても思った通りには上手く行かず問題ばかりが起こって、お手上げ状態です。このようなことは私たちの普段の生活の中にも起こってくることです。毎日の生活の全てが自分の思い通りに進んで行けば明るく進めますが、何をしても思い通りに行かないで八方塞がりですと思わずがっくりと落胆してしまいがちです。
しかしパウロは、「私たちは落胆しません」と力強く宣言します。パウロは空元気で、根性で頑張っているのでしょうか。そうではありません。パウロは、私たち人間は元々、土の器であると言います。確かに創世記2:7で、「神である主は、土の塵で人を形づくり」とありますので、人は土で創られました。
土の器ということは、土器ということでしょうか。土器は金属等に比べると壊れやすい脆いものです。この箇所で人は土の器と言われていることに由来するためか、人を器として表して表現する言葉が日本語でも色々とあります。一般的にも、心の広い人は器が大きいと言われ、心の狭い人は器が小さいという言われ方がします。
キリスト教界でも、集会等で講師を紹介する時に講師に対する尊敬の念を込めて、この先生は色々な所で用いられている器です等という言われ方がされたりします。ただ聖書的に言うと、どんなに立派な先生でもただの土の器ですので、器という言葉を使って褒めるのはどうなのかなという気もします。
私たちが注目するのは器自体ではないからです。ただ講師の先生を紹介する時に、この先生はただの土の器ですと言う訳にも行きません。器という言葉を使って表現するのは難しい気もします。さて私たちが注目するのは器自体ではなくて、そこに納められている宝です。この宝とは何のことでしょうか。
国語的に考えますと、前の6節の「神の栄光を悟る光」ということになりますが、広い意味では、イエス・キリスト、イエス・キリストによって実現された福音ということになります。私たち自身は土の器に過ぎませんが、宝であるイエス・キリストが私たちの中に納められています。
この表現は当時、土の器の中に金銀等の宝を納めていた習慣から来ているようです。先週の5節に、「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています」とありました。
2、土の器の中の宝
確かに土の器の容器に宝である金を納めていて、宝である金の話をしないで、土の器の容器の話をしていたら可笑しなものです。パウロは、宝であるイエス・キリストに対して自分は土の器であることに寂しさを感じはしないのでしょうか。パウロはそれで良いと言います。
なぜなら、計り知れない力が宝である神のものであって、私たち土の器から出たものでないことが明らかになるためです。土の器である私たち脆い人間は、四方から苦難を受ければ行き詰まり、途方に暮れれば失望し、迫害されれば見捨てられ、倒されれば滅びてしまう弱いものです。
そのような弱い人間に注目されてしまったら、頑張っても疲れてしまうだけで力はありません。しかし行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅びなければ、それは神の力であることが明らかになります。そして明らかにするためには、私たち自身がそれらのことを自分で経験する必要があります。
キリスト教は観念的なものではなくて、自分で体験する体験型のものです。キリスト教は自分で、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びない経験を実際にするものです。
勿論、わざわざ全てを自分から進んで体験する必要はありません。しかしクリスチャンであってもなくても、このような苦難は誰でも多かれ少なかれ経験するものです。このような苦難は普通の日常生活の中でも経験することですし、クリスチャン同士の中でも、また教会の中でもどこでも起こりえることです。そしてそのような時にこそクリスチャンの真価が問われます。
そこに宝であるイエス・キリストを納めていることです。イエス・キリストを納めているとはどういうことでしょうか。それは、私たちは死にゆくイエスをいつもこの身に負うことです。十字架に付けられた主イエスと同じように十字架を背負って生きることです。
これは大切なことですので、10節と11節で2回繰り返して言います。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。クリスチャンは十字架に付けられた主イエスのように、苦難を受けて、途方に暮れて、迫害されて、倒されます。何のためでしょうか。
主イエスの復活の命がこの身に現れるためです。主イエスの復活の命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。福音の大切なことは、手紙一の15:3~5にあって何度もお話して来ました。キリストが私たちの罪にために死んだこと、葬られたこと、復活したこと、現れたことです。
そして福音を信じる者はその福音に与かります。福音に与かるとは、福音の内容の通りに自分もこの世の後に、またこの世にあっても死んで生きることです。福音は言葉として信じるだけではありません。福音は自分の人生を通して実際に経験して現わすことです。
福音は言葉だけでは、いくら語っても伝わるものではありません。自分の人生を通して現わすことです。パウロたちは死に行くイエスを自分の身に負って、死に渡されています。そしてイエスの復活の命がパウロたちの肉体に現わされています。
そのことを見て信じるコリント教会員には命が働きます。パウロとしては自分たちの内に死が働くことは勿論、辛いことですが、それによってイエスの命が自分に現わされて、コリント教会に命として働くのであれば良いことです。
3、神の栄光
「私は信じた。それゆえに語った」は詩編116:10の御言ですが、パウロはギリシャ語訳から引用していますので少し表現が違います。詩編の内容は死から助け出されて救われた、実際の体験に基づく感謝を歌ったものです。
パウロは詩編の記者と同じ信仰の霊を与えられて持っています。そしてパウロたちも信じて、同じように体験して、その体験に基づいて語っています。パウロの語ることは単なる観念的なお話ではなくて、自分自身の実体験に基づくものです。だからこそ確信が与えられていることです。
そして主イエスを復活させた方である父なる神が、主イエスと共に、私たちをも復活させ、あなたがたであるコリン教会員と共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。パウロは信じていますというのではなくて、知っていますと言います。
恐らくそうなるだろうと信じているのではありません。これまでの実体験に基づいてそれは確実なことであると知っています。パウロたちは多くの苦難に遭っていますが、それはそこに主イエスの命が現れるためです。そしてそれを見聞きするコリント教会のためです。
コリント教会の現在の状態は良くありませんが、必ず神が良い方向に導いてくださると知っています。クリスチャンが苦難に遭うのは、そこに主イエスの命が現れるためです。こうして、恵みがますます多くの人に及んで、感謝を満ち溢れさせ、神の栄光となります。それが宝を納めている土の器の生き方です。
祈祷会で少しお話しましたが、3:18で、「私たちは主の栄光を鏡に映すように」とありました。そうすると私たちは鏡が綺麗に神の栄光を映すように、鏡を曇らせないようにとか、汚れが付かないように綺麗にすること等を考えてしまいがちです。自分で何とか頑張ろうとしてしまいます。
しかし神の栄光を太陽の光に例えれば、人間は神の栄光である太陽の光を映して輝く月です。月は自分で光を出して輝きはしませんが、太陽の光を映して反射して輝きます。月の表面は土や石で、でこぼこで汚れてもいますが、太陽の強い光を反射して輝いています。私たちはただ神に向いて、神の栄光を映すだけで良いものです。自分の力で、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びないようにしようとしたら大変なことです。
また自分の力だけで頑張ろうとしたら、主イエスの命を現わすことが出来ませんので、神の栄光にもなりません。私たちは自分の力で出来るところまでは、何とかしようとします。自分で出来ることをすることは大切なことでもあります。しかし自分の力ではどうしようも無くなって、行き詰まってしまうとお手上げ状態になります。
お手上げ状態というと悪そうなイメージがありますが、決して悪くもないものです。お手上げということは、自分の手、力を離して、天に委ねることです。決して投げ遣りな姿勢ではなく、神に委ねる姿勢は大切なことです。
私は性格的には明らかにヤコブのタイプで、色々と計算をして策略を練ってしまうタイプです。しかし今回の兄のことでは全く何の手の打ちようもありませんでした。本当にお手上げ状態でした。兄の入院中から葬儀についても準備のために色々と調べましたが、中々良い方法が見つかりませんでした。
以前に父の葬儀は一般の葬儀会社で行ったのですが、今回はクリスチャンとしてもっとキリスト教的に行いたいという思いがありました。そのような中でインターネットで色々と調べていると、以前に横須賀で通っていた教会が一度活動を休止していましたが、再び活動していることが分かりました。
藁にも縋る思いで連絡を取ってみたところ、その教会員で葬儀社を経営している人を紹介していただき、本当に全てがスムーズに行うことが出来て感謝でした。自分で全てのことをしようとするのではなくて、御心を求めて神に委ねる大切さを改めて教えられました。
教会でも色々な方が奉仕を担ってくださっていますが、色々と大変なところを通られる方もおられます。牧師として私も必要な助言はさせていただくようにしてはいますが、余り口出しをし過ぎないように心掛けようとしています。それは主イエスの命が働かれ神の栄光となるためです。
主イエスを信じる者は、器としては土ですが、その中には宝である主イエスがお住まいになってくださいます。私たちはこの世にあっては、色々な苦難を通ることがあるかも知れませんが、主イエスに信頼して歩み、主イエスの命が現れる経験を積み重ねて信仰を成長させていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはこの世にあっては、本当に思いも寄らないような色々なところを通されることもあります。時に本当に自分は耐えられるのだろうかと思わされることもあります。
しかしあなたは私たちを、「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道を備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13)から有難うございます。私たちがあなたに信頼して歩めますように、またその歩みを通して主イエスの命を現わし、神の栄光を現す者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。