「死者の復活」
2023年4月9日礼拝説教
ヨハネによる福音書 20章1~10節
主の御名を賛美します。
1、イースター
今日はイースター、主イエス・キリストが一昨日の金曜日の十字架の死から復活された日です。「イースター」という言葉はどういう意味なのでしょうか。カタカナの表記ですと東の意味の「イースト」や「イースト菌」は何か関係があるのかと思いますが、スペルが違いますので関係はないようです。
「イースター」という言葉の語源ははっきりとはしていませんが、ゲルマン神話の春の女神エオストレから来ていると考えられています。モアイ像で有名なイースター島はイースターの日に発見されたのでイースター島と名付けられました。
私は27年前に神を信じて洗礼を受けましたが、当時は主イエスの十字架の死からの復活には余り興味が無かったと言いますか余り関心はありませんでした。それは死者の復活はその時の自分の年齢的には切実な問題ではありませんでしたし、自分に余り関係の無いことは考えなかったようにも思えます。
ただ神は全能のお方であると思っていましたので、一度は造られた人間を復活させられるのは、それ程には難しいことではないのではないかとも思いました。しかし死者の復活を信じるかどうかは、福音の中心、聖書の教えの中心に関わることです。使徒パウロはⅠコリント2:2で、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言います。
主イエスは私たちすべての人間の罪を背負われて十字架で死なれました。それはとても大切なことですが、そこまででは話は半分かも知れません。パウロの言う十字架は、広い意味では十字架の死からの復活も含まれています。
主イエスが十字架の死から復活されることによって、私たちの罪は赦されて、同じ復活の力に与って永遠の命が与えられることになります。昨年にはディズニーランドがディズニー・イースターを3年振りに開催して、4月から6月迄の3か月の長期に渡って行いました。
恐らく世界最長のイースター・イベントではないかと思います。山崎パンが関わっているからでしょうか。私はディズニーランドは滅多には行きませんが、ディズニー・イースターは応援したいと思っていたのですが、今年はないようで残念です。
2、墓に行く
久し振りに福音書のイースターの記事から御言葉を聴かせていただきますが、とても味わい深い文章です。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」一見すると何気ない文章のように感じますが色々なことを考えさせられます。
ヨハネによる福音書は墓に行ったのをマグダラのマリアの1人に絞っていますが、共観福音書を見ますと他の女性たちも一緒に行っていることが分かります。これはヨハネによる福音書の特徴で、個人化、個人の体験が強調されて、マリア個人の体験のように描くことで読者に強く訴えます。
マリアという名前はこの当時も今も一般的な女性の名前ですので、どのマリアかを特定するために「マグダラの」と付けています。「マグダラ」はガリラヤ湖の西の地名で「塔、見張り台」という意味ですが、マグダラのマリアと呼ばれるに相応しい女性です。
マグダラのマリアはルカ8:2で、「主イエスから七つの悪霊を追い出してもらった」とあります。マリアは本当に辛い状況から主イエスによって救われましたので、お世話になった恩返しをしたい強い思いがあったのでしょう。
そのような強い思いを抱きつつも、十字架の死の金曜日の翌日の、安息日の土曜日は戒めに従って何もせずに休みました(ルカ23:56)。そして待ちわびたように、週の初めの日、安息日の翌日の日曜日の朝早く、まだ暗いうちに墓に行きました。
11節迄に「墓」という言葉が9回使われて強調されていますが、墓は死者を埋葬するところですので死が強調されています。マリアは墓に何をしに行ったのでしょうか。それは遺体に香料と香油を塗るためです(マルコ16:1、ルカ24:1)。自分に出来る限りのことをしたいと思ったのでしょう。
そして墓に行って見ると、墓から石が取りのけてあるのを見ました。この当時も今も墓には大きな重い石を置いて塞ぐことをします。これは昔は墓荒らしから墓を守る意味があったようです。墓には副葬品として宝物が納められたりしましたので盗賊から守る意味がありました。また動物などから遺体を守ったり、迷信的な意味としては死者が出てこないようにという意味もあるようです。
この時の石は誰が何のために取りのけたのでしょうか。復活された主イエスは19節で、家の戸を通り抜けられたようですので石を取りのける必要ありません。この石は主の天使が転がしました(マタイ28:2)。そうしますと石を取りのけたのは主イエスのためではなく、マリアたち他の人たちのためです。
この後のマリアの行動は福音書によって異なりますが、この福音書ではマリアはシモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子であると思われる、この福音書を書いたヨハネのところへ走って行きました。この書き方によると、ペトロとヨハネは別々のところにいたと思われます。
マリアは弟子たちにこのことを早く伝えることが自分の役割だと考えたのでしょう。走って行きました。そしてマリアは彼らに告げました。「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」
「分かりません」には、原語には「私たちは」という複数形の主語が書かれていて、マリア以外の女性たちも一緒にいたことが分かります。聖書協会共同訳は、「私たちは」という主語を敢えてか訳さないことでマリアの個人化を強調しているようです。
「誰かが主を墓から取り去りました。どこに置いたのか、分かりません。」は13節でも繰り返され、15節でも「どこに置いたのか」と聞いています。これは主イエスが一昨日に十字架で死なれることによって、弟子たちは逃げ去り、マリアを含む女性たちは絶望してしまい、主イエスを見失ってしまったことを表しているようです。
3、死者の復活
マリアの話を聞いたペトロとヨハネは、やはり走って墓に行きましたが、ペトロより若いヨハネが先に墓に着きました。墓が開いているので、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあるのを見ましたが、ヨハネはペトロの到着を待って、墓の中には入りませんでした。
ヨハネはなぜ先に墓に入らなかったのでしょうか。注解書にはヨハネは恐れて一人では入らなかったと説明するものもあります。しかしどちらかというと、12弟子のリーダー的存在で、年長者であるペトロに配慮して到着を待ったのではないかという気がします。
続いてペトロも着くと直ぐに墓に入ったようで、何かペトロらしい気がします。そして亜麻布が置いてあるのを見ました。主イエスのお身体は亜麻布で包まれていました。亜麻布で包まれた遺体が置かれた墓に入って見ると、亜麻布だけが置いてありました。
更に、主イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所にはなく、離れた所に丸めてありました。頭の覆いと亜麻布が離れていたことが一体、何を意味しているのかは良く分かりませんが、その光景を見たペトロは、どのように感じたでしょうか。遺体を盗むのであれば、わざわざ布を剥がしてゆくのは不自然な状況です。
それから、先に墓に着いたもう一人の弟子であるヨハネも中に入って来て、見て、信じました。ヨハネが一体、何を信じたのかについては色々な議論がありますが、素直に考えて主イエスは死者の中から復活されたことを信じたと思われます。
ヨハネは復活された主イエスを見てはいませんが、状況を見て信じました。それが、「見ないで信じる人は、幸いである。」(29節)ということです。しかしここでヨハネは信じたようですが、ペトロはそうではなかったように思われます。見ないで信じる信仰を生み出すものは何なのでしょうか。
ヨハネは自分のことを、「主イエスが愛しておられたもう一人の弟子」(2節)と言っています。主イエスは勿論、ペトロもヨハネと同じように愛されています。しかしヨハネは自分が主イエスに愛されていることを強く自覚していました。だからこそ自分のことを、「主イエスが愛しておられたもう一人の弟子」と呼んでいます。
4、愛によって働く信仰
ガラテヤ5:6は、「愛によって働く信仰こそが大事なのです。」と言います。信仰は愛によって働きます。それは自分が愛されていることを知って、その愛に応えて自分が愛することによって悟る信仰と言えます。
自分を愛し自分が愛する人のことは細かい説明は抜きに悟ることが出来るものです。最も重要な戒めを問われた主イエスは、第一は、「あなたの神である主を愛しなさい。」であり、第二は、「隣人を自分のように愛しなさい。」と答えられました。信仰とは愛することによって悟ることです。愛の無い信仰は有り得ません。
しかし順序としては、まず自分が主イエスに愛されていることに気付くことから始まります。マグダラのマリアも主イエスから七つの悪霊を追い出していただいて、自分が主イエスに愛されていることを知って、主イエスに対して愛を持って信仰的に献身的に尽くしました。
主イエスはすべての人を愛されて、すべての人の罪のために一昨日の金曜日に十字架に付かれて死なれました。そして今日のイースターに復活されました。ヨハネは復活の主イエスの話を聴く前に空の墓を見るだけで信じました。
ところでそうしますと9節の、「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」という文章は何を意味しているのだろうかと思わされます。まず死者の復活を理解していなかった二人とは誰を指しているのでしょうか。
ヨハネは信じたのだから、理解していなかった二人はペトロとマリアのことではないかという人もいます。しかし話の展開としては少し強引な感じがします。自然な流れとしては二人はペトロとヨハネを指しているのだと思います。しかしヨハネは信じたのに理解していなかったのは変ではないかとも感じるかも知れません。
これは恐らく、ヨハネは愛によって働く信仰によって主イエスの復活は信じました。しかしこの当時はまだ新約聖書はありませんので、ここで聖書というのは旧約聖書のことです。私たちには新約聖書がありますので、主イエスが救い主であり、死者の中から復活されたことが分かります。
そして新約聖書と関連付けた説明を聞くことによって、主イエスが死者の中から必ず復活されることを記した旧約聖書の言葉を理解することが出来ます。しかしこの当時は、まだ新約聖書が無く、しかもまだ主イエスが救い主であることがはっきりと分かっていませんでした。
その時に、主イエスが死者の中から必ず復活されることを記した旧約聖書の言葉を理解するのは12弟子といえども難しかったのでしょう。しかしこの後で復活の主に出会う弟子たちは、聖霊の力を頂いて、自分の命を掛けて主イエスに従う弟子へと変えられてゆきます。
私たちには新約聖書もありますので、その後の主イエスの復活の話も十分に知ることが出来ます。自分にとって大切な愛する人は例えこの世の人生を終えても、自分の心の中では生き続けていますので、ある意味では既に永遠の命を持っているとも言えます。
しかし更に私たちも聖霊の力によって、主を愛し、愛によって働く信仰を持ち、死者の復活の確信を持たせていただきましょう。死者の復活の確信を持つことが愛する人の死の悲しみを癒す唯一の道です。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。聖書は主イエスは私たちの罪の贖いとして十字架で死なれ、死者の中から必ず復活されると預言され、その預言通りに今日のイースターに復活されたと語ります。しかし人間の常識では理解が難しい部分もあります。
しかしあなたは私たち人間を愛し、様々な恵みを与えてくださっています。私たちが聖霊の働きによってあなたの愛に気付き、あなたを愛し、愛によって働く信仰によって悟らせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。