「憐れみと聖」
2024年1月14日礼拝説教
申命記 23章16~25節
主の御名を賛美します。
1、逃れの町
これまで17:8から、主の民とされたイスラエルの一般的な社会生活での決まりが命じられて来ました。その中でも、主の民として「悪を取り除きなさい」ということが繰り返して命じられ、直近では22章でも「悪を取り除きなさい」と3回命じられました。そして先週は、主の会衆と陣営も、悪を取り除き、聖なるものとなることが命じられました。
今日はその続きとしての具体的な五つの内容です。一つ目は、主人のもとから逃れて来た奴隷についてです。主人のもとから逃れて来る奴隷はこの当時はいたでしょうけれど、現代には奴隷制度はありませんので関係の無いことなのでしょうか。そうではありません。
制度的な奴隷として逃れて来るのではありませんが、奴隷のような状態に置かれていたり、奴隷よりももっと酷い戦争状態にあったり、独裁国家から逃れて来る難民等は世界中に多くいます。色々と状況の違いがありますので、すべてを一緒くたに扱うことは難しいとは思いますが、御心としての原則があります。
それは逃れて来た人を主人である、その人を支配している人や組織や国に引き渡してはならないことです。命懸けのリスクを背負って逃れて来たものの、逃れた先で捕まって元の国に送り返されるという話等を聞きます。母国に送り返されると本人だけではなくその家族も酷い目に遭うという話等を聞くと居たたまれませんが、そのようなことはしてはならないと命じます。
そうではなく、「あなたの中、すなわち、あなたの町の一つで、彼が選ぶ場所に、あなたと共に住まわせ」ます。これはイスラエルのどの町でも逃れて来た奴隷が選ぶ場所に住まわせることです。イスラエルが、逃れて来た奴隷の住む専用の町を一つ決めて、その町の中で奴隷に場所を選ばせるのではありません。
「あなたと共に住まわせる」ということは、差別することなく、分け隔てなく一緒に生活をすることです。それは主の会衆にも加えるということでしょう。彼を虐げてはなりません。これらの御言葉によって、歴史的に教会が色々な事情を抱えて逃れて来た人の逃れの町になって来ました。
今年は米国の大統領選挙の年ですが、米国では難民や移民は選挙戦の争点の一つとなる大きな問題です。綺麗ごとでは済まされない色々な問題があるとは思いますが、憐れみのある御心がなるように祈るものです。
2、神殿売娼
二つ目は、イスラエルでは女でも男でも誰も、神殿娼婦や神殿男娼になってはなりません。このようなことは言われなくても、主の民として当たり前のことのように感じます。なぜ神殿娼婦や神殿男娼になったりするのでしょうか。時代背景から考えますと経済的な理由が大きいと考えられます。日本でも本人も家族も望まないけれど経済的な貧しさから身売りをせざるを得ないことがあったと聞きます。
主に誓願を立てるときには誓願の献げものをします。特別な誓願の場合にはレビ記27章にありますように年齢や性別によって金額が違います。しかしどのような誓願のためであっても、主の神殿に娼婦や男娼の稼ぎを持ち込んではなりません。男娼の稼ぎを新改訳は原語を直訳して、犬の稼ぎと訳しています。
現代的な感覚ですと犬にも失礼な感じもしますが、男性優位の社会で神殿男娼は神殿娼婦以下の存在ということです。日本でも、「お金に色はない」と言われ、どのような方法で稼いだお金でも違いは無いような感じもします。しかし売娼の稼ぎは主の神殿には持ち込んではならない程に、主は売娼を忌み嫌われます。それは主が人の祝福のために造られた性を冒涜する悪だからです。
3、利息
三つ目は、同胞には利息を取って貸してはなりません。銀の利息は現代の金銭の利息、食物の利息は金銭以外の利息も、いかなる利息も取ってはなりません。お金と物は資本ですから、資本を用いて利潤を生みだすのが資本主義の考え方です。資本があれば本来は利潤を生めるので、資本を貸すときにはその分の利息を取るのが資本主義です。
しかし同胞からは利息を取ってはなりませんが、借りる人はどのような人が想定されているのでしょうか。同じ内容が出エジプト記22:24にも書かれていますが、これは貧しい人に貸すことを想定しています。これは人から借りなければ生活のできない貧しい同胞を助けるためのものです。
これは明らかに二つ目の話の続きとして言われていることで、貧しい同胞を娼婦や男娼にさせないために貸すときに利息を取りません。しかし例えそうではあったとしても同胞に利息を取らずに貸す人は、本来なら得られるはずの利息の分だけ損をすることになるのでしょうか。そうではありません。なぜなら利息の分以上に主がすべての手の業を祝福されるからです。見返りは人から期待するのではなく、主に期待するのが主の民です。
今日の五つの内容はどのような繋がりがあるのだろうかと考えていました。単に五つのばらばらのものを並べただけではなく何らかの意図があると思ったからです。五つですのでやはり中心構造のようで、その中心聖句は、「主が、あなたの手の業を祝福されるためである。」です。
いつものとおりに説教題は、「手の業を祝福されるため」でも良いと思いますが、今回は説教題にありますように、憐れみの内容と聖を守る内容が交互に並んでいますのでそのようにしました。一つ目は憐れみ、二つ目は聖で、三つ目は憐れみです。どれも貧しい人を対象とした内容です。
ここで同胞には憐れみを持って利息を取りませんが、外国人には利息を取って貸してよいというのは、ダブルスタンダード(二重の基準)で人種差別のように思われるかも知れません。主の民の中では皆が主の命令に従いますので利息を取りません。
しかし外国人には主の命令は通じませんので、外国人は主の民から借りたものも利用して、商売として利息も含めて多くの利益を得ることをします。それで、その人たちからは利息を取ってもよいというのは分かる気がします。しかし後の時代には、ユダヤ人というと高利貸しで暴利を貪っているというイメージを持たれて、ユダヤ人が嫌われる理由の一つとなったようです。
4、誓願を守り行う
四つ目は聖の内容で、主に誓願を立てるときには、速やかにそれを果たします。主は必ず誓願を果たすことを誓願者に求めて、誓願を果たさなければ罪とされます。とても厳しい感じがします。日本的な感覚ですと、ちょっと口が滑っただけと言いたくなるようなこともあるかも知れません。
しかしこれは普段の日常の会話の中で口が滑るような内容ではありません。主に対する誓願です。しかし日本では主への誓願であっても、口が滑って出た言葉は、言葉の音が消えると共に消えてしまうような感じもあります。
しかし聖書的には、唇から出たこと、自らの口によって語ったことは、その人の人格の延長と捉えます。神の言はヨハネ1:1に、「言は神であった」とありますように言は神そのものです。日本でも言霊といって、言葉には現実になる力が働くと考えられていて、結婚式では「別れる」という言葉を使ってはいけない等の忌み言葉があったりします。主に誓願を立てたとおりに、守り行わなければなりません。
誓願を果たさなければならなくなるような大変な目に遭わないためにはどうしたら良いのでしょうか。誓願を立てることをあなたが控えたとしても、それはあなたの罪にはなりません。初めから誓願をしなければ良いということです。主イエスはマタイ5:34で、「一切、誓ってはならない」と言われ、その後に、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪から生じるのだ。」と言われます。
言葉はとても難しいものです。言ったことを直ぐに変える人はいます。良く言えばとても柔軟な人です。問題となるのは自らの口によって語ったことと後になって全く違うことを言う、一般的にいう嘘を付いたり、話す相手によって言うことを変える二枚舌、三枚舌を使うことです。「言った、言わない」で揉め事になることは良くあることです。
人に隠れて言った言葉、書いた言葉等は例え他の人は知らなくても、全能の主は全てをご存じで必ず報いを与えられます。聖なる言葉を語るなら祝福されますので感謝なことですが、悪の言葉を言うなら報いを受けます。聖霊の導きに従って慎重に言葉を選びたいものです。
ただ高齢化と共に自分の言った言葉を忘れ易くなることはありますので、それはお互いに責めるのではなく、受け入れあう必要があることです。日本でも、「言葉は人格を表す」と言いますが、聖霊の導きに従って御霊の実の言葉を語り、キリストの香りを放つ者でありたいものです。
5、隣人の畑
五つ目は憐れみの内容で、「隣人のぶどう畑に入ったなら、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよい。」です。ここの隣人のぶどう畑に入る人はどのような人が想定されているのでしょうか。これまでの話の続きとして貧しい人や旅人等です。お金持ちが毎日、隣人の畑に入って、思うまま満足するまでぶどうを食べること等は想定していません。
食べることに困る人は、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよいということです。私はぶどう狩りはしたことがありませんが、いちご狩りは千葉で何度かしたことがあります。ここぞとばかりについ一杯食べてしまいますが、いちごの水分量は90%と言われていて、それ程に食べられるものではありません。いちご狩りの後は水分の取り過ぎで、家族皆でトイレに何度も行きました。
その場で思うまま満足するまでぶどうを食べてもよいのですが、籠に入れて持ち帰ってはなりません。そこまですると泥棒になってしまいます。命を保つための分位は食べてもよいけれど、それ以上はだめだということです。ぶどう狩り等も同じで、その場で食べるのは食べ放題でも、持ち帰り用は別料金です。
同じように、隣人の麦畑の中に入ったなら、手で穂を摘んでもよいのです。書かれた目的は違いますが、マタイ12:1で主イエスと弟子たちは空腹になったので、通りがかった麦畑で穂を摘んで食べたとあります。空腹を満たす分は食べてよいのです。しかし、隣人の麦畑で鎌を使ってはなりません。
しかし聖書にこのように書かれているからといって、そのままに、ぶどう畑に入ってぶどうを食べたら捕まってしまいます。やはり聖書の書かれた背景を考える必要があります。聖書にこのような記述があるためかどうか分かりませんが、キリスト教国のスーパー等では試食はしていないのに売り物を勝手に食べる人がいましたが大らかな感じがしました。
6、憐れみと聖
先程、「憐れみと聖」の説教題を付けた意味をお伝えしましたが、憐れみと聖は神の御性質そのものです。神は聖なるお方ですので、悪をそのままにしておくことはできません。そこで、「悪を取り除きなさい」と申命記では繰り返し命じられます。そして会衆に加わる資格や陣営を清く保つことを命じられました。
しかし同時に人は弱く、罪深いものです。この当時は経済的・物質的な貧しさから悪の道へ進まざるを得ない人が多かったようです。そのために貧しい人を悪の道へ進ませないために、憐れみによって、逃れて来た奴隷を共に住まわせ、同胞を神殿娼婦や神殿男娼にさせないために無利息で貸して、隣人の畑に入って食べること等を認めます。
現代では経済的・物質的な貧しさは依然としてあるものの、この当時よりは程度は良くなっていますし、平均的には豊かになっています。しかし霊的な心の貧しさはむしろ酷くなっていて、憐れみも失っています。逃れて来る人を自分と共に住まわせずに、虐げたり、送り返してしまうことがあります。
経済的な貧しさではなく心の貧しさのために売娼行為を行ったり、同胞に違法な高利息で貸したり、そして返済ができないと売娼行為に追いやったりと、ここで書かれていることの逆のことが行われます。主イエスはマタイ5:3で、「心の貧しい人々は、幸いである 天の国はその人たちのものである。」と言われました。
心の貧しい人々が幸いであるのは、主イエスの十字架による罪の赦しと天の国を、心の貧しさのゆえに素直に飢え乾き求めるはずだからです。しかし神が恵みによって招いてくださっている救いを拒んで、悪を行ってしまうなら、心の貧しさは更なる悪の原因となってただ辛いだけのものになります。
神は聖でおられ、聖であるが故に、憐れみを持って私たち人間に、主イエスを信じるという救いの道を与えてくださいました。神は憐れみの大切さと共に、何でもなし崩し的にあやふやにするのではなく、聖であることをきちんと守ることの大切さを厳しく命じられます。それは私たちのすべての手の業を祝福されるためです。
聖霊に導きに素直に従って、神の憐れみであり聖となるための救いに与らせていただきましょう。そして神が憐れみと聖を大切にされているように、私たちも聖霊の導きに従って憐れみと聖のバランスを取りつつ歩み、すべての手の業を祝福していただきましょう。
7、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは自分でも気付かない内に、自分の都合だけを考えてしまいがちな自己中心的な存在です。しかしあなたはそのような私たちを救うために御子イエス・キリストを十字架に付けられました。
主の憐れみによって救われる者が、聖霊の導きによって隣人に憐れみを持ちつつ聖を守ることができますようにお導きください。そして私たちのすべての手の業を祝福してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。