「人から出て来るもの」 

2025年6月8日 礼拝式説教 
マルコによる福音書7章14~23節
        
主の御名を賛美します。

1、群衆へのたとえ
先週の個所で主イエスはファリサイ派の人々と律法学者たちと議論をされました。今日の場面では、それから群衆を呼び寄せられました。いつもは群衆の方から主イエスのもとに集まることが多いですが、主イエスが呼び寄せられるのは、12使徒を任命し(3:13)、派遣されるとき(6:7)など、とても大切なことを話されるときです。私たちも何か大切な話があるときには、相手を家に招くなどして呼び寄せます。

先週の5節で、ファリサイ派と律法学者は、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と尋ねました。そこには二つの問題がありました。一つは言い伝えに従わないことで、もう一つは汚れた手で食事をすることです。

それに対して主イエスは6~13節で、一つ目の、言い伝えに従わないことについて答えられ、13節で結論として、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしていると反論されました。今日は二つ目の問題の、汚れた手で食事をすることについてです。

初めに主イエスは、「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい」と言われます。それはこれから言われることは、たとえ(17節)なので、聞いただけでは良く分からず、悟る必要のある内容であるということです。そして、「外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである」と言われます。

これは確かに悟る必要のある言葉です。普通に考えますと人から出て来るものは人から出て行ってしまうので人を汚すことはなく、反って外から人に入って来るもの、例えば汚染物質などが人を汚す感じがします。4:11にありましたように、神の国の秘義は外の人々には、たとえだけで語られます。

ここで分かりますことは、主イエスは汚れの問題を有耶無耶にされたのではありません。むしろ汚れの問題を大切に考えられ、その御心をきちんと語られます。ところで、15節の次が17節になっていて、間に「♰」マークが入っていますが、これは97pに説明がありますように写本によって7:16の入っているものがあるということです。

2、外から人に入って来るもの
主イエスは群衆と別れて家に入られました。弟子たちは先程のたとえの意味が分かりませんので主イエスに尋ねます。すると、「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」と言われつつも、弟子たちには説明をされます。この説明は直接的には弟子たちに対してですが、それは今日、聖書を読んでいる私たちへのためでもあります。

そして、「すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか」と15a節の内容を繰り返し強調されます。そしてその理由として、「それは人の心に入るのではなく、腹に入り、そして外に出されるのだ」と言われます。

ここでは汚れた手で食事をすることについて話していますので、確かに食べ物は腹に入り、そして外に出されます。「外に出される」という意味は説明する必要はないと思いますが、原語ではストレートに、「トイレに出される」と書いています。

しかし理屈っぽい人は、外から入って来る食べ物は腸で吸収されて、人の中に入って来ると思われるかも知れません。しかしここは物質的なことを言っているのではありません。霊的なことを言っています。物質的な食べ物は例え人の体の中には入っても、心の中には入りませんので霊的に人を汚すことができません。

それで、2節で弟子たちが洗わない手で食事をしても霊的に汚すことはありません。しかしそこで汚すことはないというのは、宗教的な意味での汚れです。主イエスが外から人に入って来るものは、人を汚すことができないと言われますので、この後の昼食の前に手を洗わないというのは宗教的には問題はありませんが、衛生的な意味で問題となります。

3、すべての食べ物は清い
そのお考えから導き出される結論は衝撃的です。このように、主イエスは、すべての食べ物を清いものとされました。マルコは説明の文章としてこのことを書きましたが、もしかしますと弟子たちはその内容に気付いていなかったかも知れません。

主イエスはこの7章で、初めに当時の人たちが権威があると思っていた人間の言い伝えを、御心に従わないものは否定されました。更に、すべての食べ物を清いものとするということは、レビ記11章の食物の規定を更新するということです。

使徒言行録10:15で、ペトロに神の啓示があって、すべての生き物が大きな布のような入れ物に入れられて、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と語られる有名な場面があります。しかしそれに先立って、ここで主イエスが、すべての食べ物を清いとされています。

旧約の戒めは誰が見ても分かり易いように、食物の規定に限らず、外面的な内容です。例として神の民としての契約のしるしは肉体の割礼です。そして食べ物はレビ記11章の食物の規定で定められたものです。誰にでも見える外側の内容で神の民を他の民と区別していました。

しかし時間が経つにつれて、外側のかたちだけは一応は守るけれど、肝心な戒めの中身が空になってしまいました。そこで神の戒めは新約になりますと、内側の霊的な戒めになりました。そこで神の民の契約のしるしは、肉体の割礼から霊的な心の割礼である洗礼になりました。

食べ物は物質的な食べ物ではなく、霊的な食べ物で神の民は区別されることになりました。神の民が食べる霊的な食べ物とは、主イエスがヨハネ4:34で言われた、「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」です。御心を行い、その業に与ることが神の民の食べ物であって、その食べ物によって神の民は成長し、他の民と区別されます。

4、人から出て来るもの
さらに主イエスは、「人から出て来るもの、これが人を汚す。中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る」と言われます。そして悪い思いとは具体的に、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒涜、高慢、愚かさ、と12個の例を挙げられます。

先の内容になりますが12:28~31で、主イエスが律法学者から、あらゆる戒めのうちで、どれが第一かと問われ、「第一の戒めは、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。第二の戒めは隣人を自分のように愛しなさい」と答えられます。

12個はどちらの戒めを破るものかと考えますと、「神である主を愛しなさい」を破るものは、貪欲、放縦、冒涜、高慢、愚かさ、であり、「隣人を自分のように愛しなさい」を破るものは、淫行、盗み、殺人、姦淫、悪意、欺き、妬み、になるでしょうか。

そしてこれらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのです。「神である主を愛しなさい」の戒めを破る者は、初めは破る本人だけを汚すものです。しかし第一の戒めを破る者は、それだけに留まることはなく、次に第二の戒めの、「隣人を自分のように愛しなさい」を破ることになり、隣人を汚し、隣人に迷惑を掛けることになります。それによって汚れは社会に拡大して行きますので恐ろしいものです。

ここで人から出て来て、人を汚すものとは直接的には何を指しているのでしょうか。文章の流れから考えますと、直前で言われている人間の言い伝えを指していると思われます。11、12節の、「コルバンと言えば、その人は父や母のために、もう何もしないで済む」などと言うのは、盗み、貪欲、悪意、欺き、放縦、冒涜、高慢、愚かさ、であると言えます。

しかし、人間の言い伝えがすべて間違っていて悪い訳ではありません。この福音書はマルコがペトロから聞いた言い伝えを記したものと言われています。また新約聖書の多くの手紙等はパウロ等が聞いた福音の言い伝えを記したものです。御心に従った言い伝えは福音の宣教に用いられる大切なものです。

この聖書箇所を現代の生活に照らしますとどのようなことが考えられるでしょうか。外から人に入って来るものは、人を汚すことができないのですから、更に、外から人に入りもしないものは、人を汚すことができるはずがないと考えられます。例えば日本には、仏教や神道に基づく宗教的習慣があります。

葬式のときの焼香や、家に仏壇や神棚がある家もあります。今日の聖書箇所から考えますと、そのような異教のものがクリスチャンを汚すことはありません。しかしⅠコリント8章の、「偶像に献げた肉」の問題と同じで、同じ信仰者でも考え方や感覚に違いがある場合もありますので、人をつまずかせない配慮が必要です。

しかし人の心から悪い思いを引き出すものは人を汚します。自分では悪い思いを持とうという気がたとえなくても、現代のネット社会では、色々な手段を用いて、悪い思いを刺激して、悪を引き出そうとする力があります。私たち人間はすべて、原罪を犯したアダムとエバの子孫であり、生まれながらに罪を持っていますので、ひょんなことで中から悪が出て来ることがあります。
しかし同じように罪は持っていますが、この福音書を書いたマルコや、新約聖書の多くを書いたパウロ等は御心に従った働きを多くしています。その違いを生むものは何なのでしょうか。人の中の心から悪が出て来るのですから、悪があるのに表面だけを取り繕って綺麗に見せようとしても無理があります。

50年前のトイレの消臭剤のキャッチコピーで、「臭いにおいは元から絶たなきゃダメ」というものがありましたが、罪の問題も全く同じです。では罪を根本的に解決するにはどうすれば良いのでしょうか。6:56の終わりに、「主イエスの衣の裾に触れた者は皆、癒された」とあります。「癒される」という言葉は、「(罪から)救われる」という意味もあるものです。罪から救われて解放された状態を保つには、主イエスに触れ続けて、心を清くし続けていただく必要があります。

そのために主イエスはまず初めに私たちの罪の身代わりとして十字架に付かれました。そして十字架の死から三日目の50日前のイースターに死に勝利されて復活されました。それにより主イエスを信じる者の罪を赦してくださいます。

主イエスを信じる者の罪は赦されますが、それだけではまだ十分ではありません。罪を赦されても罪深い性質は残ったままであるからです。そこで主イエスは10日前に天に上げられ、今日のペンテコステ(聖霊降臨日)に聖霊を降されました。そして主イエスを信じる者には聖霊が働かれ、悪い思いとは正反対の善い思いを与えてくださいます。

そして聖霊の導きに素直に従う者には、ガラテヤ5:22、23の霊の実を結ばせてくださいます。ファリサイ派や律法学者たちも本当は正しい生き方をして霊の実を結びたかったはずです。だからこそ、昔の人の言い伝えを守り、食事の前に念入りに手を洗うなどのことをしていました。

しかし自分たちの言い伝えに熱心になる余り、いつの間にか神を見失い、言い伝えの方が御心よりも優先されるようになってしまいました。私たちにも似たようなことは起こります。しかしそのようなときには聖霊が私たちに働いてくださいます。そして私たちが御心から外れないように示して導いてくださいます。

聖霊の導きを感謝して素直に従わせていただきましょう。聖霊の導きに従う者には霊の実が約束されていて、喜びに満たされます。自分が本当に聖霊の導きに従っているかどうかは分かるはずです。しかし聖霊の導きに逆らい続けていると、感覚が麻痺してしまうのか分からなくなってしまうようです。主イエスが十字架の代価を支払って、私たちに遣わしてくださる聖霊に感謝して従わせていただき、愛と喜びに満ちた人生を歩ませていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神を信じる者は誰もが清い生活を送りたいと願います。それがときに行き過ぎてしまい、人間の考える言い伝えを守ることで満足し、神の御心から離れて、悪い思いが出て来ていることに気付かないこともあります。しかしあなたは今日のペンテコステに聖霊を送ってくださいました。私たちが毎日、神と交わる中で、聖霊で私たちを満たしてください。そして悪い思いではなく、霊の実を結び愛と喜びに満ちた人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名に、よってお祈りいたします。アーメン。