「主が共におられる」
2026年7月26日礼拝式説教
ヨシュア記 6章1~27節
主の御名を賛美します。
1、あなたの手に渡す
エリコは5:1にありましたように、主がイスラエルのためにヨルダン川の水を涸らし、彼らを渡らせたことを聞いて立ち向かう勇気を失いました。そのため城門を堅く閉ざし、誰も出入りする者がいません。エリコの城壁は高さ7.5m、厚さ6mある堅固なものと言われます。
主はヨシュアに言われます。ここでヨシュアに直接話をしているのは、話の流れとして主の軍勢の長と思われます。「見ていなさい。私はエリコとその王、力ある勇士たちをあなたの手に渡す。」 聖書協会共同訳は未来のことですので、「あなたの手に渡す」と訳していますが、原語は完了形で書かれていますので、新改訳の「あなたの手に渡した」のニュアンスです。
それはこの世ではまだ起こっていませんが、主の目には霊的に既に完了しているということです。船舶での命令は全て完了形であることを思い出しました。カッターで櫂立てを命令する時には、「櫂立てた」と言います。ヘブル語的だと思われるかも知れませんが、船舶の命令で完了形を使う理由はその状態を保ち続ける意味が含まれているからです。
ヨシュア記を読んでいて感じることはとても丁寧に書いていることです。同じ内容を三段階に分けて、初めに主がヨシュアに言われたこと、次にヨシュアが人に言うこと、三番目に人が実行したことです。
6章では、初めに主がヨシュアに言われたことですが(2~5節)、ヨシュアが人に言うことと(6、7、10、16~19、22、26節)、人が実行したこと(8、9、11~15、20、21、23~25節)は順番的には混ぜて書かれています。
2、隊列
初めに隊列の組み方ですが、先頭は武装した者たちです(9節)。これは恐らくルベン族、ガド族、マナセ族の半数と思われます(4:12)。二番目は七本の雄羊の角笛を持つ七人の祭司たちです(6節b)。角笛は王の即位や50年に一度のヨベルの年(レビ25:9)等の宗教行為に用いて、軍事行為にはラッパを用います。今回、角笛を持つことはエリコの占領は主が行われる宗教行為であるということです。
三番目は契約の箱を担ぐ祭司たちで(6節a)、四番目の一番後ろは武装したしんがりです(9節a)。今回はヨルダン川を渡るときと、並び方が違います。なぜかと思いますが、今回は人の目には見えませんが、抜き身の剣を手にした主の軍勢の長が先頭の武装した者たちの前にいるからと思われます。
3、六日間の行進
主がイスラエルに命じられたことは、隊列を組んで角笛を吹き鳴らし、エリコの町を一巡りすることを六日間行うことです。そこには禁止事項が三つあります。一つ目は、鬨の声を上げてはならないです。鬨の声は、戦いの前に戦士が士気を高めるために上げる掛け声で、「エイエイオー」というようなものです。
二つ目は、声を聞かれてもならない、三つ目は、口から言葉を発してはならないです。もし自分がこの隊列に入って行進をする立場であったらどのように思うでしょうか。敵の心が既に挫けているのなら、鬨の声を上げて更に恐れさせたいと思うでしょうか。
そもそも何のためにこのような行進をするのか、一体、このような行進に何の意味があるのかという思いもあるかも知れません。しかしそのような思いがあっても口から言葉を発してはなりません。これは人間の軍事行動ではなく、主の宗教行為です。
神の教えには同じ部分があります。神の教えに従うことに何の意味があるのか、何に繋がるのか分からないということが時にあるかも知れません。しかし黙って神の教えに従うなら、時が満ちる時に御業が起こります。イスラエルは主の命令に従って六日間繰り返しました。
エリコの人々はイスラエルの行進をどのように感じているのでしょうか。角笛の音が鳴り響いて不気味に感じたことでしょう。それが六日間繰り返されて恐怖で震え上がる人もいたでしょう。もしかすると、イスラエルは近くに来ているけれど、堅固な城壁で、流石のイスラエルも手が出せないと思った人もいるかも知れません。
4、占領
七日目には朝早く、夜明けとともに起き、定めに従って町を七週しました。ここで一つの疑問が浮かびます。エリコの町の行進を七日間しているということは、その中の一日は必ず安息日であるはずです。安息日にこのような行動をするのは許されているのでしょうか。
これは七日目が恐らく安息日と思われます。エリコの占領は、主の命令によりエリコを悪の支配から解放する宗教行為であり礼拝行為であるとの考えであると思われます。6章では、七人の祭司たちは、七本の雄羊の角笛を持ち、七日目には七周と、「七」の聖数を用いて強調します。主イエスも、「安息日に善いことをするのは許されている」(マタイ12:12)と言われます。
七周目、祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは主の命令に従って二つのことを兵に命じます。一つ目は、「鬨の声を上げよ。主はあなたがたにこの町を与えられた」(16節b)です。兵が鬨の声を上げると城壁は崩れ落ちました。これは勿論、主の御業です。
自然科学的にはどのようなことが考えられるでしょうか。この場面は共鳴だと思われます。物体にはそれぞれ固有の振動数がありまして、同じ波長や振動を外から受け取ると、振幅が増大して大きな音や揺れが発生します。
地震の時には共振になりますが、揺れの振動数が地震の振動数と合う建物は大きく揺れます。角笛は当時、一番大きな音を出す楽器です。そうは言っても、一週間の角笛の音と鬨の声の共鳴による振動だけで堅固な城壁を崩すことは不可能でしょう。
霊的に考えますと、エリコの人々の心は挫けて立ち向かう勇気を失っています。そこに大きな角笛の音が響くと弱っている心にひびが入ることでしょう。人と人の住む建物を一体と考えますと、ひびの入ったところに共鳴による振動で、崩れ落ちたと言えます。いずれにしてもこれは主の御業です。
イスラエルの目の前で堅固で大きな城壁が人の力で何もすることなく崩れ落ちました。イスラエルにとっては、自分たちの目の前でヨルダン川がせき止められて干上がることに続く大きな御業です。主の強い御力を覚えたことでしょう。兵は各自の持ち場から町に突入し、町を占領しました。
二つ目の命令は、「この町とその中にあるすべてのものを滅ぼし尽くし、主への献げ物とせよ」(17節a)です。これはなぜなのかと思いますが、エリコはヨルダン川の西側のカナンの地としては、初めの占領地になりますので、初穂としてすべてを主に献げるためと思われます。
「滅ぼし尽くすべき献げ物に手を出すとき、イスラエルの宿営もまた滅ぼし尽くされるものとなり、災いがもたらされるだろう」(18節)とヨシュアは警告します。兵は町の中の、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまですべてのものを剣にかけて滅ぼし尽くしました。これは聖絶と言われます。
聖絶については、クリスチャンでも疑問に感じる人はいると思います。理由としては、残酷であるとか、聖絶をされる立場からしたら余りにも自分勝手過ぎるということ等です。聖絶を行う理由については、申命記20:18にあります。直接の理由は、イスラエルが先住民の罪深い影響を受けて、罪を犯すことのないためです。それは滅ぼされる先住民の悪が満ちたからであるとも言えます。
聖絶は聖書の中でも限られた時代、地域だけで言われていることであり、新約の時代にはありません。それで聖絶をそのままのかたちで現代に適用を行うことはできません。現代に適用を行う場合には他人等を聖絶するのではなく、自分の中にある悪を聖絶することになります。
5、例外
すべてのものを滅ぼし尽くし、主への献げ物としますが、「ただし」で始まる例外が二つあります。一つ目は、遊女ラハブと彼女の家にいるすべての者です。エリコの地を探った二人の斥候は、ヨシュアの命令に従って、ラハブに約束したように、ラハブとその父、母、兄弟、および彼女に連なるすべての者を連れ出しました。
しかし当初は彼女たちをイスラエルの宿営の外にとどめておきました。それはラハブと彼女に連なる者は助け出されましたが異邦人だからです。イスラエルの宿営は主が共におられる聖なるものですので(申命記23:15)、この当時の異邦人は入ることができません。
しかし彼女たちをヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住み着き、今日に至っていました。それは彼女たちが主を信じて、男性は割礼を受けたからと考えられます。エリコの聖絶という悲劇の中で、異邦人の遊女ラハブは真の神を信じて、自分の命の危険を顧みず、斥候をかくまう信仰の行いによって、自分と家族を救います。悲劇の中でも主は信仰を持つ小さな者を救ってくださいます。
聖絶の例外の二つ目は、銀と金、そして青銅と鉄の器です。これらは主への聖なる献げ物として主の宝物庫に納められました。これらは主の礼拝の用具に用いられるようです。
6、エリコ
エリコはこのように占領地の初穂として聖絶して主に献げられました。エリコの地名は、「月の町、芳香の町」の意味です。この時ヨシュアは誓います。「この町エリコを再建しようとする者は主に呪われよ。その基礎を据える者は長子を失いその門を建てる者は末子を失う」と。
しかし、ヨシュアはエリコをベニヤミン族に与えて(18:21)、人が住みますが(士師3:13、サムエル下10:5)、特に問題は無かったようです。「再建する」の原語には、「要塞化する」の意味もあり、「城壁のある要塞を建てる者は呪われる」の意味のようです。
実際、四百年後にベテル人ヒエルがエリコを再建し預言が成就しました(列王記上16:34)。聖書に預言されているのですから、敢えて、エリコを再建する必要は無いように思えます。しかし、傲慢な人間の心には敢えて神の言葉に逆らいたいという思いがあるのでしょうか。恐ろしいことです。
7、主が共におられる
エリコの占領は無事に行われました。そして、主がヨシュアと共におられたので、彼の名声は全地に及びました。1:5で約束された通りです。旧約の時代は主が選ばれる特定の人が、主に忠実に歩むことにより、主が共におられ、その人が祝福の基となって、祝福が人々に及びます。
しかし新約の時代は異なります。主イエスの十字架によって、主イエスを信じるすべての人の罪は赦されます。それにより主イエスを信じるすべての人と主は共におられます。全能の主が自分と共におられることは、この当時の人から見ると考えられないような大きな恵みです。
私たちは大きな恵みの時代に生きています。恵みは知るだけではなく、自分が受け取って初めて意味を持ちます。恵みを感謝し、聖霊によって主に従って歩み、主が共におられる祝福の道を歩ませていただきましょう。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ヨシュアは主の御言葉を正しく聴き、人に伝えて、一つ一つを慎重に実行し、共におられる主によって成功を収めました。私たちも共におられる主に信頼し、聖霊の導きに従って御心を行い祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
