「イスラエルの占領」

2026年9月20日礼拝式説教  
ヨシュア記 12章1~24節

主の御名を賛美します。

1、12章

聖書朗読を聞いてどのようなことを感じられるでしょうか。イスラエルの歴史を学ぶための、お勉強的なような感じで少し面白みに欠けると感じるでしょうか。聖書には色々な内容のものが含まれています。ストーリー的に面白い物語の内容や、教訓として教えられる大切なものは、クリスチャンでない人が聞いても面白いと感じると思います。

その一方で聖書通読をしていますと、レビ記のいけにえの内容や、民数記の規定の内容になりますと、クリスチャンでも、聖書の知識以外に、そこから何を受け取ることができるのかと考えてしまうことがあります。牧師もそこからどのような説教をしたら良いのだろうかと考えさせられます。

主イエスはマタイ4:4で、申命記8:3を引用され、「『人はパンだけで生きるものではなく 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」と言われます。ヨシュア記は神の霊感を受けてヨシュアが書いたものです。そこには単なるイスラエルの歴史を超えた、信仰者が生きてゆくための霊の糧があるはずです。その霊の糧を得るために御言葉を聴かせていただきましょう。

2、イスラエルの占領

イスラエルの人々は、ヨルダン川の東側では、アルノン川からヘルモン山まで、さらに東アラバ全土を討ち、それらの地を占領しました。アラバはヨルダン川沿いの低地帯の名前で、東アラバはヨルダン川の東側の渓谷を指します。

「その王たちは次のとおりである」というと沢山いそうですが二人だけです。ヨシュアはこれまでも、この二人の王の名前を何度も出して強調します。一人目はアモリ人の王シホンで、ヘシュボンに住んでいました。アルノン川からヤボク川に至るまでを支配していましたので、ヨルダン川の東側の南部です。

民数記21:21で、イスラエルはシホンを攻撃するつもりはなく、使者を遣わして領地をただ通らせてくださいとお願いしました。しかし、シホンはそれを拒んでイスラエルと戦いましたが敗れて占領されました。

もう一人はレファイムの生き残りであるバシャンの王オグです。レファイムはカナンの原住民で巨人です。バシャンは「平坦な地」の意味で、高地の平原で北はヘルモン山、南はヤルムク川になります。ヨルダン川の東側の北部です。ギルアドはシホンと半分づつ支配していました。

主の僕モーセとイスラエルの人々は彼らを討ち、主の僕モーセはそれらの土地を、欲しいと言った

ルベン人、ガド人、マナセ族の半数に所有地として与えました。

ヨシュアとイスラエルの人々は、ヨルダン川の西側をも東側と同じように討ちました。ヨシュアは、レバノンの谷にあるバアル・ガドから、セイルの途上にあるハラク山に至る地を、イスラエルの各部族の割り当てに従って所有地として与えました。その地の王たちは次のとおりであるといって、31名の王の名を挙げます。以上が12章の大まかな内容になります。

3、ヨシュア記12章の意味

先程、聖書の御言葉には信仰者が生きてゆくための霊の糧があるはずとお話しましたが、この箇所の霊の糧はどのようなものでしょうか。そのことを考える初めに、ヨシュアは12章を含めてなぜこのような内容を書いたのでしょうか。その目的はどのようなことでしょうか。

聖書は主から霊感を受けた人たちが書いたものです。ヨシュアも主からの霊感を受けたのでヨシュア記を書いたのが一番大きな理由です。ただ現実的な理由としてはヨシュアが仕えていたモーセがモーセ五書と言われる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を書いた影響も大きいようです。

ヨシュアはモーセがモーセ五書を書いたので、自分もモーセのように聖書の作家になろうとした訳ではありません。モーセ五書がモーセの後継者としてイスラエルのリーダーとなるヨシュアに、とても役に立ち、必要なものであったからだと思われます。

モーセ五書には大きく二つの内容があると考えられます。一つは神である主はどのようなお方であるかについて、またその教えや契約についてです。モーセは十戒を中心とする律法を授けられた者として、その内容をすべての人に子孫も含めて正しく伝える責任を負っていました。

もう一つは、一つ目の主との契約の証しとしてのイスラエルの歴史です。主は神のかたちとして人を造られ、アブラハムやモーセを選ばれ、契約を結ばれました。イスラエルが主との契約に忠実に歩むときには祝福され、不従順に歩むときには裁きがくだされます。

イスラエルの歴史は主との契約に対する証しと言えます。そのためもあってかイスラエルは歴史をとても大切にします。歴史を知ることは自分たちの先祖の起源を知り、これまでの過去を振り返り、どのような歩みをして来たかを知ることです。それによって、現在、自分がどこにいるかを知り、また将来にどこに向かって進んで行くかを知ることができます。

私たちの教会の70周年の御言葉である、創世記16:8の「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」は、聖書全体の骨格を表す大切な御言葉でもあります。そのこともあり私たちも70周年のときに過去を振り返り、現在を知り、また将来を考える大切なときを持ちました。

歴史を大切にしているのは旧約聖書の中だけではありません。新約聖書でも使徒言行録で、初めの殉教者となるステファノは訴えられて答弁に立つと7:2~53で延々とイスラエルの歴史を語りました。その真実の言葉に耐えられなくなった人々はステファノを殺しました。

パウロも話す機会が与えられると13:16~41でイスラエルの歴史を語ります。ステファノとパウロは何か目新しいことを語った訳ではありません。むしろユダヤ人であれば誰もが知っているはずのイスラエルの歴史です。しかしステファノとパウロの話を聞いた人々は心を大きく動かされました。

これは私たちも経験することです。この礼拝式に集っておられる方は人によってそれぞれ違いがあります。聖書をまだ全部は読んでいない方もおられるかも知れません。中には聖書を何度も通読している人もおられることでしょう。聖書を何度も通読している人の多くは、それでも毎日、聖書を読み続けている人もおられることでしょう。

聖書を何度も通読して知っているのになぜ読み続けるのでしょうか。それは聖書は単に知識を伝えるだけではなく、霊の糧を与えるものだからです。イスラエルの歴史の一つ一つの出来事は、すべて主との契約にイスラエルがどのように歩んだかを示す証しです。

そのことが分かりますとこの12章の内容の意味が分かります。12章には二つの意味があり、一つ目はイスラエルの歴史としての事実です。二つ目は、主がヨシュアに1:2~9で語られた命令と約束の成就の意味です。

先週の詩編103:3に、「私の魂よ、主をたたえよ。そのすべての計らいを忘れるな」とありました。すべての計らいを忘れないためには三つのことをする必要があります。一つ目は、まずすべての計らいを忘れないようにきちんと書き残します。

二つ目は、その計らいを忘れないためには、ただ書き残すだけではなく、繰り返し読み返します。三つ目は、自分だけが覚えるのではなく、他の人にも伝えてゆきます。そのためにもヨシュアもこの12章を書いたと思われます。それで聖書で12章のようなイスラエルの歴史的な記述を読むときに、それは主がイスラエルに与えられた計らい、恵みの事実として読むことができます。

4、現代への適用

主がイスラエルに与えられた計らいを知るだけでも大きな意味はあります。しかし今から約三千四百年前にイスラエルに与えられた恵みは、現代にも与えられています。その意味では、すべての計らいを忘れないためには、現代の自分に与えられた恵みを忘れない必要があります。

そのためにはヨシュアが12章を書いたように、私たちも与えられる恵みを、こと細かく書き留める必要があるでしょう。日記を付けている人は恵みを書き留めているかも知れません。しかし私も日記は付けていません。

しかしクリスチャンには証しをする機会がありますので、そのような機会はチャンスです。与えられる証しの機会をぜひ用いて、自分に与えられた恵みを忘れずに覚えるときとしていただければと思います。それも一回、証しをすれば良いということではありません。

ヨシュアもヨシュア記でシホンとオグのことを何度も書いているように、事あるごとに何度も繰り返します。それは自分自身も何度も思い返して主に感謝をするためでもあります。私も依頼されて文章を書く時に、恵みを思い返しますと、改めてそのような恵みがあったことを思い出し、主に感謝すると共に、主に対する信頼が強められます。

それはまた証しを聞く人に与えられる恵みでもあります。以前は同じ人の同じ証しは一度聞けば良いようにも思っていました。しかし最近は違うように思います。聖書では、主の大切な話は何度も繰り返し語られます。またイスラエルに起こった出来事も大切なことは何度も繰り返し語られます。

それは聖書を繰り返し読むことと似ています。同じ証しも繰り返し語られることによって、聞く人に少しずつ染み渡って行きます。同じ聖書箇所を読んでも読むときによって受け止め方や心に留まる内容が異なることがあります。ぜひ証しを自分のために、また他の人のためにも、書く、話す、機会を生かしていただけたらと願います。

ところで、過去の恵みを思い返すことは、主に感謝するためだけのことでしょうか。そうではありません。先程もお話しましたが、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(創世記16:8)の御言葉のとおりに、「あなたはどこから来た」か過去を正しく知れば、現在、自分がいる場所を正しく知ることができます。

そして過去から現在に至る道を正しく辿りますと、そのままの向きで進んで行くと将来、どこへ向かっていくのか将来を見通すことができます。これは現在は全く同じ場所にいても、向かっている向きによって将来、進んで行く先は正反対になることもあります。

それは例えばこの礼拝堂にいる方々は今は同じ場所にいますが、北の茂原駅の方から真っ直ぐに南に下って来た方が、その同じ向きで真っ直ぐに南に進み続けますと、睦沢町に向かって行きます。

逆に睦沢町から北に向かって来た方がその向きで進み続けますと大網の方へ進んで行くことになります。一時的に同じ場所にいても、どちらを向いているかでその行先は全く異なることもあります。

その意味からも、「あなたはどこから来た」のか過去を正しく知る必要があります。信仰者にとって大切なことは御心に従って歩むことであり、この世的な意味での成功は目指すものではありません。しかし御心に従って歩むなら、12章のように、主が与えると約束されたものは与えられます。

そして何よりも大切なことは、今、自分がどちらを向いているのかです。「悔い改める」という言葉の原語の意味は、「向きを変える」です。今、現在はたとえどこにいても、悔い改めて主に心の向きを変えるなら、主が共におられ祝福へと導いてくださいます。

すべての人の罪の赦しのために、主は御子イエス・キリストを十字架に付けられ、聖霊を遣わされ、私たちを悔い改めに導いてくださいます。聖霊の導きに従って悔い改め、主に心の向きを変えて祝福の道を歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ヨシュア記12章には主がイスラエルに与えられた計らい、恵みの事実が書かれています。同じような恵みは私たちにも与えられています。私たちも自分に与えられた恵みを忘れることなく、きちんと覚えて感謝するときを持たせてください。そしし、聖霊の導きに従って、悔い改め続け、主に心を向けて祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。