「相続地の占領」
2026年10月11日礼拝式説教
ヨシュア記 15章1~63節
主の御名を賛美します。
1、ユダ族の境界線
いよいよヨルダン川の西側の相続地の割り当てになります。一番初めはユダの家系の部族です。ユダはお父さんのヤコブの第一婦人であるレアによる4男です。ヤコブは天に召される前に創世記49章で、12人の息子たちの将来を預言し、祝福しました。
長男のルベンは父の寝台を汚しました。次男のシメオンと三男のレビは妹のディナの復讐のためとはいえ暴虐を行ったためイスラエルの中に散らすと預言されました。それもありユダがイスラエルの長となると預言されました。民数記の2回の人口調査でユダ族は2回とも最大人数の部族です。
相続地の境界線は南、東、北、西の順で示されます。南の境界線は複雑に入り組んでいますが、東の境界線は死海でシンプルです。北の境界線も複雑ですが西の境界線は地中海でシンプルです。
2~12節で「境界線」という言葉を18回使って強調します。境界線は現代においてもとても大切なものです。
不動産の取引等では測量を行って境界線をはっきりさせて境界に杭等を打ち込み、境界線を接する隣人とお互いに境界線を守るようにします。境界線を巡ってはトラブルが起き易く、隣人との土地の境界線の争いや、国同士では国境線を巡って戦争が起きます。境界線は物質的な問題だけではありません。
「境界線」という本が話題になりました。この本では神との境界線と人間同士の境界線が紹介されています。神との境界線は、神の御心と自分の意志の間にある霊的境界線です。霊的境界線を破る者は人間の分を越えて、神の御心よりも自分の利益のために自己中心的に行動します。それは貪る罪です。
神がその地の住民を追い払えと言われても、自分の利益のために残しておこうと考えたりしてしまいます。神との境界線を守らない者は、当然、他の人との境界線も守ろうとしません。人間同士の間にも越えてはならない境界線があります。
人間同士の境界線は3つ上げています。一つ目は身体的境界線でこれを越えて近付くとセクハラになります。二つ目は精神的境界線で、考えや意見の違いをお互いに尊重することです。またお互いのプライバシーを尊重して、相手が話したがっていないことを根掘り葉掘り聞いたりしないことです。
三つ目は感情的境界線で、感情的にコントロールしたり、支配したり、恫喝したりしないことです。これらの境界線は自分が守ることは勿論ですが、他に人にも守ってもらうようにする工夫が必要です。例えば日本の領空、領海を破って侵入して来る、飛行機や船がいたら警告をする必要があります。何も警告しないと、相手は境界線を破って侵入しても良いものと考えてしまいます。
神は、神に対して、また他の人に対して境界線を破る者にはっきりと警告を与えられ実行されます。
境界線を守ることは人間同士でも健全な人間関係を築くために、また相手に罪を犯させないためにも大切なことです。境界線を守ることは、自分のためにも相手のためにもなり、神にある平和を実現することになります。
2、ユダ族の町
15章は、3つの小見出しの3つの内容になります。1部が1~12節のユダ族の境界線、2部が13~19節のオトニエル、3部が20~63節のユダ族の町です。1部と3部は同じ内容です。1部はユダ族の相続地を境界線で示し、3部はユダ族の相続地を町の名前で示します。
そうしますと15章は中心構造で1部と3部が対称の内容で、2部が中心の内容です。先に1部の対称の3部の御言葉を聴きましょう。初めにユダ族の相続地を1部の境界線で示したのに、なぜまた3部で町の名前で示す必要があるのでしょうか。それは当時、正確な地図が何枚もあったのではないと思われます。
それでは境界線で言われても具体的にどの町がユダ族の相続地に入り、どの町が入らないかが、すべての人にはっきりと分かりません。相続地の割り当ては大切なものですので、間違いなくすべての人に分かるように町の名前でも具体的に示す必要があったと思われます。
1部では南、東、北、西の4つの境界線で示されました。それに対応するように3部では、4つの地域の町の名前で示されます。一つ目は、南の端、エドムの国境にある町です(21~32節)。29の町とそれに属する村とありますが(31節)、町の名前を数えますと36の町があります。
これはどういうことなのでしょうか。19:1~9のシメオン族の相続地の町の名前を見ますと、ユダ族の相続地の名前と重なっています。そして19:9には、「シメオンの一族の相続地は、ユダの一族の割り当て地からのものであった。ユダの一族の割り当て地が大きすぎたため、シメオンの一族が彼らと共に相続地を受け継いだのである」と説明します。
これは創世記49:7のヤコブの言った「私は彼ら(シメオンとレビ)をヤコブの中に分けイスラエルの中に散らす」の預言の成就です。そして二つ目はシェフェラ(低地)、三つ目は山地、四つ目は荒れ野です。
3、オトニエル
ヨシュアは14章にありましたように、主の命令に従い、エフネの子カレブに、ユダの一族の中にあるキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンを割り当て地として与えました。キルヤト・アルバは14:15の説明の通りに、アナク人の中で最も偉大な男アルバにちなんだもので、「アルバの町」の意味です。
アルバはアナク人の先祖で、カレブはそこからアナクの子孫であるシェシャイ、アヒマン、タルマイを追い出し、さらにデビルの住民に向かって攻め上ります。デビルはかつてキルヤト・セフィルと呼ばれていました。ここでカレブにある考えが浮かびます。
カレブは、「キルヤト・セフィルを討ち破って占領した者には、娘アクサを妻として与えよう」と言います。先週の14:15でカレブは「私が彼らを追い払います」と言いましたが、これは直接にカレブが追い払わなくても、カレブの指揮の下で追い払うということです。
ところで皆さんはカレブのこの言葉をどのように思われるでしょうか。私は今回の説教の準備をするまではカレブのこの言葉はあまり好きではありませんでした。手柄を上げる者に自分の娘を賞品のように与えるというのは、犬や猫の子ではあるまいし、何という父親なのだろうと思っていました。
娘のアクサの気持ちも考えるとどうなのだろうかと思います。しかし今回、改めてカレブの考えに思いを巡らす中で気持ちが変わっていきました。父親に取って娘は可愛いものだと思います。カレブは娘のアクサの結婚に相応しい相手は誰なのだろうかと考えていたと思います。
カレブは主に従い通した人です。45年前にカデシュ・バルネアからカナンの地の偵察に遣わされたときには、他の10人は肉眼で見える巨人に囚われて恐れましたが、カレブは霊の目で見て判断し、主のご命令に従って上って行くべきですと主張しました。
デビルにも巨人のアナク人が住んでいたと考えられます(11:21)。カレブは自分の可愛い娘アクサは、肉眼で見えるものに囚われて恐れる者ではなく、自分と同じように主に従い通し、霊の目で見て判断する者に妻として与えたいと考えたようです。
因みにアクサ(「くるぶしの飾り」の意)は魅力的な女性と考えられます。そうでなければキルヤト・セフィルを占領した者には娘アクサを与えようと言われても、誰も占領が困難な地に行かないと思われます。勿論、ただ手柄を上げたいだけという人もいるかも知れません。すると、カレブの兄弟ケナズの子オトニエルがそこを占領しました。
オトニエルはアクサのいとこです。カレブは約束の通りに娘アクサをオトニエルに与えます。アクサはオトニエルが自分の父カレブと同じように信仰的な勇士であることに安心したと思います。イスラエルのリーダーとしてモーセとその後のヨシュアは有名です。ヨシュアの後には士師記で士師が主によって立てられますが、一人目の士師になるのがこのオトニエルです。
4、アクサの求め
「アクサは到着すると、父を唆して畑をもらおうとした」という訳は原語とは違います。ここは新改訳の、「嫁ぐとき、彼女は夫に、自分の父に畑を求めるようにしきりに促した」の意味です。アクサは父を唆したのではなく、夫のオトニエルに促しました。聖書協会共同訳は次の文章との整合性を考えたようです。
アクサがろばから降りると、カレブは「何か用か」と尋ねます。アクサは「お祝いをいただきたいのです。私にネゲブの地をくださったのですから、泉もください」と答えます。この答えからアクサの賢さが分かります。「何か用か」の問いに、直ぐに目的を答えるのではなく、父が結婚を決めてくれたこともあり、その結婚祝いを求めます。
次に、「ネゲブの地をくださった」と言います。「ネゲブ」は「乾燥した」という意味の言葉です。現代でもネゲブ砂漠という地名になっています。そのような乾燥した地をくださったのですから、生きてゆく水を得るために泉をくださいと求めるのは理に適った求めです。カレブはアクサの求めに対して上の泉と下の泉の二つの泉をアクサに与えます。
アクサはお父さんのカレブに似ていると思います。カレブも14:12でヨシュアに、「主があの日約束してくださったこの山地、ヘブロンをください」と求めました。それは理に適った求めです。カレブは自分がヨシュアにヘブロンを求めたように、積極的に泉を求めたアクサを、さすがは我が娘と嬉しく思ったのでしょうか、泉を二つ与えます。
5、相続地の占領
アクサは自分や家族、また自分の子孫が水を飲むための泉を求めました。泉の水は生きてゆくために不可欠なものです。聖書で命の水は、救いによる永遠の命、聖霊を表します。ヨハネの黙示録22:17は、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、値なしに飲むがよい」と言います。
ヨシュア記には救いを必死に求める人たちが描かれています。2章でラハブは、同胞を裏切って、自分の命の危険を掛けてまで自分の家族の救いを求めました。9章でギブオン人は、イスラエルを騙して、遅かれ早かれ、いつかは奴隷にされるのを覚悟の上で生き延びることを求めました。
その求め方は現代の日本に住む私たちには少し違和感を覚える程です。しかし神はそこまで積極的に救いを求めた人々を受け入れられ救われます。その一方で、「ユダの一族は、エルサレムの住民であったエブス人を追い出せなかったので、エブス人はユダの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている」と言います。これが後に問題となってゆきます。
イスラエルに相続地が割り当てられるように、主イエスを信じるすべての者は十字架による贖いによって救われ、聖霊が与えられます。しかし主に与えられる相続地を占領し尽くすか、しないかによって大きく変わってゆきます。
オトニエルとアクサ夫妻のように、肉眼で見えるものに囚われて恐れることなく、聖霊の導きに従って主に従い通す者は、積極的に命の水を求めて相続地を占領してゆきます。相続地をすべて占領することは罪を犯させる罠を取り除くことになります。そして積極的に求めることによって命の水である聖霊に満たされます。
主イエスも、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)と積極的に求めることを勧められます。必要なものは積極的に主に求め、主に与えられるもの、相続地を感謝しましょう。その応答として、聖霊によって主に従い通し、主に与えられる相続地を占領し尽くし、罪の罠を取り除き、祝福の道を歩ませていただきましょう。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。オトニエルは肉眼で見える巨人に囚われずに、信仰によってキルヤト・セフィルを占領し、アクサを妻として与えられ、妻アクサは積極的に求めて命の泉を与えられました。
私たちも主イエスを信じることによって、それぞれの相続地のようなものを与えられます。聖霊の力によって主に従い通し、主から与えられる相続地を占領し尽くし、必要なものは求めて、主の祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
