人をさばけるか
山脇望牧師
(さばく人)
新聞紙上にて、毎日のように取り上げられている「日銀総裁問題」です。庶民が0金利政策のもとに堪えている時、「濡れ手にアワで丸儲け」と、感情的な恨みに火がついて、進退騒ぎになっています。日銀の服務規定に違反した行為ではないと懸命に弁解し、その元金、利益すべてを寄付します、と火消しに懸命です。
村上ファンド事件が起きなかったら、このまま深く静かに潜行したでしょうに、頭を抱えているのではないでしょうか。
性善説の考え方の上に生きている日本人です。人間の性は本来、善であるべきだと、思っておりますから、ひとたび「悪」の匂いを嗅いでしまうと、人としての価値や立場を失ってしまいます。それゆえに、どういうやり方であっても、自分は善人なのだ、と言う印象を失ってはなりません。
(さばかない主イエス)
聖書を読んでいきますと、主イエスは厳しくパリサイ人、律法学者と対決しています。自分たちは善、義であり、他の人たちを悪、罪人として裁き、軽視するパリサイ人たちとです。
ある時は、主イエスをも試みようとして、ひとりの姦淫の場でとらえられた女性を彼の前におきます。主イエスは言いました。「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるが良い」と。
そこには主イエスと女のほか、誰もいなくなりました。
日銀の総裁の行為が善か悪かの判断は、何をもってするのか、たぶん日本人の判断基準である情の部分が多分にあるでしょう。「我らが辛苦を舐めているというのに、否舐めさせているというのに、甘い汁を陰で吸っていたとは許せない」という心情です。
主イエスはいいました。「わたしもあなたを罰しない。今後はもう罪を犯さないように」と。
(さばかれない私)
私たちは、神の前に義人でも、善人でもありません。どんなにこれに抵抗を覚えるとしても、これは現実です。この現実の上にたってはじめて、他人を裁くパリサイ人の立場から、裁かれる姦淫の女性の立場におくのです。
それこそ、主イエスの十字架の犠牲の恵みを自らのこととして受け止めるのです。
「人を裁くな。自分が裁かれないためである」の御言葉を思います。誰に裁かれないのか、それは父なる神にです。
2006年7月号