待つ人は幸い
山脇望牧師
房総の海岸近くを車で走ることがあります。暑い夏、北風が身を指す冷たい真冬、波が湧き上がってくるそのところに、転々と人が浮かんでいます。サーフィン愛好者の皆さんです。これから初夏になり、海水浴シーズンですが、それでも海水に身をゆだねてそこにおるということは、どんなにか冷たさが身に凍みることでしょうか。まして真冬においては・・。
彼らはひたすら“待っている”のです。何を、それは“波”をです。
「さあ行け」と、行動を起こすに好ましい波を待っています。どんなに技術が優れ、経験が豊かであり、その上高価なボートを使用しているとしても、それは波が起きてきたとき、初めて生きて用いられます。それまではひたすら待つのです。
五月晴れのもと、田んぼには苗が植えられ、少しづつ緑の色が濃くなり、一面をその色が覆うときがくるでしょう。農家の方々は、手入れしながら、あとは秋の収穫をひたすら待っているのです。
私たちもこの世に生かされて生活している者として大切な事は、“待つ”ということです。何を待つのでしょうか。
それは、
「救い主、主イエス・キリストの来られるのを、
私たちは待ち望んでいる」
(ローマ8-19)
「子たる身分を授けられる事、
すなわち、体のあがなわれる事を待ち望んでいる」
(ローマ8-23)
と、再臨の主イエスを、そして主にあって約束されています、永遠の救いの成就を待ち望んでいます。
すべての人は、「あなた方の宝のあるところには心もあるからである」(ルカ12-34)と、宝のあるところに心が向き、それを待っています。サーファーにとって波が唯一の宝であるあるかのように、それに向かっていますように、私たちの心の向く方向は、主イエスである事を確認いたしましょう。
待つ心の強いところに、自然と体も心も生活も向いていくものです。それは羅針盤の針が自然に北に向いていくものと同じです。
私たちの生活の方向を再臨の主イエスに向けていきましょう。それが具体的に、神を礼拝する生活となり、神の言葉である聖書に向かい、神への祈りの生活となっているのです。
待つ生活をしている人の心は、常に新鮮です。生き生きと生活しています。
2007年5月号