月に思う

            古川信一牧師

先日3日は、中秋の名月でした。妻が説教の準備で忙しい私に、声をかけてきました。「月がとっても綺麗」。

その言葉に誘われて、私は思わず牧師館のバルコニーに出て、暗い夜空に目を向けた次の瞬間、ものすごく眩い光が目に飛び込んできました。(わあ。さすがに中秋の名月だけのことはある。すごい輝きではありませんか。)

でもすぐに何か妙に明るすぎる感じがして、違和感を覚えた私は、妻に尋ねました。

「ねえ。あれ?だよね…」。

「えっ?ちがう。ちがう。ほらあそこ」。

そう言って指し示されたはるか高いところに視線を移してみると、雲のベールをまとった満月が、淡い光を放ちながらそこにあったのです。私たちは、おかしくてふきだしてしまいました。

 どうやら私は、店舗の外灯を本気で月と間違えてしまったようです。その外灯は、月と同じぐらいの大きさだったのです。翌日の礼拝の準備で、頭が飽和状態であったせいでしょうか。前の週に父が召されて、あわただしさを引きずっていたためでしょうか。そして思ったのです。(僕も、やっぱり、疲れてるんだ)。

気を取り直して眺めていると、雲が切れて、暗い夜空にくっきりと美しい月が姿を現しました。何とも言えない、やさしい、あたたかさを感じさせるその輝きに、しばしその場に佇んでいました。

 視線を落とすと、さきほど間違えた外灯が見えます。確かにすごく明るいその光は、どことなく無機質な、そして激しく自己主張しているかのようで、少なくともずっと眺めていたい輝きではない気がしました。

 そこに人工の光と、自然の光の違いを思わされました。月はそれ自体で輝いているのではなく、太陽の光を反射しているわけですが、その光に慰められたり、ほっとする気持ちにさせられたり、ロマンをかきたてられるような、不思議な魅力が月にはあるように思えてならないのです。ただいたずらに、人目を引くような光ではなく、さりげなく静かではあるけれど、力強く、こうこうと夜空に輝いている月は、ただ太陽の光を反射することに忠実なのでしょう。そんな月が、なんともいとおしく感じられた秋の日の夜でした。

あなたがたは、世の光である。

マタイによる福音書5章14節

2009/10月号