「ありのままで」

   

                  野田信行

実家の片付けをしていて、母が残していた兄の通知表を見てとても驚きました。それは兄は恐らく発達障害の注意欠陥・多動症(ADHD)であったこと、更にそのことに私も含めて誰も気付いていませんでした。約50年前の当時は、発達障害は知られておらず、学校の先生も知らなかったことは仕方のなかったことだとは思います。

しかし小学校1年生の児童が先生に理解されずに通知表に、「落ち着きがない、勉強の意欲が感じられない、家庭での指導をしっかりするように」と書かれるのはとても残酷なことです。

父は何とかしなければならないと思ったのか、家で厳しく指導しましたが、兄は家でも勉強に集中が出来ずに、父に声を荒げられて怒られている兄の姿を私は今でも覚えています。

兄は家でも学校でも集中の出来ない勉強を押し付けられるのがとても嫌であったのか、学校では自分の勉強道具をハサミで切り刻んでいたと通知表に書かれていました。兄がどんな気持ちでそのようなことをしたのかを考えるととても心が痛みます。

兄は勉強には集中が出来なかったようでしたが、物を作るのが好きでした。プラモデルはとても丁寧に作って、綺麗に色も縫っていました。中学生になると自転車の改造をずっと行っていました。仕事は機械関係の仕事に就いたりもしたのですが、皮膚が弱く、機械の油で皮膚が荒れて辞めてしまったのは残念でした。

また純粋な優しい心を持っていて、私に対しては、とても面倒を見てくれる優しい兄でした。このような純粋さは信仰と繋がり易い部分もあるのか、ホーリネス教団の牧師には発達障害の方もいます。兄に、もっと早くキリスト教のことを伝えていたら違った人生になっていたのかと考えさせられます。

結局、ありのままの兄を受け入れる人は余り周囲にいなかったように思います。兄は幼い時から自分を理解して貰えない反発心からか、ぐれて行ってしまいました。

主イエスは悔い改めた人を受け入れるのではなく、罪人と呼ばれる人たちをありのままで受け入れて、悔い改めへと導かれました。主イエスは発達障害の人も喜んで迎えられるでしょう。現代においても、以前の発達障害のように知られていないこともあるのかも知れません。しかし大切なのはそのような知識ではありません。人をありのままで受け入れることです。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている」(ルカによる福音書19章5節)

                                                        2021年8月号