「母の愛」

 

                                                                野田信行

丁度1年前の「ぶどうの木」6月号に4月に受洗の恵みに与った母のことを書かせていただきました。その時にはまさか1年後に召天について書くことになるとは思ってもいませんでした。

母のことを振り返って思い浮かぶことは、これは私の母に限ったことではありませんが、子どもを本当に愛する人でした。私が何か間違ったことをしてしまった時にも、母は無条件で私を受け入れて愛してくれていました。生まれてからずっと、どんな時にも無償の愛によって支えてくれる母親の愛の安心感の中で、人は成長して行くのだと教えられます。

以前は特攻隊が死を覚悟して相手に突撃する時には、「天皇陛下万歳」と叫んでいたと言われていました。しかし、どの様に調べたのかは分かりませんが、実際には、「お母さん」と叫んでいたと言われていますが、何となくその気持ちが分かる気がします。

成長の段階に従って父親の愛も必要になって来る時が来ます。しかし人によって色々と事情は違いますので、両親の愛とは限らずに、親戚の愛であったり、直接に神の愛の中で人は成長して行きます。

いずれにせよ、人は自分が愛されている愛を知って、初めて他の人を愛せるようになると言われます。人は自分が他に人にされたことを他の人に行うもので、自分がされたことの無いことを他の人に行うのは不可能なのかも知れません。ただ人に愛されることが例え無かったとしても、全能の神の愛を知ることによって、愛する人となります。

そして愛のあるところに争いは無くなります。それは間違ったことをした子どもを見守る母親の愛のような愛でお互いを愛するからです。

「何よりもまず、互いに心から愛し合になさい。愛は多くの罪を覆うからです。」

ペトロの手紙 一 4章8節

神がどのようなお方であるのかを想像する時には、その人の父親のイメージが大きな影響を与えると言われます。「父なる神」と言われる故でしょうか。その人の父が厳しい人であると、厳しい神というイメージになる感じでしょうか。私の場合は、父なる神の愛というよりかは、母なる神の愛という方が、無条件の愛というイメージが想像し易い感じがします。

母も人間ですから完璧な人ではありませんでした。しかし神が母を通して私を愛してくださった愛を持って、聖霊の導きの中で、他の人を愛する者とならせていただきたいと願っています。