使徒の自由と権利

コリント人への第一の手紙 第九章一~六節
  野田信行牧師

「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。・・・それとも、わたしとバルナバだけには、労働をせずにいる権利がないのか」。
(コリント人への第一の手紙第九章一、六節)

パウロは偶像への供え物の肉を食べる自由と権利がありますが、同時に食べない自由と権利もあります。そこで、「わたしは自由な者ではないか」と問い、自由の使い方をコリント教会に教えます。パウロは自分の自由と権利の前に、自分自身の問題を扱います。パウロの批判者たち(三節)」は、パウロを単に批判するだけではなく、パウロ自身が使徒であると主張することを批判する人たちです。

使徒の意味は、「特別な使命を帯びて派遣された者」で、その代表は十二使徒であり、主イエスによって任命されました。ユダの後任としてマッテヤが使徒となった条件は、主イエスと他の使徒と始終行動を共にした主の復活の証人です(使徒行伝一:二二)。パウロは、よりはっきりとした使徒職の印として、コリント教会員であるあなたが、自分の伝道の実としてクリスチャンになったことを上げます。

パウロが使徒であることは、人間の書いた手紙が「特別な使命を帯びて派遣された者」である使徒を通して啓示された神の言として、聖書に含まれるために大切なことでした。カトリックではローマ教皇は使徒ペテロの後継者とされ、使徒権を継承していると考えられています。使徒であるパウロ、ペテロ、ヨハネたちの手紙は聖書となり、使徒の言葉は聖書と同じ権威を持ちます。同様にローマ教皇の言葉は聖書と同じ権威を持ち、ローマ教皇を含めた教会会議の決定事項は聖書と同じ権威を持つことになります。

現代において使徒の存在を認めることは、使徒の言葉は聖書と同じ権威を持つという考えに繋がります。しかしそれは、信仰の源泉を「聖書のみ」としたプロテスタントの宗教改革の精神に反し、「聖書に書き加えてはならない」(黙示録二二:十八)の御言に反することになります。使徒の再登場は聖書の預言にないだけではなく、逆に「にせキリストたちや、にせ預言者が起こって、大いなるしるしと奇跡を行い、できれば、選民を惑わそうとするであろう」(マタイ二四:二四)とありますので慎重な判断が必要です。

使徒には、①飲み食いをする権利、②信者である妻を連れて歩く権利、③労働をせずにいる権利、がありますが、①と③は教会負担で伝道に専念する権利で、パウロはこれらを使いたいと主張しているのではなく、権利があることをただ確認しているだけです。私たちも様々な権利がある時に、自分の都合だけで権利を使うことを考えるのではなく、権利を使うのと使わないのとで、どちらが主の御心に適うのか、どちらが神の栄光をあらわすことになるのか、聖霊の導きの中で主の御心を求めて、聖霊の力を頂いて歩ませて頂きましょう。