信じる者のしるしとしての預言

2021年1月24日
コリントの信徒への手紙一14章13~25節

主の御名を賛美します。ここのところ、異言と預言の内容が続いています。人によっては、なぜその様な内容を聖書に長々と書く必要があるのだろうかと思われるかも知れません。確かに私が茂原教会に来てから約9年経ちますが、教会で異言や預言で問題が起きたことは一度もありません。

しかしキリスト教界全体では、異言と預言の他に癒しの賜物や奇跡を行う力等の霊の賜物の働きは、ある時代に活発になって行き過ぎると戻って、また下火になり過ぎるとまた戻ってと周期的に振り子のように繰り返しています。

聖書は、はっきりと14:1で、愛と御言を取り次ぐ預言の賜物を熱心に求めなさいと勧めています。素直に従う人がいる一方で、なぜか聖書の勧める愛と御言を取り次ぐ預言の賜物は求めないで、怪しげな異言や将来の出来事を予告することや、癒しや奇跡を求めたがる人もいます。

私も牧師として異言等の問題のある人に対応する機会がありましたが、彼らはまるでコリント教会の様で、37節にある様に、自分たちは将来のことを予告する預言者か完成した霊の人であると思って高ぶっていました。

その時には異言等の問題の解決のために他の人とも一緒にこの14章を読んで聖書が何と勧めているのかを聞きました。この14章があって、聖書が異言についてはっきりと書いていて本当に助かりました。そして神がパウロを通してこの14章を書いてくださったことに感謝しました。

1、異言

パウロは12:1でコリント教会が「霊の賜物について」質問して来たことに対して、14:1で「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と結論を伝えました。なぜなら最も大いなる賜物は愛だからです。

また異言は聞き手に意味が通じないのに対して、預言は意味が伝わって教会を造り上げるからです。しかしそのままでは、コリント教会が霊の賜物として重要視していた異言が置き去りになってしまって、異言を今後どう扱ったら良いのか分かりません。

そこでパウロはコリント教会を励ますためにフォローをします。異言の問題は何を言っているのか意味が分からないことです。そこで、「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」と勧めます。

なぜなら、パウロは自分のこととして、「私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、理性は働いてい」ないからです。これは大きな問題です。「では、どうすればよいのでしょうか」と問い掛けて、パウロはコリント教会と一緒に解決策を探ります。

そして、霊で祈り、つまり異言で祈り、しかし理性で、普通の通じる言葉で祈ることにしましょう。そして、霊、異言でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう、と言います。これはこうしましょうと提案しているのではなくて、パウロは自分は理性でも祈り、ほめ歌を歌いますと言い切って宣言しています。

パウロ自身はコリント教会の誰よりも多くの異言が語れるだけではなくて、異言の解き明かしもできるということです。パウロは自分が異言を解き明かすことができるようにと祈り求めたのでしょう。

そうでなければコリント教会員が霊、異言で祝福しても、初心者の立場にある者、異言の分からない人は何を言っているのか分からないので、「アーメン」と言えません。

「アーメン」というのは、ヘブル語で「本当に」という意味で、同意を表します。

クリスチャンが感謝するのは大切なことで結構なことです。しかし他のクリスチャンが感謝するのを聞いて、心を合わせて、アーメンと祈るのはもっと大切です。それは感謝の言葉を聞く人に感謝の大切さを学ばせて成長させて、教会を一つの体として造り上げることになります。しかし異言で感謝すると他の人は何を言っているのか分かりませんので、他の人が造り上げられるわけではありません。

2、理性による五つの言葉

そこでパウロは異言を語れますが、教会では、異言で一万の言葉を語るよりも、他の人たちを教えるために、理性によって五つの言葉を語るほうを取ります。意味の分からない言葉を沢山語るよりも理性によって分かる言葉を少し語った方が教えるためになります。

ところでここを読むと誰もが、教えるためになる理性による五つの言葉って具体的に何だろうと思います。しかし註解書等を色々見ても一切触れていません。誰もが分からないということです。

不明ですで済ませた方が良いかも知れませんが、あくまでも個人的な見解として多少強引かも知れませんが、思い付くことをお話ししたいと思います。

この段落で五つの言葉といって考えられるのは、解き明かし、祈り、ほめ歌、祝福、感謝です。この五つを異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって語るほうを取ります、と言えるかと思います。またモーセ5書も思い浮かびます。

またイクトゥスを思い浮かべる方もおられるかも知れません。イクトゥスはギリシャ語で、イエス、キリスト、神の、子、救い主の五つの言葉の頭文字を並べるとイクトゥス、魚という言葉になります。イクトゥスは逆にここの五つの言葉という御言から作られたのかも知れません。イクトゥスのステッカーを貼っているクリスチャンは多くいます。いずれにしても誰にも分からない言葉ではなくて、通じる言葉で語って教会を造り上げることが大切です。

3、異言のしるし

そして律法を引用します。ここで律法というのは旧約聖書の意味です。これはイザヤ書28:11、12です。そして、異言は信じていない者のためのしるしと言います。しかし23節と辻褄が合わないような気がします。23節では、異言を語っているところへ、信者でない人が入って来たら、気が変になっていると言うでしょう、と言います。

異言は信じていない者のためのしるしとはどういう意味なのでしょうか。イザヤ書の引用個所は、イザヤの分かる預言の言葉を聞かないイスラエルには、アッシリヤが侵入して、アッシリヤという異国の舌と異国の唇とで語るが、イスラエルは私に耳を傾けない、という意味です。

異言ですと意味が分かりませんので、さらに救われようがなくなってしまいます。つまり異言は信じていない者に与えられるさばきのしるしという意味です。つまり今、コリント教会に異言が現れているということは、分かる言葉で語られる説教に耳を傾けて来なかったコリント教会に対するさばきのしるしであると、パウロは言っているともいえます。

4、預言のしるし

それでは預言は、信じる者のためのしるしとはどういう意味なのでしょうか。皆が預言しているところへ、信者でない人か初心者、要するに未信者です。が入って来たら、その人は皆から問いただされ、皆から批判されて、心の秘密が暴かれます。

教会に行ったことのない人がこの個所を読んだら、恐ろしくなって教会へは行けなくなるかも知れません。教会に行くと、皆から問いただされて、あれこれと根掘り葉掘り色々な質問をされるのでしょうか。

そして問いただされた挙句に、そんなことをして来たのかとか、そんなことを考えてきたのかと皆から批判されるのでしょうか。何か連合赤軍の総括のようです。そして皆が全てを見通してしまう占い師みたいに、心の秘密が暴かれてしまうのでしょうか。そうではありません。

預言は神の言を預かって御言を語ることです。茂原教会でも礼拝や子ども礼拝で御言が語られますが、教師は聖書に従って御言を語ります。

そして語られる御言は、ヨハネ1:1に「言は神であった」とある通りに、神の言は神ご自身です。ですから語られた御言は、御言を聞く一人一人の心に問い掛けて、問いただします。問いただすは、目を開くという意味もある言葉です。これは御言を語る教師がしているのではなくて、語られた御言である神がされていることです。

そして御言を聞く人は、皆が語る“御言”に批判されます。そして自分の心の中で蓋をしていた様な秘密が自分の心の中で暴かれます。暴かれるは、明白になるという意味もある言葉です。説教を聞いていると、この説教者は自分のことを知らないはずなのに、丸で自分のことを全て知っているかのように自分に語りかけてくる様に感じることがあります。

そうなると、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と言い表さざるを得ません。預言は信じる者のためのしるしとは、預言は信じる者へと導くしるしという意味です。異言は信じていない者のためのさばきのしるしであり、預言は信仰へと導くしるしです。

5、結論

私たちが求めるべき霊の賜物は何であるかは明白です。パウロは、いつもの通りに、きょうだいたち、と呼び掛けて、「物の考え方については子どもとなってはいけません」と言います。子どもの考え方とはどういうものでしょうか。理性の無い幼稚な考え方のことです。

人と違って自分だけが目立つものを欲しがって自慢することです。悪事につては幼子となり、疎くあって、考え方については大人、成熟した者になる必要があります。そのためには日々、御言に養われて、霊的に成長する必要があります。まずは御言を聞くことですが、導かれる時には御言を語らせて頂きましょう。御言を語る預言は信じる者であるためのしるしでもあります。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。コリント教会は自分を霊の人であると思って、異言の賜物を誇っていました。しかしパウロはそれは子どものような幼稚な考え方であると言います。他の人に分からない一人よがりでは、あなたの願う教会を造り上げることになりません。

それどころか自分自身の成長にもなりません。私たちがそのような思いに捕らわれることのないようにお守りください。私たちはイエス・キリストの十字架によって恵みによって救われる者です。私たちが求めるようにとあなたが願っておられる愛と御言を取り次ぐ預言の賜物を私たちにお与えください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。