福音に共にあずかるため

2020年10月11日
コリントの信徒への手紙一9章19~23節

主の御名を賛美します。先週の説教の初めに私が先月で57歳になって、車のナンバープレートが571だった言ったのですが、そんなことを思い出しながらつくづくとナンバープレートを眺めていたら、571ではなくて751でした。ナンバープレートを実際に見た方は、私は大丈夫なのかと思われたかも知れませんが、最近はその様なことが多くなってきた様な気がします。

1、より多くの人を得るため

パウロは先週の箇所で、宣教者としての権利を用いないことが誇りであり報酬であると言いました。それに続いて、「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました」と言います。パウロは奴隷ではなく自由人として生まれたローマ市民です。しかしすべての人の奴隷となりました。

このことは7:22でも言っていました。この御言から宗教改革を行ったマルチン・ルターは「キリスト者の自由」という本を丁度5百年前の1520年に書きました。その本でルターは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」ということと「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する」という一見すると矛盾する様なことを言いました。

簡単に言うと、キリスト者は自由であって、奴隷ということです。どの様なことなのか御言を聞かせて頂きましょう。奴隷となるというのは自分の権利を用いないということです。その様にする目的は、「より多くの人を得るためです」。「得る」という言葉がこの個所で5回使われていて、少し意味が違うところもありますが、それは22節でいう「救う」という意味です。先週もお話しましたが、自分の権利を用いずに奴隷となるパウロの報酬は人々の「救い」です。

パウロの報酬といっても救われる人をパウロ自身が得るのではなくて、神に献げるためです。今年度のホーリネス教団の施政方針のキーワードは「サーバントリーダーシップ」です。リーダーとなる者はサーバント、奴隷としてまず相手に仕えて、その後で相手を導くという考え方です。この聖書個所と繋がりの深い考え方です。

奴隷となるというのは具体的にどうしたのかと言いますと、4つの例が挙げられています。まず「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました」。ユダヤ人のようになりましたと言っても、元々パウロはユダヤ人です。しかしパウロはユダヤ人の生き方から解放されて、自由とされました。

しかし「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました」。ユダヤ人になると言いますと、ユダヤ人には誇りとして神との契約の印である割礼があります。しかし使徒言行録15章のエルサレムの会議で異邦人で信仰を持つ者は割礼を受ける必要がないことが決まりました。

パウロ自身もローマの信徒への手紙2章で、身体の割礼が割礼ではなくて、心の割礼こそが割礼であると言っています。しかしパウロは使徒言行録のエルサレムの会議の直ぐ後の16:3でテモテを伝道旅行に一緒に連れて行く時には、ユダヤ人の手前、テモテに割礼を施したと書かれています。

ユダヤ人には、ユダヤ人のようになるために、本当は必要のない割礼をテモテに施しました。またパウロというと異邦人だけを対象とした伝道だけをしていたと思われがちですが、パウロはユダヤ人を含めて全ての人に対して伝道を行っています。

2、律法

二つ目の例は、ユダヤ人の誇りである神との契約である律法との関りです。パウロは旧約の律法の下にある人ではありませんが、律法の下にある人を得るために、律法の下にある人のようになりました。聖書には具体的にどの様な例が書かれているでしょうか。

使徒言行録18:18には、パウロは誓願を立てていたので、律法に従って髪をそったと書かれています。また聖書には書かれていませんが、もっと分かり易い例で言えば、律法の下にある人と食事を一緒にする時には律法で禁じられている豚肉等は食べないことです。

パウロが「律法の下にはない」と言うのは、神の律法を持たないという意味ではありません。キリストの律法の内にあります。これはどういう意味でしょうか。「律法の下」というのはとても分かり易い表現です。律法の下にある人は、律法に上から支配されて、下から人間の努力によって律法を守ろうとします。

しかし、律法は人間の力による努力では守れないものです。律法はガラテヤ3:24にある様に、自分の力では守れないことを悟ってキリストに導く養育係です。キリストに導かれた者は律法の下ではなくて、恵みの下に置かれて、キリストの律法の内にあります。

キリストの律法は、別の言い方をすると愛の律法と言えます。律法の下にある人は全てを律法に照らし合わせて、正しいか正しくないかの判断をします。しかしキリストの律法の内にある人は、それは愛に基づくことであるかどうかを判断します。

「そこに愛はあるんか」ということです。キリストの律法の内にある者は、下からの人間の力によってではなくて、上からの神の力によって律法を成就する者とされます。律法自体は一点一画も消えうせることはありませんので変わりませんが、成就する方法が変わりました。

3、律法を持たない人

三つ目の例は、律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人というのはユダヤ人ではない異邦人です。聖書では使徒言行録17:23で、パウロがアテネで宣教をしている時に、「知られざる神に」と刻まれた祭壇があることを取り上げて、「あなたがたが知らずに拝んでいるものをお知らせしましょう」と言いました。

この記事は私たちが異教の日本で伝道をする時にもとても役に立つものです。それは他の宗教の影響を受けている人に対して、その宗教を否定するのではなくて、まず相手を受け入れて、相手の信仰心を尊重して、接点を見付けて対話を進めて行くということです。それは律法を持たない人を得る、救うためです。

4、弱い人

四つ目の例は、弱い人です。この弱い人というのは、8:7の偶像に献げた肉を食べると良心が汚されてしまう弱い人のことです。パウロが一番言いたかった本命はこの四番目の弱い人のことです。というよりも、この弱い人のことを言うために前の三つの例を挙げて話を繋げたとも言えます。

パウロは、8:4の偶像へ献げた肉を食べることについての話をしていて、良心が弱い人をつまずかせないために、もしもつまずかせるなら自分は今後決して肉を口にしないと言っています。勿論それは弱い人を得るためです。ここの「得る」も「救う」という意味もありますが、弱い人には既に救われたクリスチャンもいると思いますので、ここの「得る」という言葉には、「つまずかせない」という意味もあります。

5、すべてのものとなる

ともかく、すべての人に対して、すべてのものとなりました。何人かでも救うためです。パウロは人々の救いのためなら何でもします。しかし今日の聖書個所だけを読むと少し誤解を招く可能性もあります。ここだけを読むと、そうか、人に伝道するためには相手に好意を持たれるために、相手に合わせて行く先々で八方美人の様に振舞う必要があるのかと思われるかも知れません。

しかしこの個所はその様なことを言っているのではありません。聖書に限らずに、人の話でも何でも前後の文脈から考える必要があります。ここは飽くまでも8:4の偶像へ献げた肉を食べることについての話をしています。そして偶像の神などは実際にはいないのだから、食べても良いと言うのではなくて、食べることによって良心が汚される弱い人をつまずかせないために、食べる権利を用いないということを話しています。

それと同じ様に、パウロはすべての人の救いのためには、自分にある権利を用いないということを言おうとしています。「福音のために、私はすべてのことをしています」とは、福音のために自分のすべての権利を用いないで、何でもするということです。

キリスト者の自由というのは、自分にある権利、自由を敢えて用いないで奴隷となるという究極の自由です。パウロがそこまで自分のすべての権利を用いないで何でもするというのは、まず主イエス・キリストがその様にされて十字架に付けられたからです。

主イエスを信じるクリスチャンは、聖霊の力を頂いて主イエスに似た者とされるのですから、主イエスと同じ歩みをすることが求められます。パウロが個人的に私はそうするというのは、勿論、他の人にもそうして欲しいという願いが込められています。

6、福音に共にあずかるために

パウロがそこまで自分の権利を用いないで、すべてのものとなる理由、目的は、「福音に共にあずかる者となるためです」。その様に言うということは、パウロは福音にはまだあずかっていないのでしょうか。皆さんは福音にあずかっておられるでしょうか。その様に言われると、福音にあずかるってどういう意味かと思います。

その前に、まず福音とは何でしょうか。福音は「良い知らせ」という意味です。どういう良い知らせかと言いますと、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われて永遠の命を与えられるという良い知らせです。しかしそれだけであれば、クリスチャンは全て福音にあずかっていて、パウロも既にあずかっているはずです。

しかしパウロは「福音に共にあずかる者となるため」と、これからあずかる者となる、将来のこととして話しています。福音には、自分が救われて永遠の命を得る意味もありますがそれだけではありません。主イエスがこの世に来られて宣教を始められた時にマタイ4:17で、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言われました。

天の国とは神の支配される国です。福音とは神である主イエスがこの世に来られて、神の支配が始まったという良い知らせです。またマタイ28:19で主イエスは、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と言われました。福音はすべての民が弟子となる働きが始まったという良い知らせです。

パウロやクリスチャンは福音による救いにはあずかっていますが、すべての民を弟子にして、神が支配する福音は始まってはいますが、完成はしていません。クリスチャンは自分だけが救われたらそれで一丁上がりで、満足して福音の完成ではありません。

パウロもクリスチャンも共に福音にあずかるためには、自分の権利を用いることをしないで、すべての人に対して、すべてのものとなって救う必要があります。既に救われた方は、他の人の救いのために先に救われました。まず自分が救われるのは大切なことです。

しかしそこで満足するのではなく、聖霊の力を頂いて、福音の完成を目指して、すべての人の救いのために用いて頂きましょう。それは福音に共にあずかる者となるためです。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロは自由な立場に生まれた人です。しかし自分の救いのためにすべての自由の権利を用いないで、すべての人の奴隷となられた主イエス・キリストの生き方に倣って、パウロ自身も自分の権利を用いないですべての人の奴隷となりました。それは主イエスが始められた福音に共にあずかるためです。

ここには既に救われた方、またこれから救われる方もおられます。ここのおられるすべての人が聖霊の導きの中で、自分の権利に拘るのではなくて、救いにあずからせてください。そしてすべての人が福音にあずかるために、仕える者とさせてくださり、お用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。