誇りと報酬

2020年10月4日
コリント人への第一の手紙9章15~18節

主の御名を賛美します。いよいよ新しい聖書となりました。口語訳も味わい深いものもありましたが、やはり時代の変化によって分かり難い言葉がありました。聖書はその内容を全ての人に伝えるためのものであることを考えると、やはり多くの人に分かり易い言葉であることは大切です。この新しい聖書が用いられることを祈ります。

また聖書の表紙の色と同じ色に教会の車の色も変わりました。ぜひご覧になってください。色の意味では教会車は聖書的と言えるかも知れません。この車は先月の私の誕生日にネットを何となく見ていて導かれたものです。教会の車ですが神からのバースデープレゼントだと思いました。

私は先月で57歳になりました。57はコーナーとも読めて人生の曲がり角かなと思っていたところ、新しい車のナンバープレートは571で、「コーナー良い」と何となく良さそうなナンバーです。等と言っていると牧師のくせに何を言っているのかと思われてしまいますが。

1、権利

パウロはこれまでの文章の主語を「私たち」と複数形を使っていました。それは伝道者の同労者であるバルナバ、テモテ、テトス、シラス等を含む言い方です。しかしここからは、「私」と自分一人の特別なことを話します。私はこれらの権利を一つも用いませんでしたと。

これらの権利というのは、4~6節の、食べたり飲んだりする権利、妻を連れて歩く権利、働かずにいる権利、12節の報酬を受ける権利等です。パウロがこれらの権利を書いたのは、自分もその権利を使いたいからではありません。そうするくらいなら、死んだほうがましです、と迄言います。

私は牧師という人の死に関わることがある職業柄もあって、死という言葉を余り軽々しく使うのは好きではありません。何か少し大変な時に、「もう死にそうだ」とか、「死んだ方がましだ」等です。ただここのパウロの言う「死んだほうがましです」と言うのは、その様な軽々しい表現ではなくて、本当に絶対に受け入れられないという強い意志が込められています。

しかしこれは誤解を招き易いことです。そこ迄しつこく使徒の権利を主張しているのは、心のどこかにその権利に与かりたいという思いがあるのではと勘繰られてしまいそうです。もしそうでないのだとしたら、なぜそれ程までに絶対に受け入れられない権利をそこ迄しつこく主張するのでしょうか。

それを考えるには、パウロがどの様な話の流れの中でこの話をしているかを思い出す必要があります。この話は8:4の「偶像に献げた肉を食べることについて」の話の中です。

コリント教会の「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいないことを知っている」人たちは偶像へ献げた肉を食べる権利があると言っています。

パウロは権利があるかないかではなくて、権利を持つ者には、その権利を使わない権利もあるということを教えようとしています。

2、誇り

またパウロにとってはこれらの権利を使わないことが誇りです。そしてパウロのこの誇りは誰も奪うことができません。私たちは誰でも何らかの誇りを持っているものです。人によって誇りの内容は様々だと思います。またある人の誇りというのは他の人にとって正しいか正しくないかとは全く別の問題です。

皆さんにとっての誇りはどの様なものでしょうか。個人の誇りはどの様なものであっても良いと思います。例えばある人は自分の野菜を有機農法で作るのが誇りだという人もいるでしょう。またある人は歴史と伝統のある町の出身とか、自分の家系とか、以前にしていた仕事が誇りとか、毎日散歩すること、ある人は毎日聖書を読んでお祈りすること、文語訳聖書で読んでいること等々色々とあることでしょう。

自分の誇りをどの様なことであるかを自分で知っておくことは大切だと思います。はて何だろうと思われる方は、ぜひこの機会にじっくりと考えられても良いかと思います。いやー私は誇りがないのが誇りだということでも良いのかも知れませんが。

3、委ねられた務め

パウロは福音を告げ知らせる宣教者ですが、福音を告げ知らせても、それは誇りにはならないと言います。福音を告げ知らせて、新約聖書の四分の一以上を書いているパウロが誇りにはならないとは驚きです。普通なら素晴らしい働きといって評価されそうです。

しかしパウロは福音を告げ知らせること自体が誇りになるかならないかを言っているのではありません。福音を告げ知らせる動機が問題だと言っています。もし自分からそうしているなら、報酬を受けるでしょう。それはパウロが何の義務もないのに自発的に福音を告げ知らせるなら報酬を受ける、ということです。

それは現代の社会で普通にお勤めをしている人の姿に似ています。特に強制労働を強いられた訳でもなくて、自発的に自分から望んで就職することを選択して務める人は報酬として給料を貰います。しかしパウロが福音を告げ知らせるのは自分から選択したことではありません。

パウロは以前はキリスト教を熱心に迫害する迫害者でした。しかし使徒言行録9章でダマスコに行く途中で主イエスに出会って、福音を告げ知らせることを強制されました。パウロにとっては福音を告げ知らせることは選択ではなくて義務です。強いられたことであり、委ねられた務めであり、そうせずにはいられないことです。

ある意味でそれは奴隷的な労働とも言えます。奴隷は働いても報酬を得るということはありません。福音を告げ知らせないならパウロは災いです。ここを読んでいて同じ様な話が思い浮かぶ聖書個所があるでしょうか。それは旧約聖書のヨナ書に出てくるヨナです。

ヨナは主からニネべに行って主の言葉を告げ知らせる様に命じられましたが、船に乗って逃げたところ、大風の災いが船を襲いました。ヨナは自分が災いの原因であることを告白して海に投げ込まれることになります。委ねられた務めを果たさないことは災いであることを、私自身も宣教者の一人として覚えたいと思います。

まあ宣教者って大変なのね、私は宣教者ではなくて良かったわと他人事の様に思われた方はいないと思いますが、どうぞご安心ください。聖書は全ての人に向けて書かれたもので、私には関係がないという記事は一つもありません。そもそも全てのクリスチャンは宣教者ですし、また委ねられた務めを果たさないなら災いであるというのは、宣教者だけではなくて、全ての人に向けられた御言です。

などと言うと脅迫している様に聞こえるかも知れません。しかし、これは本当に安心して頂きたいのですが、7:7にあった様に、委ねられた務めを果たすために必要な賜物は主から与えられるのでお委ねするのみです。さて皆さんが主から委ねられた務めはどの様なものでしょうか。

これは期間が限られたものや長期間に渡るものもあります。期間限定では子育て等がそうでしょうか。子どもを心配することはいくら大人になっても変わりませんが、育児ということであれば手を離れて行きます。その外にも夫婦の配偶者や親の世話をしたり、仕事、ボランティア、教会での奉仕等色々と考えられます。

4、報酬

では委ねられた務めを行っているパウロの報酬とはなんでしょうか。それは、福音を宣べ伝えるときに無償で提供することです。それは別の言い方をそれば、初めにお話しした様な宣教者としての報酬を受ける権利を用いないことです。これはややこしい話です。パウロの報酬は報酬を受けない無報酬ということです。パウロに取っては、自分にある権利を用いないことが誇りであり報酬です。パウロの誇りと報酬は同じです。

私の母は今月で86歳になりますが、今、横須賀の病院に入院しています。3か月に1度、病院との面談があって私も行くのですが、コロナで中止になっていて、先週、半年振り位に面談に行って来ました。病院に面談に呼ばれたので母への面会も当然出来ると思っていましたが、面会は原則的には中止で、少し離れた距離で会って話をして来ました。

母に会う度に思うことは、母というよりは一人の人間として母して貰ったことの何分の一も返していないということです。つくづくと感じるのは本当に親というのは、子どもに対して全てを無償で提供して、報酬を受ける権利を何も用いないものだということです。それがまた誇りでもあります。

恐らく自分の親に自分がその様にして貰ったから、自分もそうするのでしょう。パウロは福音を無償で提供して、何の権利を用いないことをどこかで経験したのでしょうか。しています。

それは主イエスとの関りです。パウロは使徒言行録9章でダマスコに行く途中で主イエスに出会って、無償どころか、パウロはキリスト者を迫害していた罪も赦されました。そして主イエスは何の権利も用いられませんでした。まず主イエスがご自身の十字架を中心とした福音を無償で提供してくださいました。なぜ無償なのでしょうか。

テレビのCMはとても考えさせられることがあります。前にマスターカードのコマーシャルで色々なパターンがありましたが、「夢とか希望とか思い出等はプライスレス、買えるものはマスターカードで」というシリーズが続いていました。私たちはプライスレスと言われると、何となくプライス(価格)が、レス(無い)のだから、価格無しの無料と感じてしまいます。

しかしプライスレスというのは、値段が付けられない程に貴重なもの、という意味です。後からは「お金で買えない価値がある。買えるものはマスターカードで」と説明が入る様になりました。主イエスの十字架はプライスレスです。値段が付けられない程に貴重なものです。

主イエスの十字架の様に、値段が付けられない程に貴重なものは、値段が付けられないので無償にならざるを得ないのかもしれません。パウロは無償で受けた福音を無償で提供しています。パウロにとって、福音を無償で提供することが報酬であって、誇りでもあります。

ですからパウロは自分が誇りとするのは主イエスの十字架だけであると、ガラテヤ6:14で言います。主イエスはご自分の命の代価によって私たちの罪を赦し、救いを無償で提供し何の権利も用いられませんでした。主イエスに従う使徒パウロも福音を無償で提供し何の権利も用いませんでした。

それが彼らの報酬であり誇りです。パウロは聖霊の働きによる自分の生き方を通して、コリント教会が偶像へ献げた肉を食べる権利に拘って、良心が弱い人をつまずかせないようにと願っています。パウロはこの後のコリントへの信徒の手紙2では、あなたがたが私の誇りと言っています。

パウロに取っては福音によって救われる人が誇りであり報酬です。私たちもパウロに働いた同じ聖霊の力を受けて、自分の権利に拘るのではなくて、人をつまずかせないために、権利を用いない自由を持つ者として歩ませて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロは自分の権利を敢えて用いないで、福音を宣べ伝えることを誇りと報酬としました。私たちも聖霊の力によって自分の権利に拘ってしまうことから解放してください。そして主イエスの十字架を誇りとして、あなたから委ねられた務めに生きるものとさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。