福音による生活

2020年9月27日説教
コリント人への第一の手紙9章7~14節

主の御名を賛美します。週報の報告欄にありますように、先週、教会員の一人の兄弟が天に召されました。兄弟は本当に天国の確信を持って歩まれていた様に思います。兄弟の人生を通して神が私たちに示してくださったことを覚えつつ今後の歩みをさせ頂きましょう。

1、人間の考え?

パウロは、神から「特別な使命を帯びて派遣された者」である使徒です。そして福音のために仕える使徒には、飲み食いをする権利、妻を連れて歩く権利、労働をせずにいる権利があることが先週語られました。今日は使徒だけに限らずに、範囲を広げて、福音を宣べ伝えている者たち(14節)の権利について話します。

7節はこの当時の社会の一般的な3つの例です。疑問文で問い掛けて、手紙の読者に考えさせます。軍隊に加わる兵士は、自分で費用を出して手弁当で加わるのではなくて、多少の例外もあると思いますが、軍隊の費用負担で加わって報酬もあります。

ぶどう畑を作る農夫は、その実を食べることを目的としています。野菜等を作っている人もいると思いますが、勿論自分で作った物を食べていると思います。また羊を飼う牧者は、その乳であるミルクを飲みます。

これらの三つの例はこの当時の社会のことと言いましたが、実は伝道者の譬えです。パウロは他の聖書個所で福音を宣べ伝えている者である伝道者に、「神の武具で身を固めなさい」と言い、また同労者を戦友と言って、伝道者を兵士に例えています。

またイスラエルはぶどうとかぶどう畑に例えられて、3:6で「パウロは植え、アポロは水をそそいだ」と伝道者は農夫に例えられています。また伝道者は羊であるイスラエルを飼う牧師と呼ばれます。ですからこの3つは伝道者はその働きから報酬を得る権利があることを考えるのに、分かり易い具体的な例です。

2、牛へのくつこ

パウロは社会の実例から説明したので、人間の考えだけで言っているのではないことを説明するために、次に聖書を引用します。「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」は申命記25:4です。「穀物をこなす」というのは、穀物の殻を取るために、まず殻を割るために打穀することです。くつこは漢字では口に籠と書いて、動物が物を食べられない様に口に付ける籠です。

穀物は床や石の上にまいて、その上に針とか歯の付いた重い板を牛に引かせて打穀しました。その打穀をしている時に牛が穀物をつまみ喰いしないようにと、くつこをかけてはならないというのがこの規定です。これは牛も働いているのだから食べる権利はあるということです。

「働らかざる者食うべからず」ですが、逆に「働く者食うべき(権利あり)」です。ところで申命記25:4のこの御言は、神は牛のことを心にかけて牛のために書かれたのでしょうか。

この文章自体は明らかに牛についてです。しかし申命記のこの文章の前後を見ると牛についてのことは一言も書かれていません。全て人間についてです。それはそうです。

聖書は牛の飼い方について書かれた書物ではなくて、人間の霊的な生き方について書かれたものです。神は牛のことを言われながら、わたしたち、直接的には伝道者を指して、また働く全ての者のために言っています。これは大切なことです。わたしたちは聖書の他の箇所でも直接書かれている内容だけを読むのではなくて、そこから霊的なことを考えることを求められています。

例えばレビ記25章に土地は7年目は安息を与えて種まきをしてはならないとあります。これは直接的には文字通りの意味ですが、聖書は農作物を作るための手引書ではありません。これは人間は安息日を守る様に、安息を守ることが神によって造られた被造物全体の自然のリズムに合っていること、またその大切さを教えているものです。

3、働きと報酬

耕したり穀物をこなしたり等の働く者は望みをもってそうします。望みとは報酬です。ただこれはどんな働きの仕事でも同じですが、望みである報酬だけを目的として働くのではありません。軍隊に加わる兵士は自分の国を守る心のある者であって、ぶどう畑を作る農夫や羊を飼う牧者は本当にぶどうや羊が好きで、ぶどうや羊を大切にする心の者である必要があります。

それでこそ楽しく良い働きができるものです。それは理想かも知れませんが、そうでなければ働きは空しいものです。報酬は飽くまでも後から付いて来るものであって、初めの目的とするものではありません。

またパウロの伝道者の例えは、兵士、農夫、牧者、打穀をする牛と、どちらかというと肉体労働の働きです。伝道者は霊的な働きと共に肉体労働的なタフさも求められる働きでもあることを改めて教えられます。

パウロは伝道の働きを、「霊のものをまく」と言います。これはマタイ13章の種蒔きの譬で、種は神の言である「霊のもの」です。そして刈りとるのは「肉のもの」です。一見するとまくものと刈るものが違う様に思われます。しかしガラテヤ6:7は、「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」と言います。

ぶどう畑を作る農夫は作るぶどうの実を刈りとり、羊を飼う牧者は飼う羊の乳を刈りとり、穀物をこなす牛はこなす穀物を刈り取ります。しかし伝道者は霊のものをまいて、肉のものを刈りとります。パウロはそれを行き過ぎだろうか、と問います。私たちも神から霊のものを頂いて、肉のものをお返しします。

その時にどの様にしたら良いのでしょうか。参考になる記事があります。創世記4章で、兄のカインは肉の人で肉のものである普通の地の産物を主に供え物としました。弟のアベルは霊の人で霊のものを供え物としました。カインの様に肉のものを供え物とする者は肉の結果を刈り取りことになります。では霊のものを供え物にするとはどういうことでしょうか。

それはアベルの様に自分に出来る最善のものをささげることです。わたしたちも、神からまかれる霊のものが自分にとってどれだけの価値があるのか、霊のものとしてお返しする時に、それをどの様に肉のもので現すかを問われることです。

4、すべてを忍ぶ

現在、コリント教会にいる牧師は肉のものを刈りとる報酬の権利にあずかっている様です。そうであればコリント教会の開拓者であるパウロたちにもその権利があるはずです。しかしパウロたちは、この権利を使わないで、キリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいます。

なぜ肉のものを刈りとる権利を利用するとキリストの福音の妨げになるのでしょうか。まずは現在のコリント教会の状態ですが、コリント教会には1~4章では教会の中に争いの問題があって、5、6章では性的不品行の問題があるとありました。

パウロは3:2で、コリント教会は肉の人で今になっても堅い食物を食べる力がないと言います。それは霊の人に対する様には対応出来ないということです。ですから福音の妨げとなる理由の一つ目はその様な状態のコリント教会でパウロが報酬にあずかれば、パウロは報酬が目的で伝道をしていると誤解されることです。

二つ目は、実際、この当時に報酬を目的とするにせ伝道者の様な者もいましたので、パウロも同類だと思われて、その教えもにせものだと思われてしまうからです。また三つ目はコリント教会は1章で知恵、権力、身分のある者が多くはないとありますので、財政的にも弱くパウロに報酬を出せる状態ではなかった様です。逆にピリピの教会は信仰的にも成長してパウロの伝道を経済的にも支えていました。

5、福音による生活

パウロは報酬を受ける権利を利用しませんが、一般社会の例、聖書の律法に続いて、次は当時の宮と祭壇の例で説明します。日本に限らず世界には色々な宗教がありますが、その宗教者たちは宮から下がる物、所謂、お下がりや、祭壇への供え物の分け前にあずかることが習慣になっています。聖書ではそれは律法によって定められています。

ところでここは8:4の「偶像への供え物を食べることについて」議論していますので、ここの宮と祭壇はエルサレム神殿とその祭壇と考えられます。そして、「それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められました」。

主は定められたというのは、マタイ10:10で12弟子をつかわすにあたり、「旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である」と言われたことと思われます。しかし不思議に感じるのは、パウロは自分自身は報酬の権利にあずからないのに、なぜこれ程迄に伝道者の権利を強調するのでしょうか。これは一つは恐らく他の伝道者のために言っているのだと思います。またそれは主の定めであって、それを実行しないと健全な教会が建てられないので、結局のところ福音の伝道にならないからです。そしてもう一つは福音にはそれだけの価値があなたがたにあることを伝えたいからです。無料ですと所詮その程度のものと思われかねません。この「福音によって生活すべきこと」という御言は伝道者に取っても襟を正される思いです。それは伝道者は福音を宣べ伝えるプロになるべきとの命令です。しかしこの御言は過去に大きな誤解を生んだものでもあります。14節は文脈からも明らかな様に伝道者の権利として書かれています。

つまりそれは伝道者が福音によって生活すべき様に支えなさいと教会に対する義務のはずです。しかし教会共同訳ですと、「福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の糧を得るようにと命じられた」と伝道者の義務とも取れる様に訳されています。

キリスト教界では過去、福音によってのみ生活することが、伝道者の義務とされていたことがあります。そして地方の財政の厳しい教会でも牧師がアルバイトをすることは不信仰とされて禁じられていました。祈れば本当に必要な物は与えられるはずだと。

しかし生活の最低水準の食べ物も得られないで病気になった牧師がいたことは残念なことです。その当時は、パウロが伝道を始めた後も、財政基盤が整うまでは天幕造りの仕事をしていた聖書の記事は無視されていた様です。律法主義的な考え方の恐ろしさを覚えますが、現代ではその様な誤解をする人はいないと思います。

14節は、伝道者は福音によって生活の糧を得るべきという意味の解釈で良いと思いますが、少し違う意味にも取ることが出来ます。それは福音を宣べ伝える者たちとはクリスチャン全員です。そして福音によって生活することとは、福音に従って生活すべきことです。

その様に考えますとこれはクリスチャン全員に対する御言と取れます。それはどんな働き、どんな種類の仕事でも主婦でも、福音を宣べ伝えるクリスチャンは福音によって生活すべきです。そしてパウロはコリント教会からは報酬を受けませんでしたが、ピリピ教会からは受けていました。「人は自分のまいたものを、刈り取ることにな」ります。パウロは霊のものをピリピ教会にまいたので、霊のものとして、本当に良い肉のものを受けました。

わたしたちも福音による生活によって、霊のものをまいて、霊のものを刈り取りましょう。霊のものをまくには聖霊の満たし無くしてことは出来ません。聖霊に満たされ、霊のものをまいて、霊のもので茂原教会を満たさせて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神さま、パウロは福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきようにと、コリント教会に伝えましたが、自分はその権利を使おうとはしませんでした。しかしパウロは自分でまいた霊のものをピリピ教会から受けていました。

私たちは目に見える肉のものに心を惹かれ易い弱い者です。聖霊に満たされる福音による生活によって、霊のものをまいて、霊のものを刈り取る者とさせてください。そして必要とする人に霊のものをまくことが出来ます様に私たちをお用いください。

また愛する家族を天に送り、悲しみの中におられるご遺族に主からの慰めがありますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。