キリストとの交わり
2020年11月1日
コリントの信徒への手紙一10章14~22節
主の御名を賛美します。今、茂原教会ではコロナの影響で聖餐式を取りやめていますが、礼拝がYoutube等のオンラインだけで行われている他の教団の教会では、オンラインで聖餐式を行うために自分で、ぶどう液とパンを買って参加するところがあります。
その一方、オンラインでの聖餐式には色々な問題があるので行わないように指示を出している教団もあります。ホーリネス教団では聖餐式を執り行う執行者は正教師であるという理解からかオンラインでの聖餐式には慎重な立場を取っているようです。聖餐式の意味を思いつつ今朝の御言を聴かせて頂きましょう。
1、偶像礼拝を避ける
パウロはこの文章の段落を、呼びかけに続いて「こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と、結論の前に、「こういうわけですから」と言っていますが、どういうわけでしょうか。それは7節でイスラエルが偶像礼拝をして悪を貪って荒れ野で滅ぼされてしまったからとも考えられます。また直前の13節で神が偶像礼拝の試練の逃れる道を備えてくださっているからとも考えられます。
試練の逃れる道は主イエスそのものであることを先週お話しました。主イエスの道というのは節制をして悪を貪らないことです。悪を貪らないということは、悪に近づかないで避けることです。ですから偶像礼拝にも近づかないで避けます。
「君子危うきに近寄らず」ということわざは、どこから来たのか出典が分からないそうですが、とても聖書的な考えだと思います。怪しいものには興味本位で近づいたりしないで、一切近寄らないことが賢い選択であることが神の知恵です。
パウロは前回、コリントに行った時には、3:1にあったように、コリント教会に対して「肉の人、つまりキリストにある幼子に対するように語りました」。しかし今回のこの手紙をここまで読んで霊的な理解も進んだことも期待して、これからは賢い人たちに話すように話すので、自分で判断することを求めます。
2、聖餐式
何について話すのかと言いますとそれは3,4節で荒れ野を彷徨っていたイスラエルも受けていた聖餐式の意味です。パウロは、「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか」と問います。
まず、「私たちが祝福する祝福の杯」という言い方は何のことだろうと思いますが、元々はユダヤで食事の最後に飲むぶどう酒の杯のことです。また過越しの祭りでは、4つの杯のうち三番目の杯の時に食事を祝福する祝福の杯でした。その名前が聖餐式にも使われるようになったようです。聖餐式のぶどう液の杯が、キリストの血との交わりとはどういう意味でしょうか。
今は聖餐式を行っていませんが、クリスチャンの方は聖餐式の中でぶどう液を飲む時にどの様な効果をイメージされているでしょうか。またまだクリスチャンでない方は聖餐式をどの様な効果があると考えて見ておられるでしょうか。
私は以前は聖餐式のぶどう液はキリストの血と言いますので、それを飲むということは輸血するような効果があって、聖餐式を行う度に私の罪深い血の中でキリストの清い血が濃くなって行くようなイメージを持っていました。キリストの血が私の血となり肉となって、キリストに似た者と変えられて行くのではないかというようなイメージです。
しかしぶどう液はあくまでぶどう液であって、聖餐式で飲むぶどう液の成分は市販されているぶどう液の成分と全く同じです。では聖餐式でぶどう液を飲んでも、市販されているぶどう液を自分で買って飲んでも効果は同じなのでしょうか。聖餐式で司式者が「この杯は、わたしたちのために流された、主イエス・キリストの血です」と宣言する時に、ぶどう液の物質としての成分は変わりませんが、そこには主イエスの血としての霊的な祝福の約束が伴うと信じています。
キリストの血は私たちの罪の赦し、贖いのために流されたものです。その血と交わるということは罪の赦し、贖いの効果を共にするということです。交わりは原語でコイノニアと書かれていて、私たちがコイノニア館で交わるようなものです。
キリストの血との交わりというのは、物質としてのぶどう液を使いますが、その効果はキリストの血が自分の血になるというような物質的な変化は恐らくないと思います。糖分を取ることによる糖度が上がる程度です。効果は物質的な者ではなくて、罪の赦し、贖いを覚える霊的な効果です。
また「私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか」と問います。パンも私は以前は聖餐式のパンを食べると、その栄養が自分の体の一部となりますが、その部分がキリストの体になるようなイメージを持っていました。しかしパンも物質的な意味ではありません。パンには二つの意味があります。
一つは十字架に付けられて裂かれたキリストの体を覚えてあずかることです。そしてもう一つは、キリストの体というのは、12:27にあるように教会です。教会はキリストを頭とする一つの体です。キリストの体と交わるということは私たちキリストの体である教会は一つの体であることを覚えることです。
教会は一つの体、一つのパンであることを象徴するために、聖餐式の時に一つの大きなパンから、一人づつパンを裂いて食べることをする教会もあります。聖餐式のことを、「パン裂き」と言う言い方もありますが、裂くということは元々は一つのものを裂くという意味がありますので、パンを裂くことは大切なようです。そうすると17節の御言が視覚的にも良く分かると思います。「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです」。一つのパンから裂く聖餐式を行っていた教会はコロナの後は聖餐式をどの様に行って行くのか課題になると思います。
3、偶像
パウロが肉によるイスラエルというのは、民族的なイスラエル人のことです。肉によるというのは、肉によらない霊的な神の祝福に与かるイスラエルがいるということで、それはクリスチャンです。イスラエル人は祭壇に献げたいけにえの一部を祭司やレビ人が食べたり、献げた一般の人が食べたりしますが、それは献げた祭壇におられる神と交わることです。
ここまでこの手紙を読んで来たコリント教会は、何となくパウロの言っていることの風向きが微妙に変わって来たように感じていたと思います。パウロは8:4で、「偶像に献げた肉を食べることについて、この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」と言っていました。まるでそれは偶像は本当はいないのだから、偶像に献げた肉を食べても何の問題もないという感じでした。
それなのに、いけにえを食べる人は献げた偶像の祭壇と交わることになるとか、偶像礼拝を避けなさいと言っても、そもそも偶像は存在しない訳で、存在しない偶像との交わり等が有り得るのかという疑問が湧いてきます。パウロはコリント教会がそのような疑問を抱くことを想定して話を続けます。
偶像に献げた肉は偶像に献げられたからといって献げられる前と何か肉の成分が変わる訳ではありません。また偶像であるギリシャ神話の神のゼウス、アポロン、ポセイドン等が実際に存在する訳ではありません。パウロはその様な、偶像に献げた肉とか偶像が何であるとか言おうとしているのではありません。
そうではなくて、偶像に献げる物というのは神と対立して偶像の背後にいる悪霊に献げることになります。偶像の背後には悪霊がいるというのが偶像の恐ろしさです。偶像というのはゼウスやアポロン等といった神話の神を彫刻で彫った物だけではなくて、神よりも優先する全てのものです。
クリスチャンといえども、この世で生活するために、お金、教育、仕事、家族等は必要で大切なことです。しかし神よりもお金、学歴、出世等を優先して貪るようになると、お金、学歴、地位等が偶像になります。そして偶像には悪霊が働きます。パウロはコリント教会が、そしてクリスチャンが悪霊と交わる者になることを望みません。
真の神以外に優先する物は偶像となりますが、キリスト教以外の宗教は全て偶像で悪霊の働きと考えるのは短絡的な考え方だと思います。クリスチャンではありませんが、ある宗教学者が宗教には1流から3流のものがあると言っていたことには同感です。1流の宗教というのは世の中で人々に慰めと平安を与える役割を果たすもので、3流の宗教というのはインチキで、教祖等の特定の個人が貪るためのもので悪霊の働きです。
勿論1流の宗教なら何でも良いという訳ではありませんが、それは主の御手の中にあるものと言えます。主イエスに出会ったパウロがパリサイ派からクリスチャンとなったように、他の宗教は全てを否定するものでもなくて、主イエスに出会えばキリスト教に繋がることになるものではないかと思います。
4、偶像礼拝
クリスチャンは聖餐式で主の杯であるぶどう液を飲み、主の食卓であるパンにあずかって、キリストとの交わりに生きています。キリストとの交わりに生きている者が、偶像礼拝である悪霊の杯と食卓にあずかることはできません。できないというのは物理的にできないということではありません。
神と悪霊は全く相容れないものです。神は人々に平安と祝福をお与えになる方であるのに対して、悪霊は人々を誘惑して破滅と死に至らすものです。ですから神と悪霊と両方と交わることは信仰的に有り得ないことです。主イエスがマタイ6:24で、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われた通りです。
しかし人間は欲深い貪る者です。意識してか無意識かは別として神と悪霊の両方から良いところだけを得ようと、良いところ取りをしようとします。実際、先週の1~10節でイスラエルは、2節で紅海を渡って洗礼を受けて、3節で霊の食物であるマナ、霊の飲み物である岩からの水を飲んで聖餐式を行って神と交わっていました。
しかし同時に、悪を貪る4つのことである、偶像礼拝、淫らな行い、キリストへの試み、不平を言うことをしました。その結果どうなったでしょうか。主に妬みを起こさせて滅ぼされました。人間のほうが、主なる神より強ければ主に妬まれても問題はありません。しかしそんなことは有り得ないことです。
しかしそうは言っても、歴史は繰り返すと言いますが、私たちも荒れ野で滅ぼされたイスラエルと同じことの繰り返しになってしまう可能性もあるのではないかと思われるかも知れません。エジプトを脱出したイスラエルと私たちの状況が全く同じであれば似た様な結果になるでしょう。しかし当時と決定的に違うことがあります。
それは主イエスが私たちの罪の赦し、贖いのために十字架に掛かられたことです。そして私たちには助け手として聖霊が与えられていることです。今は聖餐式がコロナウイルスの影響で行えませんが、日々のデボーションや祈りを通してキリストとの交わりに生きる者には聖霊が働いて助けてくださいます。
そして例え試練に遭っても、逃れる道である主イエスの道へと導いてくださいます。日々キリストとの交わりに生きて、悪霊との交わりである偶像礼拝に惑わされないように聖霊に導きお守り頂きましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロは、「この世に偶像の神などはなく、唯一の神以外にいかなる神もいない」という一方で、偶像に献げる物は悪霊に献げていると言います。私たちはキリストと交わりつつ、この世の偶像に目を奪われ易いものです。私たちがキリストとの交わりによって聖霊の力を頂いて、偶像の背後にいる悪霊に惑わされることがないようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。