霊の働きは全体の益のため

2020年12月13日
コリントの信徒への手紙一12章1~11節

主の御名を賛美します。今のアドベントはクリスマスにこの世にお生まれになられたイエス・キリストの到来を待ち望む季節です。イエス・キリストは今は天に帰られて、聖霊が私たちと共にいてくださいます。聖霊はキリストの霊であり神の霊である三位一体の神です。今日の聖書個所には霊の賜物という小見出しが付いていますが、聖霊について知ることはキリストを知ることです。

1、問題

11から14章は礼拝についてとお話しました。11章ではパウロがコリント教会について聞いていることから、礼拝でのかぶり物と主の晩餐について指示をしました。しかし礼拝についてコリント教会からパウロに質問して来たことがあります。「霊の賜物については」というパウロの言い方からそのように考えられます。

霊の賜物はとても大切なことなので12~14章迄、3章掛けて書いています。この前の偶像に献げた肉を食べることについても8~10章迄、3章掛けて書いていました。コリント教会が霊の賜物について、どういうことを質問して来たのかという質問内容は今回も書かれていませんので、はっきりとは分かりません。

しかし読み進めて行くと、14:37に「自分は預言者か霊の人であると思っている者は」とありますので、コリント教会にそのような者がいることが問題です。そのような者は自分は他の信徒よりも霊的に優れていると思って、賜物をひけらかすようにして礼拝等の集会の秩序を乱していました。そのことについてどうしたら良いかパウロにアドバイスを求めて来たようです。

「自分は預言者か霊の人であると思っている者」というのは現代を含めていつの時代にもいます。そして霊の賜物の問題はいつの時代でもあります。現在はそれ程の大きな問題にはなっていませんが、一昔前は結構大きな問題でした。

こういうことは、前の大きな問題を知らない人が多くなって来ると、周期的に起こって来る傾向があるようです。その意味でもこの個所の内容を良く知っておく必要があります。パウロは厳しいことも言いますので、10:1と同じ様に、「きょうだいたち、次のことをぜひ知っておいてほしい」と初めに言います。

2、聖霊と悪霊

あなたがたであるコリント教会員は、まだ異邦人だったとき、それはまだクリスチャンになる前のことです。異邦人という訳でも良いのですが、ここは新改訳の異教徒だった時の方が良いかも知れません。誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れていかれました。

コリントにはギリシャ神話の神々の神殿があって、コリントの人々はそこに誘われて、10:20にあったようにそこで献げ物をしたり食事をしたりしました。8:4にありましたが、ギリシャ神話の偶像の神々などは存在しません。しかし問題はそこに悪霊の働きがあります。ギリシャ神話の影響の強いコリントでは霊の働きを高く評価する文化がありました。ですからコリント教会には、「自分は預言者か霊の人であると思っている者」がいて高ぶっていました。1:22に「ユダヤ人はしるしを求めギリシャ人は知恵を探す」とありましたが、霊の働きも好きなようです。パウロは霊の働きを認めますが、まず初めに霊と言っても、神の霊である聖霊によるものと、悪霊によるものがあります。神の霊である聖霊によって語る人は、誰も「イエスは呪われよ」とは言いません。

クリスチャンになる人は皆、「イエスは主である、イエスは救い主である」と告白しますが、これは聖霊によらなければ言うことはできません。それは、「イエスは主である」と告白したクリスチャンは一人残らず全員霊の賜物を与えられているということです。3節には神、聖霊、イエスと三位一体の神が現れています。

3、多様性と統一性

4~6節は一般的には修辞学的な表現と言われます。修辞学というのは弁論術です。同じような内容を「~にはいろいろありますが、同じ~です」と3回繰り返して強調する方法です。ユダヤ文学的には平行法と言えます。主語である、恵みの賜物、務め、働きにはいろいろあります。しかしそれは同じ霊、同じ主、同じ神です。ここにも三位一体の神が出て来ます。ここの霊、主、神はこの文章の何に当たるのでしょうか。4節と6節では霊と神が主語である恵みの賜物と働きの源泉、源になっています。

しかし5節の主だけは目的語になっています。しかし原語には、4節の「それをお与えになるのは」と5節の「仕えるのは」という言葉はありません。ですから直訳すると「恵みの賜物にはいろいろありますが、同じ霊です。務めにはいろいろありますが、同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての人の中に働いてすべてをなさるのは同じ神です」。

4節と6節の霊と神は源泉ですので、5節の主も源泉と考えるのが自然です。ですから5節は4節と同じように、「務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です」の意味だと思います。務めをお与えになるのは同じ主で、仕えるのも同じ主です。

そうしますと恵みの賜物、務め、働きにはいろいろとありますが、その源泉は霊、主、神の三位一体の神であるということです。そこには霊の賜物には多様性がありますが、その源泉は三位一体の神であるという統一性があります。

恵みの賜物、務め、働きにはいろいろありますが、その源泉が三位一体の神であるということは、誇るべきは神のみで、人間自身には何もありません。恵みの賜物、務め、働きの三つは別々のものという意味ではなくて、8~10節にある賜物を三つの角度から見ることができます。

4、霊の働きは全体の益のため

4~11節を見ると、これもユダヤ文学の特色である中心構造で書かれていることに気付かされます。初めの4節と同じ内容が11節に書かれています。そして4~6節の霊の賜物のいろいろな内容が対応する8~10節に具体的に書かれています。そうしますと全体の中心の内容は7節です。6節は、神がすべての人の中に働いてすべてをなさると言います。7節は、その様に、一人一人に霊の働きが現れる目的です。それは全体の益となるためです。

パウロは今日の12章から14章迄、3章に渡って霊の賜物について話ますが、3章全体を貫くテーマは今日の説教題である、「霊の働きは全体の益のため」です。これは8~10章の「偶像に献げた肉を食べることについて」と同じです。8~10章でパウロは偶像とは何か、偶像に献げた肉とは何か、またそれを食べるとはどういうことかと細かく話して来ました。しかし10:33の最後の結論は、「私は多くの人の利益を求めているのです」でした。同じように霊の働きを考える時にも、求めるのは全体の益となることです。

5、霊の働き

霊の働きには具体的にはどのようなものがあるのでしょうか。8~10節で9つが挙げられています。日本語ですと9つが並列に並べられていますが、原語では3つのグループに分けられています。一つ目は、8節の知恵の言葉と知識の言葉の二つ、二つ目は9節の信仰、癒しと10節の奇跡、預言、霊を見分けるの五つ、三つ目は10節後半の異言と異言の解き明かしの二つです。

霊の働きとして抽象的な名前で9つのものを挙げられても具体的に分かり難いかも知れません。しかし神は三位一体ですから霊の働きはイエス・キリストも基本的にはされていたことです。三つ目のグループの異言を語り、解き明かすことはされていませんが、それ以外はされていました。

そして同じ霊の働きによって、神のかたちに造られた人間も行います。ここは中心構造として全体を折り返して読むのではなく、4~6節と同じ順番として読んでみたいと思います。一つ目グループの、8節の知恵の言葉と知識の言葉の二つは、4節の恵みの賜物の意味が大きくなります。

勿論、この知恵と知識についても生まれながらの賜物だけではなくて、教育や信仰によって霊によって高められる必要はあります。ここの知恵と知識の意味の違いは余りありません。ここに3つのグループの働きがありますが、28節の神が立てた者のリストと見比べても初めに出てくる働きの方が優先度は高いようです。

コリント教会は霊の働きとして異言を重んじていましたが、異言は最後の第3グループになります。そして、初めはむしろ異言の正反対とも言える、理性や知性の重んじられる知恵の言葉、知識の言葉が挙げられています。これは知恵を探すギリシャ人向けとも考えられますが、霊の働きは全体の益のためという観点からすると第一になります。

そして二つ目の5節の務めとは、二つ目のグループの恵みの賜物を用いた奉仕の意味です。このグループには5つあり、初めは信仰ですがクリスチャンは皆、信仰を持っています。しかしここの信仰は13:2にあるような、「山を移すほどの」特別な信仰を意味しています。

山を移すと言っても実際に山を移すのではなくて、これはユダヤの表現で山のような大きなものを移すという意味です。二つ目は癒しの賜物、三つ目は奇跡を行う力、四つ目は預言、五つ目は霊を見分けることです。霊を見分けるというのは、預言が3節のように聖霊によるものか、悪霊によるものかを見分けることです。この二つ目のグループの務めは、主がお与えになり主に仕えるものです。これは時代で分けると、主イエスがこの世に来られる前の旧約時代、主イエスがこの世におられた福音書の時代、主イエスが天に帰られた後の時代と、その務めの役割が変わることもあることに気を付ける必要があります。一つ目の信仰は13:13にあるように、いつまでも残り変わりません。癒しの賜物と奇跡を行う力を主イエスは福音書の初めの方では使われていましたが、それはご自身が救い主であることを証明されるためです。

しかし福音書の後半ではあまり使われなかった意味を考える必要があります。

預言についてはこの先もじっくりと考えて行きたいと思いますが、まず神の言を預かって語ることです。旧約聖書では将来の出来事を予告する預言が多くありました。それはイスラエルの滅亡、捕囚、捕囚からの帰還、その後のユダヤ人の離散等の大きな出来事がその後に起こることになっていたからです。

そのために遣わされた預言者が悔い改めの預言を語ることは、イスラエル全体の益となるためでした。しかし現在ではこれから世の終わり迄に起こる出来事は福音書や黙示録に既に全て預言されています。

そして黙示録22:18には、聖書の預言に付け加えてはならないと書かれていることの意味を慎重に考える必要があります。パウロ自身は使徒ですが、将来の出来事を予告するようなことはしないで、手紙や伝道旅行等を通して知恵と知識の言葉を語ることに集中していました。

最期の三つ目のグループの働きは、恵みの賜物を用いた務めで現れて来るもので異言です。異言には、13:1にあるように、人々の異言と天使たちの異言があります。人々の異言とは使徒言行録2章のペンテコステの時に起こった他国の言葉、外国語で話すことです。

しかしここの異言は天使たちの異言のことで、異言を解き明かす人がいなければ異言を語る本人も語っている内容が分からないものです。コリント教会は異言を語ることで自分たちはクリスチャンとして完成された者になったと考えていたようです。

それはある教派で異言を語る事が聖霊のバプテスマを受けることと考えて一人前のクリスチャンになったと考えることに似ています。しかし異言は神が働いてなさるものであり、自分で語るものではありません。そして異言を解き明かす人がいなければ語る本人も内容が分からないのでは、全体の益の観点からは優先順位は低くなります。

霊の働きは、どれも同じ一つの霊によるものです。霊に働きは全体の益となるために、霊が望むままに一人一人に分け与えてくださるものですから優先順位はあっても優劣がある訳ではありません。

主イエスがクリスマスにこの世に来られて、ご自身が行われた霊の働きの賜物を、神のかたちである私たち一人一人も与えられています。そこにはいろいろな働きはありますが優劣はありません。主イエスがなされたように私たちも全体の益となるために用いて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。霊の働きにはいろいろとありますが、私たちには良く分からない部分もあり、コリント教会が感じていたように、そこに優劣のようなものを感じてしまい易いものです。しかしあなたは霊の働きはすべて三位一体の神によるものであり、全体の益となるためであると言われます。私たちは皆、聖霊によって「イエスは主である」と告白した、またこれから告白する者です。あなたから与えられた賜物を生かして生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。