イエス・キリストによる恵みと真理

2020年12月20日
ヨハネによる福音書1章14~18節

メリークリスマス。クリスマスが近いからだと思いますが、先週の水曜日の夜中に「僕はイエス様が嫌い」という映画がテレビで放映されました。私はテレビの番組表で見て、その映画が去年、日本で作られてヨーロッパの映画賞を3つ受賞したという説明もあったので何となく録画して見ました。

内容は悪くはありませんが、特にお勧めするという内容ではないと思います。人によって感性が違うので感じ方は人それぞれかも知れません。広い心で見れば、イエス様はおられるけれど人生には不条理があるとも見えます。

しかし真面目なクリスチャンであれば、イエス様が小さな妖精のように現れて、しかもコミカルに描かれていることに違和感を覚えるかも知れません。その様な映画が、一応キリスト教の3つの国で受賞したことは驚きです。イエス・キリストがどの様なお方であるのか、またそのお生まれであるクリスマスの意味を御言に聴きましょう。

1、言

クリスマスは私たちの救い主、イエス・キリストがこの世にお生まれになった記念日です。主イエスはどの様なタイミングでお生まれになられたのでしょうか。そのことについてバプテスマのヨハネが証ししています。ところでこの福音書を書いたのは12弟子の一人である使徒ヨハネです。

しかし使徒ヨハネはこの福音書の中で一度も自分のことをヨハネと名前で書いていませんので、この福音書でヨハネと書かれているのは全てバプテスマのヨハネです。ルカによる福音書1章によるとこのヨハネのお母さんのエリサベトがヨハネを身籠って6か月目に、主イエスのお母さんのマリアは主イエスを身籠りました。

ですから約二千年前のバプテスマのヨハネが生まれた半年後位に主イエスはお生まれになられました。しかしヨハネは、主イエスは私よりも先におられたから、私にまさっている、と言います。主イエスがこの世にお生まれになったのは自分より半年後だけど、主イエスはこの世にお生まれになる前からおられました。

どのようにおられたのかというと“言”としておられました。1節で「初めに言があった」とありますので、全ての初めからおられました。そして言である主イエスは父なる神と共にあって、言である主イエスは神でした。創世記1:3で、神が「光あれ」と言われると、言である主イエスが光を造られました。教会に長く通っている方は神の言という時には、葉の漢字が付かないことはご存じだと思います。

しかし初めは、なぜ神の言には葉が付かないのだろうと思われると思います。言という漢字は出来事の事と同じ意味です。神の言は神の人格の延長であって必ず出来事となるものです。

イザヤ55:11に「私の口から出る私の言葉も空しく私のもとに戻ることはない」とある通りです。葉の付く人間の言葉は、言の端(は)が語源と考えられて、葉のように薄く、そして散って行く、儚いイメージなのかも知れません。

主イエスがこの世にお生まれになられたことを、神が人となられたと言うのではなくて、言は肉となった、肉体を持たれたというのは面白い表現だと思います。それは神の言は神である主イエスそのお方であるということです。つまり神の言である聖書の言は神である主イエスそのものです。

そのような意識を持って聖書を読みたいと思います。創価学会の聖教新聞のコマーシャルで「言葉と共に生きて行く」というフレーズがありますが、そのフレーズ自体はキリスト教でも使いたくなるような良いものだなと思います。

2、恵み

この福音書を書いた使徒ヨハネを含む他の弟子たちである“私たち”は、人となられた主イエスの栄光を見ました。その栄光は父の独り子としての栄光です。私たちが講解説教で聴いているコリントの信徒への手紙1の11:3のかぶり物のところで、キリストの頭は神で、全ての人は自分の頭の栄光を映すとあった通りです。

そしてその栄光とは具体的にどういうものかと言いますと、恵みと真理に満ちたものです。恵みと真理は14節と17節で2回出て来て強調されています。私たちは皆、この方である主イエスの満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられました。

恵みに上に恵みと恵みを4回繰返し強調します。恵みというと、この個所と全く関係ありませんが、私の中で思い浮かぶのは、もう40年近く前の曲ですが、ラッツ&スター、元シャネルズの「め組の人」という曲です。2年前には倖田來未がカバーしたそうです。全く関係ありませんが。

さて「恵みの上にさらに恵みを与えられた」とはどういう意味でしょうか。今日の中心聖句である次の17節で、「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられたからである」と言います。「からである」ということは、これが「恵みの上にさらに恵みを与えられた」ことの理由です。ということは律法をモーセを通して与えられたことが第一の恵みです。

イスラエルは自分たちが律法を与えられるのに何か相応しい良いことをしたので与えられたのではありません。神によって一方的に選ばれて神の民とされて、神の民に相応しい生き方をするために律法を授けられました。完全に一方的な神の恵みです。モーセを通して与えられた律法は主イエスとは関係ないのではと思われるかも知れません。

しかし、律法は神の言ですから主イエスそのものです。それはローマ7:12(p277)に、「実際、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるもの、正しいもの、善いものです」とある通りです。ユダヤ人は現在も人口の割合から考えると世界中で活躍する人がとても多くいます。

その理由は、迫害されて来たので生き延びるために努力をしたから等の色々な理由が考えられます。しかしその一つの理由は旧約聖書を大切にしているからではないでしょうか。ユダヤ教の人は主イエスはせいぜい預言者の一人として考える位で、救い主としては認めていません。

しかし彼らが大切にしている旧約聖書は神の言である主イエスであることに気付いていないようです。そして主イエスである神の言を大切にしているユダヤ人にも、満ち溢れる豊かさの中から恵みが及んでいるのではないでしょうか。律法と言うと、律法は良くないものと誤解しているクリスチャンもいるようです。

しかし律法は主イエスですから、聖なるもの、正しいもの、善いものです。主イエスが福音書で廃止しようとされたのは、律法そのものではなくて、律法を神の御心から離れて人間の考えで解釈して、人間の努力で守ろうとして作り上げた律法主義です。

律法はマタイ5:18にあるように、「一点一画も消えうせることはない」ものです。ただマタイ5:17にあるように、主イエスはご自身である律法を完成するために来られましたので、主イエスご自身が十字架で完成されたことである、祭壇で動物等の犠牲を献げること等の必要はなくなりました。

3、さらなる恵み

一つ目の恵みはモーセを通して与えられた神の律法です。しかし恵みの上にさらに恵みを与えられました。では恵みの上のさらなる恵みとはどのようなものなのでしょうか。そのさらなる恵みと真理はイエス・キリストを通して現れました。

その恵みと真理とはどのようなものなのでしょうか。第一の恵みとして神の律法がモーセを通して与えられましたが誰も聖なる律法に従うことが出来ませんでした。そこでさらなる恵みが現れました。

それは神の律法に従い得ない者をも信仰によって救うという恵みです。そして満ち溢れる恵みは、信仰によって救われることに留まりません。従い得なかった律法を聖霊の上からの力によって成就する者へと変えられて行きます。恵みは本当に有難いものです。まだ恵みに与かっておられない方はぜひ与かって頂いて恵みの人になって頂きたいと願います。

4、真理

さて主イエスは恵みに溢れたお方ですが、同時に真理のお方でもあります。それは、14:6で「私は道であり、真理であり、命である」と言われた通りで、真理を貫かれます。主イエスは恵みによって罪人の罪を信仰によって赦されます。

しかし、「罪の支払う報酬は死です」(ローマ6:23)という真理をうやむやにしたり、無しにすることは出来ません。そのために真理は主イエスの十字架の死による罪人の贖いというかたちで現わされました。ですから十字架は恵みと真理とに満ちた神の栄光です。

クリスチャンに限ったことではないかも知れませんが、女性の名前で、恵み、恵の字の入った恵子、恵美等があります。また真理と書いて「まり」と読み、真理の子で「まりこ」等があります。恵みや真理に対する親の願いが込められていると思います。

5、神を示す

いまだかつて、霊である神を見た者はいません。しかし父の懐にいる独り子である神、イエス・キリストが父なる神を示されました。どの様にかと言いますと、イエス・キリストを通して恵みと真理を私たちに現わすことによってです。その恵みと真理の始まりがこのクリスマスです。

何もしなくても時が来ればクリスマスは全ての人に訪れます。しかし、主イエスによって救われて、律法を成就する者へと変えられて行って、個人的に本物のクリスマスを迎えて頂きたいと思います。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはお独り子であるイエス・キリストをクリスマスにこの世にお送りくださり、私たちにあなたの恵みと真理を現わしてくださいました。全ての人がクリスマスの本当の意味を受け入れ、あなたの満ち溢れる豊かさの中で恵みに満たされて生きることが出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。