主の戦い

2022年2月6日
申命記 2章8b~23節

        
主の御名を賛美します。私たちはある人の祝福を願って良いことを勧めようとすることがありますが、その人にそのことを理解して実行して貰うのが難しい時があります。その様な時にはどのようにしたら良いのでしょうか。海軍大将であった山本五十六は名言として、「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。」と言いました。

特に勧めることが一見難しそうに見える時には、私たちが他の人に色々と言って聞かせても動いてはくれません。しかし自分が勧めることを、まず自分がやってみせ、見本を見せて、説明をして言って聞かせて、相手にさせてみせ、ほめてやるとやっと動いてくれるものです。

1、モアブ
イスラエルの人々は兄エサウの子孫のもとを去って、向きを変え、モアブの荒れ野の道を通って行きました。モアブは死海の南東の辺りです(地図2、3)。そこで主はモーセに言われました。「モアブを敵視して、戦いを挑んではならない。私がその地を領地としてあなたに与えることはない。アルは、ロトの子孫に領地として与えた」。

人物名や地名は違いますが言っている内容は、5節で兄エサウの子孫の住むセイルについて言われたことと殆ど同じです。ロトはアブラハムの兄弟ハランの息子でアブラハムの甥です。アブラハムとロトはそれぞれの家畜も増えて一緒に住むことが出来なくなって、創世記13:11で別れてロトはヨルダンの低地を選んで住みました。イスラエルがこれから進んで行く所です。

ロトの2人の娘のお姉さんが父ロトによって産んだ子がモアブで(創世記19:37)、モアブは「父によって」という意味です。モアブはモアブ人の先祖ですので、モアブ人はロトの子孫ですからイスラエルの親戚です。

アルは「町」という意味で、18節ではモアブ領アルと言い、モアブの町の名前とも考えられますし、またアルはモアブを指しているとも考えられ正確なことは分かりません。地図2にはアルのモアブとあります。10~12節は、「―」で挟まれていますが、これはモアブについての説明として挿入された文章です。

かつて、モアブにはエミム人という先住民が住んでいました。エミム人はアナク人のように大きくて数が多く、背が高かった。エミム人は「恐るべき人々」という意味のようです。エミム人はアナク人と同じようにレファイム人だと見なされていました。レファイム人はパレスチナの先住民で巨人ですが、モアブ人はレファイム人をエミム人と呼んでいました。

セイルの山地にはかつて先住民のフリ人が住んでいましたが、エサウの子孫が彼らを追い払って滅ぼし、彼らに代わって住みました。それはちょうどイスラエルが、主から与えられた領地に対して行ったことと同様です。

2、戦士は不要
13節からは9節の終わりからの本文の続きに戻って、主はモーセに、「さあ、立ち上がって、ゼレド川を渡りなさい」と命じます。ゼレド川は死海の真南に南東から流れ込む川で(地図4)、エドムとモアブの国境の川です。水のある川を渡ることは前回もお話しましたが、水によるきよめを通して新しいステージに進むことを意味します。

ですからただ単に川を渡るのではなくて、神を見上げて立ち上がって川を渡ります。イスラエルは主の命令に従ってゼレド川を渡りました。イスラエルがカデシュ・バルネアを出発してから、ゼレド川を渡るまでの歳月は38年でした。

カデシュ・バルネアからゼレド川を渡るまでは38年ですが、ホレブには1年近くいたりしましたので荒れ野にいた歳月は40年です。その38年の間に、主がイスラエルに誓われたとおり、カデシュ・バルネアで約束の地に上って行かなかった20歳以上の世代の戦士はすべて陣営の中からいなくなりました。

戦士が陣営からいなくなったのは単に38年という歳月が経ったからというよりも、主の手が彼らに及んだので、陣営は混乱し、死に絶えてしまったと言いますので、戦士は主の手によっていなくなりました。

そして14節と16節で、すべての戦士が民の中から死に絶えたと2回繰返して強調しています。それはイスラエルの今後の出陣において、主はこの世の戦士を必要としないことを強調しているようです。

3、アンモン
戦士が死に絶えた後、主はモーセに告げられました。「あなたは今日、モアブ領アルを通り、アンモン人の場所に近づく。」ということはモアブ領の通過は順調のようです。しかし「アンモン人を敵視し、戦いを挑んではならない。アンモン人の地を、私が領地としてあなたに与えることはない。そこは、ロトの領地として与えた。」これは9節のモアブについての言葉と同じです。

ロトの2人の娘の妹が父ロトによって産んだ子がベン・アミで、ベン・アミは「わが肉親の子」の意味で、アンモン人の先祖です。アンモン人もイスラエルの親戚です。20~23節もまた「―」で挟まれていますが、これはアンモンについての説明として挿入された文章です。アンモン人の地も、巨人である先住民であるレファイム人の地と見なされていて、かつてレファイム人が住んでいて、アンモン人はレファイム人をザムズミム人と呼んでいました。

ザムズミム人はアナク人のように大きくて数が多く、背が高かったと言いますので、モアブのエミム人と同じようです。しかし主がザムズミム人を滅ぼされたので、アンモン人が彼らを追い出し、代わってそこに住みました。ここでザムズミム人を滅ぼされたのはあくまで主であって、アンモン人はただ主に従ってそこに住みました。

そしてそれは、ちょうど主が、セイルに住むエサウの子孫に行ったのと同様です。すなわち、主がフリ人を滅ぼしたので、エサウの子孫は彼らを追い出し、代わってそこに住んで今日に至っています。そして同じようなことはガザでもありました。カフトル出身のカフトル人が、ガザに至るまでの村落に住む先住民のアビム人を滅ぼし、代わってそこに住んでいます。

4、急がば回れ
イスラエルは1章でカデシュ・バルネアから約束の地に12人の偵察隊を送りましたが、恐れて上って行こうとはしませんでした。なぜ恐れたのでしょうか。最大の理由は1:28で、巨人であるアナク人の子孫をそこで見たからです。人は人を恐れるものです。

前回の偵察隊はカデシュ・バルネアからヨルダン川の西側から約束の地へ偵察に行きました。確かに距離的にも西側から行った方が約束の地へは近いです。ではなぜ今回は近い西側から約束の地へ上って行かないのでしょうか。どうしてわざわざ遠回りして東側から行くのでしょうか。

38年の荒れ野での様々な生活を通してイスラエルは主に従うことを学びました。しかし一度あることは二度あると言います。38年前の失敗がまた繰り返される可能性が無い訳ではありません。巨人であるアナク人の子孫を見てイスラエルがまた恐れてしまうかも知れません。

イスラエルが恐れないためにはどういうことが必要なのでしょうか。山本五十六の言う、「やってみせ」の前例のお手本が必要です。イスラエルは巨人のアナク人等の先住民を主が滅ぼされて、他の民族が追い出して住んでいる状況を実際に見れば自分たちも大丈夫だと思えるでしょう。

そのためにイスラエルはセイルで先住民であるフリ人を追い出したエサウの子孫を見て、モアブ人がエミム人を追い出したのを見て、アンモン人がザムズミム人を追い出したのを見る必要がありました。

エサウの子孫もモアブ人もアンモン人もイスラエルの親戚ではありますが、神が祝福されたアブラハム、イサク、ヤコブの本流の民族ではありません。それでも主は巨人の先住民族を滅ぼして、イスラエルの親戚の民族に領地として与えられました。

そしてイスラエルは実際に占領して住んでいるイスラエルの親戚の姿を目にしました。そうであるなら神に祝福されたイスラエルは同じように、いや親戚たち以上に尚更、主が先住民族を滅ぼしてイスラエルが約束の地に住むことになるという確信を得られることでしょう。

イスラエルは親戚たちが領地を占領する姿を見せられ、自分たちが約束の地に入る確信を得るためにヨルダン川の東側を回されたのでしょう。「急がば回れ」でしょう。

5、主の戦い
私たちも主の言葉に素直に従って行動するなら祝福を得られると思いつつも、アナク人の子孫である巨人のように人を恐れることがあります。また人ではなくても巨人のような高いハードルがあるように感じることがあります。

そして38年前のイスラエルの様に、この巨人の様な高いハードルは無理だ、超えられないと恐れて、チャレンジすること自体を諦めてしまうこともあるかも知れません。ここのところ創世記16:8で主の使いがサラの女奴隷ハガルに尋ねた、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」の御言から、主が過去に自分に与えてくださった恵みを覚えることをお話して来ました。

自分が実際に過去に体験した恵みを覚えておくことは大切なことですが、自分が体験したことだけですと範囲が限られることもあります。自分が受けた恵みだけではなくて他の人が受けた恵みから、私たちは主の恵みを知ることが出来ます。

他の人が受けた恵みと全く同じ恵みを自分も必ず受けられるとは限りません。しかし、主が恵みを与えるから進みなさいと言われて、周りの他の人も主から同じ恵みを受けているのなら、自分も同じ恵みを受けられることを信じて、恐れずに進みたいものです。

また主の恵みは自分の周りのいる人が受けたことだけに限る必要もありません。コヘレトの言葉1:9の、「太陽の下、新しいことは何一つない」という御言は少し空しくも聞こえますが、とても示唆に富んだ言葉です。

「歴史は繰り返す」と言いますが、今、自分の人生に起こっていることと同じようなことは過去にもどこかであったはずです。聖書には人間がありとあらゆる場面にあったことが書かれています。今、自分が置かれているのと同じような場面の聖書の箇所を読むと、自分がこれから、「どこに行こうとしているのか」が見えて来ます。

その意味でも聖書は預言の書と言えます。またどのような方向に進むと失敗するのか反面教師としての記事も聖書に多く書かれています。聖書に書かれている失敗の出来事と同じことをするのは出来れば避けたいものです。そのためにも私たちは聖書を読んでいると言えます。「過去に学ばない者は過ちを繰り返し」ます。

聖書を良く読んで、聖霊の導きに従って主が祝福される道を歩みましょう。それが聖書に生きることです。ただそうは言っても私たち人間は現実に目の前に見える人を恐れやすいものです。しかしクリスチャンは主イエスの十字架によって贖われて救われ、主に祝福される人々です。

主が導かれるなら、巨人と戦うのは私たち自身ではありません。巨人と戦い滅ぼされるのは主です。私たちはただ主の示される向きに進むだけです。この世は荒れ野ですから巨人のような色々な困難に見えることに直面することもあるかも知れませんが、ただ主の祝福を信じて歩ませていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはイスラエルに向きを変え、出発しなさいと言われましたが、イスラエルが巨人に対する恐れによって同じ過ちを繰り返すことのないように、遠回りをさせて、親戚たちの見本を見せられ、励まされました。

私たちも聖書を通してあなたが神の民を守られることを知りつつも、恐れやすい弱い者です。あなたが私たちを完全に守られることを私たちが聖書を通して深く知り、聖霊の導きに従って恐れずに信頼して進んで行けますようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。