十字架の言
2020年5月3日
コリント人への第一の手紙1章18~31節
主の御名を賛美します。約30年前のバブル期に女性が結婚相手の男性に求める条件が「3高」と言われました。3高と言うのは、高学歴、高収入、高身長ですが、私は身長についてはずっとシークレット・ブーツを履いている訳にも行きませんし、残りの二つについても負け惜しみが全く無くもないかもしれませんが、興味が無かった、ということになっていますので。
だからという訳ではありませんが、バブルの途中で英国に行って、帰って来たらバブルが終わっていましたので、私はバブルを余り体験する必要が無かったということだと思います。3高は日本のバブル期だけではなくて、条件は少し違いますが二千年前のコリント教会にもあった様です。御言を聞かせて頂きましょう。
1、この世の知恵
前回の内容は、コリント教会には「争い」の問題があって、その解決方法はキリストの十字架に預かるバプテスマによって、キリストと一体にされて一つの身体として生きることでした。同じ一つの身体が争うのは愚かな事です。教会が一つの身体として生きることは茂原教会の今年度の標語である「神のかたちに生きる」ことです。
さて全ての人は二種類に分かれます。それは滅び行く者と救いにあずかる者です。
そしてそれは一体何によって決まるのでしょうか。この世には色々な知恵があります。パウロは、「知者はどこにいるのか」、「学者はどこにいるのか」、「この世の論者はどこにいるのか」と問います。
知者はギリシャ人の哲学者等、学者はユダヤ人の律法学者、論者はヘレニズム世界の論者等と考えられます。その様な知恵は最終的にはどこに至るのでしょうか。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求めることに至ります。なぜそこに至ったのでしょうか。それなりの歴史と経緯があります。
しるしは神が働いていることを証明する奇跡です。旧約聖書にはモーセの十の奇跡を始め多くのしるしが書かれていますのでユダヤ人はしるしを重視します。ギリシャは古くから文化が発達して特にギリシャ哲学は有名でギリシャ人は自分たちを知恵のある者と思っていました。
ところが、申命記21:23に「木にかけられた者は神にのろわれた者」とありますので、しるしを重視するユダヤ人にとって、十字架の付けられた主イエスは神に呪われた者と考えますので、救い主として受け入れることが出来ません。彼らは自分たちの考え方が絶対的に正しいと思っていました。
ギリシャ人は肉体の復活を信じませんので、ギリシャ人を中心とした異邦人には、十字架に付けられた死刑囚が復活した話は愚かなものと思いました。結局、人間は自分の知恵によって神を認めるに至りませんでした。確かに神を信じていない知恵ある人が、色々調べてやはり神は存在するという様な話は聞きません。
しかしそれは神の知恵にかなっていることで、神がこの世の知恵を愚かにされました。19節の「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」はイザヤ29:14の引用です。十字架の言は、滅び行く者には愚かなものです。十字架の言とは十字架の意味ということです。
2、神の知恵、神の力
しかし神はこの世の知者を滅ぼすってちょっと酷くないと思われるでしょうか。ではどうしたらわたしたちは滅びないのでしょうか。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされました。要するに滅びないためにすることは信じるだけです。
確かに宣教である十字架の言は、普通の異邦人、私たち日本人にも愚かに聞こえます。私たちの罪の身代わりになって死んだ人がいて、その人は死から甦られて、その人を信じれば救われますと言われて、直ぐに信じられる人がどの位いるものでしょうか。
日本でも「信じる者は救われる」とは言われますが、これは聖書からの言葉です。
しかしそんな可笑しな、虫の良い話等あるものかというのが普通の反応ではないでしょうか。この世の賢い知恵は神が存在すること自体にも至ることが出来ません。
ましてや神を信じることによって救われるなど思いも寄らぬことです。しかしそれこそが神の力、神の知恵です。箴言1:7に「主を恐れることは知識のはじめである」とある通りです。最初の問いの滅びか、救いにあずかるかは何で決まるのかと言えば、それはキリストの十字架の言を信じるかどうかです。信じない者には愚かなものですが、信じる者には救いにあずかる神の力です。さてここまでは一般的な神学の話です。
3、召された時のこと
パウロは前半の話が具体的に良く分かる様に、コリント教会に当てはめて説明します。前回と同じ様にまず「兄弟たちよ」とあなた方は兄弟姉妹であると呼び掛けます。そして「あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい」とは、自分が救われた時のことを思い出しなさいということです。
3つの特徴が挙げられますが、まず一つ目の人間的には、知恵のある者が多くはないとは、つまりこの世の知恵の多さと救いは関係がないということです。知恵や知識が多ければ救われるという訳ではありません。これは現代でも同じです。多くはないというのは、全くいないという意味でもありません。
同じ様に、二つ目の権力のある者も多くはなく、三つ目の身分の高い者も多くはいません。日本のバブル期の3高は、高学歴、高収入、高身長でしたが、コリント教会の人たちは、知恵、権力、身分で3低でした。3低という表現もどうかと思いますが、分かり易いので、使わせて頂きます。しかし知恵も権力も身分も救いには関係ありません。その目的はどういうことでしょうか。
3つの特徴にはそれぞれに目的があってその後に書かれています。一つ目の知恵のある者が多くないのは、知者をはずかしめるためで、そのためにこの世の愚かな者を選びました。愚かな者と言われると確かにそうなんですが、はっきりと言われるとちょっと微妙な感じもしますが。
そして二番目の権力のある者も多くはないのは、強い者をはずかしめるためで、この世の弱い者を選びました。
三番目の身分の高い者も多くはいないのは、有力な者を無力にするためで、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれました。コリント教会で召された人たちは、愚かで、弱く、無きに等しい、正に3低の者たちが選ばれました。
確かにコリント地域の3高の人達がコリント教会の3低の人達が救われているのを見たらはずかしめられるでしょう。何で3低のあいつらが救われて、3高の自分たちが救われないのだろうかと。しかしそれは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためです。
もし救いにあずかる者が、3高のこの世の知恵、権力、身分のある者であったなら、自分が救われたのは、自分の知恵によって、自分の権力によって、また身分が高いのだから、自分は救われて当然だと思うでしょう。しかしコリント教会を含めて3低の人を多く救われたのは、どんな人間でも、神のみまえで誇ることがないためです。
しかしコリント教会の実態はどうだったのでしょうか。3低だからと言って、決して自らを低くして謙遜だという訳ではありません。教会の中で争いがあるということは神のみまえで自らを誇っていたということです。
これは現代でもそうでうすが、自分を他の人と比べて劣等感を持つ人は、例え3低の中でも、自分はあの人よりはまだましだと、何とかどこかで優越感に浸ろうとして誇ろうとするものです。しかしそもそも同じ一つの身体である足や手や耳や目が争って競うことは愚かなことであると12章に書かれています。
4、誇る者は主を誇れ
コリント教会にとって、そして私たち茂原教会にとっても覚えるべきことは、クリスチャンはキリスト・イエスにある存在であることです。つまり9節の、真実な神によって召されて、主イエス・キリストの交わりにいることです。
それは一方的な神による恵みであって、3低である私たちの努力や行いによるのではありません。そしてそのキリスト・イエスにある、というのはどういうことでしょうか。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となりました。24節にもキリストは神の知恵であるとあります。
ここで知恵とは何でしょうか。それは救いをもたらすものと言えます。この世の知恵はいくら賢く聞こえても決して本当の救いをもたらすことはありません。しかし神の知恵は一見、愚かに聞こえても救いをもたらす唯一のものです。
キリストは神に立てられて、わたしたちの救いとなりました。また救いである知恵を、義と聖とあがないとも言います。
義は神の目に正しいことですが、キリストの十字架によってわたしたちは義とされます。また聖は義とされた者の性質と言えます。わたしたちはキリストの十字架によって聖とされて聖徒と呼ばれます。あがないは代価を払って買い取ることですが、わたしたちはキリストの十字架によってあがなわれます。
キリストを自分の知恵とする、つまり義と聖とあがないとにすることは、キリストが二千年前に十字架で既に成し遂げられておられます。それを自分のものとするには、そのことをただ信じるだけです。その様なことを信じるのはとても愚かな事ですが、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる者には神の力です。
クリスチャンの中には自分がクリスチャンであることを誇る人もいます。自分は神を信じて永遠の命を得た者であると。それはそれで確かに素晴らしいことです。しかし神を信じたのは自分の力で信じたのではなくて神によって召されて信じる者とされました。なぜ召されたのでしょうか。3低だからです。
それは29節にある様に、神のみまえに誇ることがないためです。神のみまえに誇ることがあると、そこには必ず争いが起こります。パウロは誇ってはいけないと言っているのではありません。ただ誇る者は自分を誇るのではなくて、3低の自分を召してくださった主、イエス・キリストを誇れと言います。
「誇る者は主を誇れ」はエレミヤ9:23、24の引用です。皆が自分を誇るのではなくて、主を誇るなら争いは無くなります。それは皆、同じ一つの主を誇ることによって一致するからです。主イエスは、わたしの罪のために十字架に付き、またわたしと気のあわない他の人のためにも十字架に付きました。
十字架の言を信じて一つの身体とされた聖徒が争うのは相応しい行いではありません。聖霊の導きに従って、十字架の言を信じる聖徒に相応しい生き方をさせて頂きましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、あなたは恵みの十字架の言によって、取るに足らないわたしを救ってくださいますから有難うございます。わたしたちはともすると、あなたを信じる自分を誇ってしまう様な愚かなものです。しかしわたしが救われるのはただただあなたの恵みによります。
わたしたちが自分を誇るような愚かな思いに捕らわれることなく、ただわたしたちを救って下さる主イエス・キリストを誇り、あなたの栄光を現す者とさせてください。今、教会で皆で顔を合わせてお会いすることが出来ませんが、そのことをも通してなお教会を大切にする思いをお与えください。
どうぞ教会に連なるお一人お一人をお守りください。
主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。