すべては、あなたがたのもの
2020年5月31日
コリント人への第一の手紙3章18~23節
主の御名を賛美します。一昔前に共産主義思想が流行りました。共産主義は財産の一部または全部を共同で所有することで平等な社会を目指した理想はとても高いものです。多くのこの世の知恵のある人たちが共産主義思想に引かれました。私自身も興味を持ちました。
しかし共産主義を目指した国は結果として社会に腐敗が蔓延して、その不平等さは資本主義国家以上のものとなってしまって、結果としてソ連を初めとした共産主義を目指した国々はその方向性を止めました。なぜその様になってしまったのでしょうか。共産主義思想が間違っていたのでしょうか。
私はそうではないと思います。使徒行伝4:32には、「だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた」とありますので、初代教会は共産主義でした。なぜ初代教会の共産主義は上手く機能したのでしょうか。
それは土台がイエス・キリストであって、皆が一致して、神の力が働いていたからです。それに対して共産主義を目指した国が失敗したのは、そこには制度を働かせる力が何もなく、皆が自分勝手に行動したからです。
1、知者
パウロは「だれも自分を欺いてはならない」と言います。果たして自分を欺く人がいるのでしょうか。その意味を説明するために別の言い方をして「もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら」、それは大きな勘違いであって、それが自分を欺くことであると言います。
パウロはこのコリント人への手紙の後のガラテヤ人への手紙の6:3でも、「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者でもあるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである」と書いています。
つまり自分を知者とか偉い者と思うことは、多くの教会で起こり易い間違いで、それは現代の教会でも起こることです。コリント教会は1:26で、人間的には知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない、どちらかというと知恵、権力、身分の3つの低い、言わば3低です。
しかし心理学の古典と言われるアブラハム・マズローの五段階欲求説でも、自分を他の人から認められたいと思う承認欲求は誰にでもあるものだと言います。承認欲求は生理的欲求、安全欲求、社会的欲求に続いて4番目に来ます。
人間は誰でも多かれ少なかれ、自分が知者であると他の人から思われたいものであって、また自分でも自分のことを知者だと思いたいものではないでしょうか。
2、愚かになれ
パウロは自分が知者だと思うこと自体を否定はしません。そして本当に知者になるための方法を教えます。それは、愚かになることです。なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。なぜそうなのでしょうか。
それは1:21にあったように、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった」からです。この世の知恵は、いくら学んで積み重ねて行っても、決して神の存在を知る、本当の神の知恵に至ることはありません。この世の知恵は、自分が中心です。
それは1:26にある様に、自分が知恵、権力、身分が高くなることを求めるものです。
しかし神の知恵は神が中心です。知恵という字が恵みを知ると書く様に、神の恵みを知ることから始まります。
ですから神の知恵を得るためには、先週の箇所では、土台にこの世の知恵ではなくて、イエス・キリストをすえる必要がありました。この世の知識、知恵が無駄で必要がないのではありません。問題は土台に何をすえるのかです。土台にイエス・キリストをすえることによって、まず救いが確実になります。
さらにその上に、土台に忠実にこの世の知識や知恵を身に付けて行くなら、金、銀、宝石によって建物を建てることになります。周りのことを考えて、環境等も守って、本当に人の役に立つものとなります。ですから、この世の知識も身に付ける必要があります。
しかし土台に自己中心をすえて、その上にこの世の知識を身に付けると、周りの事を考えずに自分勝手やことをしたり、公害や環境破壊等を引き起こしたり、犯罪行為を引き起こしたりしてしまいます。そしてその人は滅ぼされます。
3、旧約聖書に書いてある
19節の「神は、(この世の)知者たちをその悪知恵によって捕らえる」はヨブ5:13の言葉です。また20節の「主は、(この世の)知者たちの論議のむなしいことをご存知である」は詩篇94:11からです。パウロは旧約聖書から2か所引用して、「と書いてある」と言います。
ヨブ記と詩篇94篇が書かれた年代は正確には良く分かっていませんが、パウロがこの手紙を書いた数百年前から二千年前の間位と考えられています。つまり、この世の知者がその悪知恵によって捕えられて、その論議がむなしいのは、昔からのことで、それは現代でも変わりません。
ここの「悪知恵」の原語の言葉は新約聖書で5回だけ使われていますが、その具体的な例は二つで、一つ目はⅡコリント11:3で、創世記でヘビがエバを誘惑したことですが、ヘビはエバを誘惑することには成功しますが、結局は神にのろわれて、腹で這い歩き、一生ちりを食べて、かしらを砕かれることとなりました。二つ目は、ルカ20:23で、主イエスを騙そうとした者が、カイザルに貢を納めてもよいかと質問したことです。しかし、主イエスに逆に、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と言われて返り討ちに遭って黙ってしまいました。結局、この世の知者は、自己中心的な悪知恵によって、自分自身が捕らえられてしまう、むなしいものです。現代の社会にもその様な例はあるでしょうか。初めにお話しした共産主義思想等がそうかも知れません。制度自体は間違っていなかったのかも知れませんが、そこには実行する力がありませんでした。
パウロが十字架につけられたイエス・キリストイエス以外のことは何も知るまいと決心したのは、2:5で、信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためでした。神の力はどうしたら得られるのでしょうか。使徒行伝1:9に、「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受ける」とあります。
神の力は聖霊によって与えられます。聖霊無くして私たちは何も神の働きをすることが出来ません。車がガソリン無くして走ることが出来ない様に、私たちは聖霊無くして神の働きをすることが出来ません。今日はペンテコステですが、ペンテコステはイエス・キリストが天に帰られてから50日目に聖霊がくだられた日です。
土台にイエス・キリストをすえて、聖霊の導きに従う時に、その制度が持っている良い機能が働く様になります。逆に言えば、土台にイエス・キリスト以外のものをすえてしまったら、どんなに良い制度を持って来ても機能しません。教会でも、より良い方法と思って色々な制度等を作ったりします。
スモールグループ、家庭集会、また各種のイベントや今のYoutubeによる礼拝等もあります。しかし本当の課題はどの様に行うかといった方法ではありません。
土台が本当にイエス・キリストになっているか、そして聖霊の導きに忠実に従っているかということです。そのことなしには、何を行ってもむなしいだけです。
4、すべては、あなたがたのもの
「だから、だれも人間を誇ってはいけない」といいますが、人間を誇るとはどういうことでしょうか。二つありまして、一つは、自分をこの世の知者と思うことです。
しかしその様な者は悪知恵によって捕えられて、論議のむなしいものです。
そしてもう一つは、1:12の「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」、「わたしはケパに」と言って争うことです。神ではなくて、人間を誇ることになると、私は何々先生から受洗した等といった自慢話が出てきたりします。しかし誇る者は人間ではなくて、1:31に「誇る者は主を誇れ」とあった通りです。
この後の「すべては、あなたがたのものなのである」は、原語では「なぜなら」という言葉が入っていて、「人間を誇ってはいけない」理由になっています。人間を誇る者は、この世の知恵や権力、身分等を誇ったりします。しかしクリスチャンはその様な小さなものではなくて、9節の「神の畑、神の建物」であって、16節の「神の宮であって、神の御霊が自分のうちにやどっている」ものです。ローマ8:17では、「キリストと共同の相続人」と書かれています。今年度の御言である「神のかたち」に造られた人間は「すべての生き物を治める」(創世記1:28)存在です。ですから、すべては、あなたがたのものである、ということです。
5、ことごとく、あなたがたのもの
22、23節は、最後から考えた方が分かり易いかも知れません。キリストは神から遣わされた御子ですから神のものです。そしてクリスチャンはキリストに贖って頂いて、キリストを救い主、主と呼ぶ者ですからキリストのものです。
そして22節にあるものは、すべてキリストの御手の中にあるものですので、まずキリストのものと言えます。パウロ、アポロ、ケパはキリストを土台とする教会に仕える者ですのでキリストのものです。教会の外の世界もキリストの支配にあるものです。
生も死もすべて支配されるキリストのものです。それはローマ14:8に、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」とある通りです。また現在のものも、将来のものも、ことごとく支配されるのはキリストです。
そしてキリストは教会のかしらであり、わたしたちはその身体ですからキリストのものはわたしたちのものです。また先程もお話ししましたがキリストのものということは、キリストと共同の相続人であるわたしたちのものです。
「すべては、あなたがたのものなのである」と「ことごとく、あなたがたのものである」は同じことです。すべてが、あなたがたのものであるのに関わらず、いや自分はパウロにつくとか、アポロにと言って誰か人間一人につくのは愚かなことということです。なぜならすべての伝道者はあなたがたのものだからです。
すべては神のものであり、神の御手の中ですべてがわたしたちに委ねられているという広い視点で見る必要があります。わたしたちは神からすべてのものを与えられているのですから、自分を知者だなどと思う必要は全くありません。
恵みによって神のものとされて、すべてを委ねられていることを感謝しましょう。そして神のものとされたものに相応しく歩むために、ペンテコステに降られた聖霊に従って歩ませて頂きましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。わたしたちは自分の周りだけを見て、他の人と比べて自分が他の人より上に立ちたいと思ってしまったり、人を比べてわたしは誰につくといった様な争いを起こし易いものです。
しかしあなたは、すべてはあなたの御手の中にあり、すべては神の子とされるわたしたちのものであると宣言してくださいますから有難うございます。あなたが今日のペンテコステの日に、この世に遣わされた聖霊がわたしたちを力強く導いてくださり、わたしたちがその導きに素直に従うことが出来ますようにお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。