知識と弱い良心

2020年9月6日
コリント人への第一の手紙8章7~13節

主の御名を賛美します。今日の聖書個所は先週と同じ所で何かの間違いと思われた方もおられるかも知れません。いつも説教が終わった後に思う事は、これで良かったという事は少なくて、色々な思いが残りますが、祈祷会がある時には、説教の後に感じた事等を話させて頂いていました。今日は先週と同じ聖書個所から少し発展した内容をお話させて頂きます。

1、この知識

先週と言うより、この8章全体の内容は、4節の「偶像への供え物を食べることについて」です。そしてその結論に至る理由は、「わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている」事によります。

その知識によると、結論は書かれていませんが、偶像への供え物の肉を食べても問題はないという事になります。しかし、7節で、「しかし、この知識をすべての人が持っているのでは」ありません。良心が弱いと言われる、はっきりとした知識や意見をまだ持てていない人は、偶像への供え物を偶像の霊が宿る物として食べて良心が汚されてしまいます。

そこで、その様な良心の弱い人達をつまずかせない様にしなさいという内容でした。さてこの知識を持つコリント教会員が現代の日本に遊びに来たとしたら、どんな事をするでしょうか。

日本を訪問する多くの外国人に京都の神社仏閣は人気があります。コリント教会員に京都の神社仏閣を観光する事はどう思うかと聞いたら何と答えるでしょうか。

恐らく、偶像は存在しないし、唯一の神のほかには神がないので何も問題はありません、行きましょうと答えるでしょう。しかし良心が弱いと言われる人は、偶像の霊の影響を受けるのが怖いので行きたくないと言うでしょう。そしてそういう人への配慮はしないさいとこの聖書個所は教えています。

この聖書個所は、知識は人を誇らせるものであり、どういう考えが正しい、正しくないを議論する場面ではありません。しかし聖書の知識によれば、偶像は恐れるに足りないものですが、良心の弱い人は偶像に良心を汚されてしまいます。

2、日本のキリスト教の考え方

日本のキリスト教会の考え方はどの様なものなのでしょうか。少し前のキリスト教の考え方は異教と言われる、キリスト教と違う宗教等に対する拒否反応はとても強いものがありました。特に日本の伝統的な宗教である神道や仏教に対して、それらが行う宗教行事である葬儀、またその中で行われる焼香等、また宗教グッズである神棚や仏壇、位牌、お墓等に対してです。

それらについてコリント教会員にどう思いますかと聞けば、偶像は存在しないし、唯一の神のほかには神がないので、それらのものは何も問題ないと答えるでしょう。ただ良心の弱い人は、汚されてしまうのでそういった異教との関りを避けたいと考えるでしょう。

この様に考えますと、少し前迄のキリスト教は良心の弱い考え方に支配されていたという事が分かります。聖書の教える知識に基づいたものではありませんでした。異教との関りを徹底的に拒否する態度が聖書のいう良心の弱い考え方であるという事に気付いていたのかどうかは分かりません。

ではなぜ日本のキリスト教が良心の弱い考え方になったのでしょうか。それには、それなりの経緯があります。前にも少しお話しましたが、日本のキリスト教はアメリカのリバイバル運動の影響を強く受けています。アメリカでは、19世紀に進化論や共産主義思想の影響等によって人間の理性が強調されて、キリスト教を含めた宗教等は存続の危機に陥りました。

そこでキリスト教の中に原理主義的な運動が起こって来ました。そしてキリスト教を守るために自分達の考え方と違う進化論や共産主義、他の宗教も徹底的に否定して行きました。日本はその影響を強く受けています。

他の宗教の事を良く知らないにも関わらず兎に角、自分達だけが正しくて他の宗教等は全部間違っていると言って否定します。そうしないと自分達の信じるキリスト教を守れないと思ったのも仕方がなかったのかも知れません。

今はネット社会ですので、色々なものを自由に見る事が出来ます。しかし真面目な内容の物は余り取り上げられないで、一応牧師と言われている様な人が他の宗教を知ったかぶりで批判する様な物がキリスト教の代表的な考え方の様に取り上げられているのはとても残念です。

百害あって一利無しで、キリスト教の評価を下げるだけになってしまいます。その様な事があるので、キリスト教は他の宗教を否定する独善な宗教だと言われてしまいます。ただ特殊な時代背景があったことや、まだ神学教育が十分でなかった時代に神学校を過ごして、聖書の正しい知識や他の宗教の知識をきちんと身に付けられなかったために、その様になってしまったのは残念としか言いようがありません。

今は大抵どこの神学校の教育もしっかりとして来ていますので、聖書の正しい知識に基づいて他の宗教の知識を身に付ける様になっていますので、他の宗教をただ批判だけをする様な、良心の弱い人は少なくなっていると思います。

3、弱い良心

この聖書個所では、9節で、あなたがたのこの自由、偶像の影響を受けないクリスチャンの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさいとあります。確かに良心の弱い人をつまずかせる事はしてはならないことで配慮が必要です。

しかし弱い良心の考え方がキリスト教の中心となってしまうのも、これもまた大きな問題です。弱い良心は、他の宗教の霊的な影響を恐れて、徹底的に排除しようと考えます。それは日本の伝統的な文化や習慣を全て否定する事になります。

それは普通の日本人の目には、とても異常に見える事で、健全な考え方ではありません。

自分達だけが正しくて他は皆間違っているというのは、非常に独善的な考え方です。各宗教がお互いにその様な事を言い合っていれば、宗教はどれも同じ様なものだと一般の人からは見られます。

良心が弱いというのは、信仰の確信がまだない事であるとも言えます。唯一の神のほかには神がない、という確信があるのであれば、敢えて他の宗教を否定したりする必要はありません。使徒行伝5:38で、パウロの師である律法学者のガマリエルが、「その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだろう」と言った様に、本物でない物は放っておけば滅びます。信仰者は他の宗教であっても同じ宗教人としてその信仰心を尊重して敬意を払うべきだと思います。

4、弱い良心に訴える伝道

伝道には、聖書の知識に基づく正しい伝道と、弱い良心に訴える伝道方法があります。聖書の知識の基づく伝道は、唯一の神を信じる信仰で、主イエスの十字架による贖いを信じる信仰です。そして弱い良心に訴える伝道は、信じないと滅びるよという、人間の恐怖心に訴える強迫的な伝道です。

弱い良心に訴える伝道は、他の宗教でもあります。決まり文句として、あなたに問題があるのはきちんと先祖の供養をしていないから等というのがあります。しかし冷静に考えてみれば、供養をしていないからと言って、自分の可愛い子孫に祟る様な人が存在するとは思えません。しかし人間の良心は弱いものです。

弱い良心に訴える伝道は、例え間違った内容ではないとしても、そこには平安や喜びのある健全さが伴いません。そして健全でないものは、やはり誰でも違和感を覚えるものです。それぞれの時代の影響を受けて宗教の在り方も変わって行きますが、キリスト教もそのあり方が問われているのかも知れません。キリスト教が日本では余り広まらない理由の一つは、これまで聖書の健全な教えとは違った、弱い良心に訴える様な方向にあった事かも知れません。

5、イエスを仰ぎ見つつ

「唯一の神のほかには神がない」の御言を別の表現をすると、へブル12:2(p356)の「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と言えます。これは私たちが仰ぎ見つつ、目に止めるのは、信仰の導き手であり、またその完成者である主イエスだけということです。

例えそこに偶像があったとしても全く関係はありません。その様な物があったとしても仰ぎ見ませんし、気にする必要もありません。私たちは何を仰ぎ見るかで、その仰ぎ見るものの影響を受けて生き方は変わって行きます。クリスチャンは主イエスを仰ぎ見る者です。しかし最近のキリスト教と言われるものの中にも、主イエスよりも他のものを仰ぎ見ている様に思えるものもあります。悪霊の働きを強調する人たちです。

何か自分達にとって都合の悪い事があると、全てを悪霊の働きのせいにして、悪霊を縛る祈り等をしたりします。主イエスよりも悪霊ばかりに目を止めているようです。主イエスを仰ぎ見つつ走るのがクリスチャンであれば、悪霊ばかりを見ている人たちは何と言えば良いのかと考えてしまいます。ただこの悪霊に目を止める人たちも、言わば、弱い良心のひとたちです。

悪霊の働きが気になって仕方がないのかも知れません。そしてこの弱い良心に訴える伝道方法は、一昔前の日本である程度の成果を収めた様に、ある程度の効果はあります。また特に現代では、良識のある人はこの様な弱い良心に訴える様な伝道はしませんので、過去のキリスト教を知らない若い人たちには効果はある様です。

しかしやはりその様な伝道方法では健全な信仰は育ちません。私たちは伝道の成果も求めますが、やはり長い目で見て、健全な信仰を伝えて行く必要があります。福音は「良い知らせ」という意味で、救われて、平安や喜びに溢れる良い知らせです。

信じないと滅びるとか、悪霊に支配されるといった、怖れに支配されて信じるのは余り良い知らせではありません。救われて平安や喜びがなければ本物ではありません。

私たちは弱い良心の人たちを受け入れて配慮をしつつも、弱い良心のままで満足するのでなく、聖書の教える正しい知識に基づいた健全な信仰へと成長して行くことが求められています。そうでないと自分自身にも、平安や喜びが得られませんし、他の人にも喜びを持って伝える事が出来ません。

私たちが正しい知識に基づいた健全な信仰へと進んで行く導きは、聖霊が与えてくださいます。私たちは自分達が過去この様に歩んで来たので、盲目的に全てそれで良いとするのではなくて、聖霊の導きの中で、これは本当に聖書の知識に基づくことであるのか、それとも弱い良心に基づくことであるのか、一つ一つきちんと吟味をして行く必要があります。

そして弱い良心に基づく考えから、聖書の知識に基づく考えへと進んで行く中で、私たちの心は平和と喜びに満たされ、信仰も成長して行くものです。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。福音がこの日本にも伝えられていますが、様々な歴史的な経緯を通って現代に至っています。その中には私たちがキリスト教にあって当たり前と思っている様な事が、実は聖書の教えとは異なっていて弱い良心に基づく事もあるのかも知れません。

私たちは健全な信仰を持って、本当の平安と喜びに満ちた歩みをしたいと願っています。どうぞあなたの御心を私たちに教えてください。そして私たちが過去の考え方に捕らわれるのではなくて、あなたの御心に従って歩む者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。