「主に推薦される適格者」 

2021年10月24日説教 
コリントの信徒への手紙二 10章12~18節

    

主の御名を賛美します。先々週は夏に取れなかった休みを取らせていただきました。子ども達は学校がありますので、妻は牧師館で休み、私は主に実家の片付けのために横須賀に行きました。

横須賀の地域のことを改めて考えている中で、横須賀は日本海軍の基地として発展して行き、戦後は米軍基地も出来て異文化の影響も受けつつ歓楽街も発展して行き、ある意で味コリントの地域と似た様なところもあるように感じました。その様に思うとコリントの信徒への手紙がとても身近に感じる様になりました。御言葉を聴かせていただきましょう。

1、自己推薦

2週間前からこの10章に入りましたが、10章から最後の13章迄はパウロが使徒であることを否定する人たち、11:13の偽使徒やそれに同調する人たちに対する内容です。彼らは自分で自分を推薦するいわゆる自己推薦する者たちです。ただ自己推薦したくなる気持ちというのは多かれ少なかれ誰にでもあるものです。

自己推薦する欲求を心理学では承認欲求と呼びます。自分が他の人から認められることを他者承認、自分で自分を認めることを自己承認と言いますが、どちらの承認に対しても欲求があるものです。彼らはその承認をどのようにして得ようとするのでしょうか。

彼らはまず仲間うちで評価し合います。これは自分で自分を仲間うちで評価することで、自己承認です。例えば私はこの仲間うちでは、信仰歴は長いし、礼拝出席率も高いし、奉仕や献金も沢山しているし、賜物もあるので、優秀なクリスチャンであると自分で自分を評価することです。

もう一つは仲間うちで比較し合います。これは他者が評価することで他者承認です。この人とあの人を比較するとこの人の方が信仰深そうだとか、あの人の賜物がありそう等と他者を比較することです。このようなことは分別のないことで、新改訳は「愚かなことです」と訳します。

それはそうです。自分のことを含めて人を正しく評価されるのは全知全能の神だけであるからです。人が人を評価することは正統なキリスト教会では行わないことです。今日の午後に連合壮年会の秋の大会が行われ、異端・カルトについてがテーマですが、異端やカルトでは人が人を評価します。

ある異端では天国の定員は14万4千人と決まっていて、既に定員オーバーになっていると教えます。そこで、天国に入るためには、今のところ天国に入る予定になっている14万4千人の功績を上回る功績を残す必要があると教えて、必死に家庭訪問等をして伝道している団体があります。

しかし天国というのは他の人を押しのけて自分が入る椅子取りゲームではありません。それでは福音、良い知らせではありません。またある団体では、あの人は大きな教会を建て上げて、良く海外宣教をしているから使徒だと認定する団体もあります。しかし聖書で使徒というのは神が直接に召された人で、人があの人は使徒であると認定するものではありません。

3:1では、彼らはエルサレム教会からの推薦状を、「どうだ凄いだろう」と言わんばかりにコリント教会に見せてひけらかしていたようです。しかしパウロたちはそのような者たちと自分を同列に置いたり、比較しようなどとは思いません。それは分別のないことだからです。

2、自分の範囲

パウロたちは自分の範囲を超えたところで誇ることはしません。自分の範囲とはどういうことを意味しているのでしょうか。コリント教会のところまで行くという、神が割り当ててくださった尺度の範囲内で誇ります。範囲は宣教のエリア、地域を指しているようです。

パウロたちはコリント教会のところに行ってもいないのに、背伸びして、自分たちがコリント教会を開拓して立ち上げたと誇っている訳ではありません。実際、パウロたちはキリストの福音を携えて、第二次宣教旅行の時に、コリントまで行きました。

パウロたちは、自分の領分を超えて、他人の労苦したところで誇るようなことはしません。パウロがこのようなことを言うことは、どういうことを意味しているのでしょうか。

それは想像するに、偽使徒は自分が労苦したのではない、パウロが開拓したコリント教会に、事実ではないパウロの悪口を言い触らして、コリント教会員を盗んで、コリント教会を丸で自分の手柄の様にして誇っていたようです。

この様なことは、現代でも異端やカルトが行う手口です。異端やカルトは既存の教会に入り込んで来て、自分たちの信仰の優位性を話したり、既存の教会の信仰を否定して、自分たちの教会に信徒を引き抜こうとしたり、その教会をそのまま乗っ取ったりしようとします。

正統なキリスト教会であれば、他の教会員を引き抜こう等とはしません。私も他の教会員と接する時はとても気を使います。基本的には、「去る者は追わず来る者は拒まず」の姿勢でいますが、他の教会から移って来る方にはどうしても慎重になります。

茂原教会に好意を持って頂けることは有難いのですが、結果として他の教会から引き抜くようなことにはならないように気を使います。時には気を使い過ぎて冷た過ぎる態度を取って失敗したと思うこともあります。

3、宣教領域の拡大

ただ、パウロたちは、コリント教会の間で信仰が成長してくれれば、パウロたちの領域で宣教をもっと広げて行きたいと思っています。この文章は色々な意味を含んだものであると思います。第一にはコリント教会の信仰はまだ成長していないということです。

これはある意味で仕方のない部分もあります。どんなことでも成長には時間が掛かるものです。「桃栗三年柿八年、枇杷は九年でなり兼ねる、梅は酸い酸い十三年」と言います。植物でも種類によって成長に必要な年数に違いがあります。人間も成人するまでに二〇年掛かります。それまでに十分に愛情を注いで成長を見守る必要があります。

しかしここは宣教者に取っては悩ましい部分でもあります。宣教者としては早く宣教の領域を広げて多くの人を救いたいと思っています。しかし問題の多い教会ですと、教会の中の問題を解決することに時間と労力を取られて、外に向かって宣教することが十分に出来なくなってしまいます。

これは教会に限ったことではなくて、会社や色々な組織等でも同じですが、新しい組織は内側の成長と組織固めのために時間を必要とします。そして成長してくると外に向かって働き掛けが出来るようになって行きます。しかしまた組織は年数が経って古くなって来ると、内側だけを見るようになって内輪揉めをするようになって、外に向かっての働き掛けがなくなって来ますので、要注意です。

コリント教会の信仰が成長すれば、パウロたちはコリント以外の他の地域で宣教を行うことが出来ますし、コリント教会もその宣教に協力してさらに宣教を拡大することが出来ます。それは、コリントを超えた地域にまで福音を告げ知らせることです。

それは具体的にはローマであり、またローマ15:24によるとイスパニア(スペイン)でした。パウロは具体的で明確な宣教のビジョンを持っていました。ただそれも自分の考えだけで決めることではなく、神の御心を求めることが大切です。

4、誇る者は主を誇れ

それも福音がまだ告げ知らされていない領域で行うことです。他の人々が福音を告げ知らせた領域で、すでになされた働きを、丸で自分の働きのように誇ることではありません。ただこのようなことは、この世の中では良くあることです。他の人の手柄を自分の手柄とすることです。

しかしクリスチャンは「人の褌で相撲を取る」ようなことはしません。本当に、神の御心を求めて御心に従うなら、他の人々のすでになされた領域に神が導かれるはずがありません。人の目は誤魔化すことは出来ても、全能の神の目を誤魔化すことは出来ません。

私たちが誇るべきは、この世の人の目に評価されることではありません。パウロはⅠコリント1:31に続いて再び、「誇る者は主を誇れ」と言います。これはエレミヤ9:23の引用で、エレミヤ9:23は、「誇る者はただこのことを誇れ。悟りを得て、私を知ることを」です。

私たちは、つい、人の目に評価されることを気にしたり、自分に対して自信を持ちたいと思ったりして、自分のことを誇ってしまいがちです。しかし自己推薦をした時点で主に推薦されることは無くなります。「急がば回れ」ではありませんが、主に推薦される人こそ、適格者です。

主に推薦されるには、自己推薦をするのではなく、主を誇ります。クリスチャンに何か誇ることがあるのなら、それは主イエスの十字架の死による贖いによって罪を赦されて救われたからです。そして聖霊に導かれて御心に適うことをするからです。

私たちは自分を他の人と比べる必要などは全くありません。神は私たち一人一人を、神の目に高価で尊い存在として造ってくださいました。そして一人一人に御心に適った働きを与えてくださいます。これ程に罪深い私たち人間を、主の御用のために用いてくださる主を誇らせていただきましょう。そして主に推薦される適格者として用いていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも自分を自分で認めて、また他の人からも認めて貰いたいという思いがあります。しかし人の評価は移ろい易いものです。クリスチャンは不動の岩である全知全能の神を知る者です。

そのことを唯一絶対の誇りとして、主に推薦される適格者として歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。