「真心に対する神への感謝」

2021年10月3日説教
コリントの信徒への手紙二 9章11~15節

        

主の御名を賛美します。私たち夫婦と、東京で一人暮らしをしている長男は暫く前にコロナウィルスのワクチン接種を2回終えました。そのことと、長男の大学が丁度、学期の間の休みであることもあって、先日、長男がどのように生活をしているのかを見に、車で会いに行って来ました。

部屋に行って見ると綺麗に掃除がされていて、話を聞いて見ると、食事も自分で作って食べていると聞いて驚きました。いつの間にか、独り立ちしてきちんと生活していることを喜ぶと共に、皆さんのお祈りに感謝し、また守り導いてくださった神に感謝しました。

1、真心に対する神への感謝

Ⅱコリントからの説教が3週間空きましたが、ここはパウロがコリント教会に対して、エルサレムの信徒のための献金について書いている最後のところです。コリント教会はエルサレムの信徒への献金を通してすべての点で豊かにされます。献金をする人が豊かにされるということは、まず献金をすること自体が祝福の業であるからです。

マタイによる福音書6:20で主イエスは、「宝は、天に積みなさい」と言われ、その前に宝を天に積む行いとして、施し(献金)、祈り、断食(悔い改め)の3つを挙げられました。施し、献金をするということは、聖霊に満たされ、聖霊によって豊かにされた証拠ですので、献金をすること自体が豊かになることです。

また献金をすることを6節では種を蒔くことと言いました。献金をすること自体が豊かになることですが、豊かに献金をする者は豊かに刈り取りますので、更に豊かになります。種を蒔けるか蒔けないかが大きな違いを生むことになります。このことを日本の諺でも、「まけるが勝ち」と言います。少し意味が違いますが。

献金のように、必要としている人に献げることは神の御心に適うことであり、その心を真心、真の心と言います。コリント教会はエルサレムの信徒に献げることにより真心溢れる者となります。そのコリント教会の真心が、パウロたちを通して神への感謝の念を抱かせることになるというのはどういうことでしょうか。

パウロに取ってコリント教会は自分で開拓した霊的な子どものような存在です。親に取っては、子どもが成長して、子どもがすべての点で豊かにされて真心溢れる者となることはこの上ない喜びです。親は喜ぶと共に神への感謝の念を抱くことになります。しかしそれだけではありません。

2、奉仕の業を通して知る

献金のことを今日の個所では奉仕の業と呼び、新改訳は奉仕の務めと訳します。奉仕の業であるエルサレムの信徒のための献金は、直接的には聖なる者たちの欠乏を補います。しかしそれだけではなくて、神への多くの感謝で満ち溢れるものになります。

まずコリント教会が真心溢れる者となったことで、パウロたちが神への感謝の念を抱きました。しかしコリント教会の奉仕の業を通して感謝したのはパウロたちだけではありません。奉仕の業を受けるエルサレムの信徒たちもです。

エルサレムの信徒たちはこの奉仕の業を通して2つのことを確かに知ります。一つ目はコリント教会がキリストの福音を従順に告白していることです。しかし2千年前の通信網も発展していないこの時代に、エルサレムの信徒が遠く離れたコリントの地でコリント教会がキリストの福音を従順に告白していることをどのようにして知ることが出来たのでしょうか。

それはこの奉仕の業を通してです。キリストの福音は一方的な恵みによって、キリストを救い主と信じるだけで救いが与えられるものです。コリント教会はそのキリストの福音を従順に受け入れて告白しています。なぜそのようなことを言うことが出来るのでしょうか。

奉仕の業である献金は、自分を神に献げる献身を見えるかたちで現わしたものです。献身の見えるかたちである献金は、キリストの福音を従順に告白することなしには有り得ないことです。献金に先立って、まずキリストの福音の従順な告白があります。

そして福音の従順な告白に基づいて、自分たちが恵みによって与えられことを感謝して、自分たちも他の人たちに与えます。

奉仕の業を通してエルサレムの信徒たちが知る二つ目のことは、コリント教会が自分たちや他のすべての人々と真心から交わっていることです。ここで交わるというのは、コイノニアという言葉です。コイノニアの交わりとは一緒に話をしたり食事をしたりするだけではありません。

真心からの交わり、コイノニアとは必要としている人に必要なものを与えることです。エルサレムの信徒は奉仕の業である献金を通してコリント教会が自分たちと真心から交わっていることを確かに知ります。しかしコリント教会が他のすべての人々と真心から交わっていることは、どのようにして確かに知ることが出来るのでしょうか。

それは人は一人の人にすることは大抵他の人にも同じ様にするからです。勿論、コリント教会がエルサレムの信徒のために献金したからといって、全世界のすべての人たちに献金を出来る訳ではありません。しかし困っている人を助ける人は、自分の身近で本当に困っている人がいれば助けるものです。

3、神を崇める

エルサレムの信徒はコリント教会の奉仕の業を通して、2つのことである、キリストの福音を従順に告白していること、すべての人々と真心から交わっていることを知って、神を崇めます。エルサレムの信徒が神を崇める理由は2つ考えられます。

エルサレムのユダヤ人の信徒に取っては、クリスチャンであると言いながらも、ユダヤ主義的な影響が残っていて、コリント教会等の異邦人のクリスチャンに対して、どことなく自分たちが神の民として選ばれた選民でありアブラハムの子孫、自分たちには律法が与えられ、自分たちは割礼を受けている者であり、神はユダヤ人の神である、という上から目線的な意識が多かれ少なかれありました。

現代の教会でも無意識的にも、都会の大きな教会と地方の小さな教会の間に漂っていたりするものです。それが当時のユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間にある溝の原因の一つでした。パウロは同じ一つのキリストの身体として、そのような溝を埋める目的のためにもこの奉仕の業を勧めていました。

エルサレムの信徒としては、異邦人の教会が逆に自分たちに、奉仕の業を通して、キリストの福音を従順に告白していること、すべての人々と真心から交わっていることを知って、素晴らしい神を崇めることでしょう。マタイ6章の天に宝を積む行いで言うと、一つ目の施しが三つ目の自分たちの考えの悔い改め(断食)へと導きます。

またコリント教会はただの異邦人の教会ではありません。手紙一にもありました様に、問題だらけのとんでもない教会です。この当時は、コリント化するという言葉は、不道徳を行うという意味で使われていた程です。その様なコリント教会を真心による奉仕の業へと導かれた神を崇めることでしょう。

4、慕い、祈る

コリント教会は8:16にある、神から与えられる聖霊による熱心によって奉仕の業を行い、また奉仕の業によって種を蒔き義の実を刈り取るという、極めて豊かな神の恵みを与えられています。エルサレムの信徒は自分たちに、奉仕の業をしてくれたコリント教会に神が与えられた恵みを見て、どのように思うでしょうか。

私たちも自分に対して、真心溢れる献げものをしてくださった方が、極めて豊かに神の恵みを与えられたら、ああ、あの人は神から祝福されていると知って、その人を慕い、その人のために祈るようになるのではないでしょうか。

同じ様にエルサレムの信徒は神の恵みを与えられたコリント教会を慕い、祈るようになります。マタイ6章の天に宝を積む行いで言うと、一つ目の施しが二つ目の祈りへと導きます。そしてパウロが願っていたユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの一致が生まれることになります。これはパウロが自分に授けられた、和解の務めを果たすことになります。

5、賜物ゆえの感謝

8章、9章と2章に渡って続いたエルサレムの信徒のための献金についての最後にパウロは、「言葉では言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝します」。しかし突然に、賜物のゆえに神に感謝と言われますと、その賜物とは一体何の賜物のことであろうかと考えてしまいます。

献金についての文章の最後ですので、直接的には献金の賜物と考えることが出来ます。Ⅰコリント12:28には、色々な賜物の人が挙げられていて、その中に援助する者もいますので、献金を行うのは献金の賜物によると考えるのは妥当だと思います。

しかしある日、突然に献金の賜物が与えられるのでしょうか。その様なこともあるかも知れません。しかし物事には順序があります。コリント教会はなぜこの奉仕の業である献金に携わることになったのでしょうか。また私たちはなぜ献金を行うのでしょうか。

それは神の恵みによって救われる、救いを賜るからです。どのようにして救いを賜るのでしょうか。それは神からお独り子であるキリストを賜ることによってです。私たちは神から、水、空気、太陽の光等、色々なものを恵みの賜物として賜っています。

その中でも神の真心溢れる最高、最大の賜物がキリストです。キリストを賜ったから私たちは救われ、キリストが天に帰られた後に助け手として、聖霊を賜ることによって聖霊の働きとして色々な賜物が与えられます。パウロは言葉では言い尽くせない賜物のゆえに感謝します。

私たちは人が聖霊に満たされて真心溢れる者となった時に、その人をそのように導いてくださった神に感謝の念を抱きます。しかし何よりも初めに、真心溢れる神が私たちに最高の賜物であるキリストを賜ったことに感謝しましょう。

そして感謝の応答として恵みの賜物として賜ったキリストを救い主として受け入れましょう。そして最高の賜物であるキリストを受け入れた者は、賜物である聖霊の働きによって真心溢れる者となって奉仕の業を担わせていただきましょう。この奉仕の業は神への多くの感謝で満ち溢れるものになります。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたの溢れる真心によって私たちはキリストを賜りましたことを感謝します。この言葉では言い尽くせない賜物をすべての人が受け入れられますようお導きください。そして受け入れた者が聖霊によって真心溢れる者となり、神への感謝の念を生み出す者としてお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。