私と共にある神の恵み
2021年2月14日
コリントの信徒への手紙一15章1~11節
主の御名を賛美します。良く日本にいるクリスチャンは1%弱だと言われます。しかし世界史の教科書等を見ますとイエス・キリストのことが書かれていますので、日本ではキリストが歴史上に実在した人物であるということは恐らく90%以上の人は認めていると思います。
世界的にはどうなのでしょうか。世界の人口の30%はクリスチャンと言われますので、クリスチャンはキリストの存在を勿論信じています。またイスラム教ではキリストを預言者の一人と考えていて、イスラム教徒は25%と言われますので、世界の55%、半数以上はキリストが実在の人物であることを信じています。
では残りの45%の人たちはどうでしょうか。ユダヤ教徒は世界的に見れば少数ですがキリストが歴史に実在したことは認めています。他の宗教の人でもキリストが存在したこと自体は認める人は多くいると思います。
私はクリスチャンですが、例えばイスラム教を始めたムハンマドや仏教を始めた釈迦は実在の人物ではあると思います。ただキリストは架空の伝説の人物だと考える人もいますし、社会主義国ではキリストをどの様に教えているのか分かりません。
その人たちを多めに見て、残り45%の半分強の25%とすると、世界の4人に1人はキリストの存在を信じていませんが、4人の内3人はキリストの存在自体は信じていると言えます。そのことを覚えつつ御言を聴かせて頂きましょう。
1、福音
パウロは11~14章で礼拝について話して来ました。15章はその礼拝で語られる福音、また福音の中心の復活についてです。復活についてはコリント教会からパウロに何かを質問して来たのではありません。パウロがコリント教会について伝え聞いたことから、伝える必要があると思ったようです。
パウロがどの様なことを伝え聞いたのかと言いますと12節で、「キリストが死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っている」ことです。ユダヤ教でもサドカイ派は復活を否定しますので、その様な影響もあったのかも知れません。
そこでパウロはもう一度、福音を正しく知らせる必要を感じて書きます。まず福音には6個の特徴があります。第1にパウロがコリント教会に告げ知らせました、第2はコリント教会は受け入れました、第3はよりどころとするものです。福音は良い知らせの意味で、告げ知らせられ、受け入れるなら、よりどころとなるものです。
第4は救われる福音で、福音は救いをもたらすものです。第5は福音は言葉で告げ知らされます。第6は福音の言葉はしっかりと覚えていないと無駄に信じることになってしまいます。しかし私たちは忘れ易いので、しっかりと覚えるためには、福音の言葉を日々、復唱する必要があります。福音の最も大切なこととしてパウロがコリント教会に伝えたのは、パウロも受けたものです。ですからこれはパウロが考え出した何か新しいことではありません。聖書に書かれている伝承です。
2、死と葬り
福音の最も大切なことの具体的な内容は4つで、キリストが、死んだこと、葬られたこと、復活したこと、現れたことです。この4つの内の前半の2つのキリストが死んだこと、葬られたこと、はキリストが実在の人物だと認める人は認めるはずです。
つまり世界の4人に1人のキリストの実在を信じない人は勿論死と葬りも信じませんが、4人の内3人はキリストの死と葬りは信じています。しかしこの3人は全員がクリスチャンではありません。それはそうです。この世に生きている人は特に救い主でなくても誰でも死んで葬られるからです。
ではキリストの死と葬りを信じていて、クリスチャンとクリスチャンでない人を分けるものは何でしょうか。3つのことを信じるかどうかです。第1は死んだキリストは正にキリスト、救い主であること、第2は聖書に書いてあるとおりであること、第3は私たちの罪のために死んだこと、を信じることです。
この3つの中では、真ん中の「聖書に書いてあるとおり」が中心になります。救い主でなくても死んで葬られます。しかしその死が聖書に書いてあるとおりであることによって、救い主であり、私たちの罪のためであったことになります。そうであればそれは私たちを救う神の計画です。
「聖書に書いてあるとおり」というのは、具体的には特にイザヤ53:4,5の苦難の僕や、過越しの小羊等が考えられますが、旧約聖書全体です。
福音の内容の第1の死んだことの次の第2の葬られたことは、死んだことの保証という程ではないかも知れませんが、複数の人たちが葬ることによってそれはキリストの死の確認になります。またキリストが葬られたことは私たちに慰めと希望を与えてくださいます。
私たちは愛する人が死んで、葬る時に耐え難い悲しみを経験します。しかしその時に、キリストが同じ様に死んで、葬られたことを思い起こすことによって、死と葬りが終点ではなくて、その先には希望があることを教えられます。
3、復活
希望は何に基づくかと言いますと、キリストが聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことです。前にお話ししたことがあると思いますが、私はクリスチャンになる前は、この復活や主イエスの処女降誕の話が苦手でした。私はクリスチャンになる前から聖書の教えは好きでした。
両親を敬いなさいや、敵を愛しなさいと、とても素晴らしい教えであると思っていました。しかしなぜ死人の復活とか処女降誕の様な非科学的、非常識な話があるのだろうと思っていました。そんな非常識な話が無ければ私はクリスチャンになれるのにと。
しかしキリスト教の教理が分かって来ると、復活が無ければキリスト教に意味がないことが分かります。復活が無ければ聖書の教えはただの倫理や哲学になります。倫理や哲学で人は救われるのでしょうか。確かに正しい倫理を自分の力で完全に実行出来るのであれば宗教は余り必要無いかも知れません。
しかし、そうするとこの世の人生が全てで、この世の終わりと共に全てが終わることになります。果たして、その様な中で、倫理的に正しく生きることが出来るのでしょうか。とても難しいことです。
復活があるからこそ、私たちは復活の力に与かって、新しく生まれ変わって、復活の力を与えられて正しく生きて行くことが出来ます。また復活があるからこそ、私たちの一度死んでしまったような人間関係や望み等も復活の力によって回復することが出来ます。
この復活も突然に起こったことではありません。今、朝ドラに芸人のひょっこりはんが出ていますが、キリストはひょっこりと復活されたのではありません。復活がひょっこりだったとしてもそれはそれで凄いことではあると思いますが、復活は2つのことによります。
第1は死んだことと同じで、「聖書に書いてあるとおり」で、第2は三日目にです。まず第1の聖書に書いてあるとおりであることによって、復活が父なる神の御心であり、ご計画であることが分かります。復活したは受身形で書かれていますので、正確に訳すと、「復活させられた」です。
どなたによって復活させられたのかと言えば、父なる神によってです。そしてそれは三日目にです。二日目でも四日目でもありません。三日目に復活されることによって、主イエスがマタイ12:39で預言された「ヨナのしるしが与えられる」と、聖書に書いてあるとおりの預言の成就になります。ヨナのしるしとは、旧約聖書のヨナ書にある預言者ヨナが巨大な魚の腹の中に三日いたことです。
いくら、死んだのはキリスト、救い主であり、聖書にかいてあるとおりで、私たちの罪のためであったと言っても、死は誰にでも訪れるものであり、本当にそうであると証明することは難しいものです。しかし聖書に書いてあるとおりに復活されることによって、死んだ3つのことも聖書に書いてあるとおりであったことを保証することになります。
これまでの、死んだこと、葬られたこと、復活したことは、キリスト教の信仰としてとても大切なことですから、無駄に信じるのではなくて、正しい言葉で覚える必要があります。そこで、使徒信条で「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と繰り返して告白します。
4、顕現
ただいくら復活されても誰も見ていないと本当のことであるかどうか疑わしくなってしまいます。聖書でも証人は二人か三人必要と言っています。そこでキリストはケファ、ペトロに現れました。しかし福音書によればキリストが初めに現れたのはマグダラヤのマリアで、聖書にはキリストがケファに現れたという直接の記事は書かれていなくて、間接的な報告だけです(ルカ24:34)。
パウロはなぜ最初にケファの名前を挙げたのでしょうか。コリント教会は、1:12で「私はパウロに付く、私はケファに」と言って分裂していました。ケファに反対する人たちは、ケファは3回もキリストを知らないと言った裏切り者、あんな奴はだめだという考えがあったことでしょう。
パウロはキリストが現れた初めにケファの名前を挙げることによって、ケファの名誉を回復してコリント教会の融和を図ろうとしたのだと思います。分断ではなくて融和です。パウロは本当に牧会者であると思わされます。それから次の12人は、12弟子のことで、しかしイスカリオテのユダはいないはずですが、12人は12弟子のグループの名前です。
その後、五百人以上のきょうだいたちに同時に現れたのは、いつのことか分かりませんが、大部分は生きていると言いますから多くの証人がいるということです。次いでキリストが現れたヤコブはキリストの実の弟です。
ヤコブはお兄さんのキリストが生きている間は信じませんでしたが、復活されたキリストに出会って信じました。そしてヤコブの手紙を書きました。復活の主に出会うことは、これ程に人の人生を大きく変えるものです。皆さんにも主との出会いがある様にお祈りしています。
さて、それからキリストはすべての使徒に現れて、最後にパウロに現れました。この表現からキリストがその姿をはっきりと現せる顕現は、パウロが最後であり、パウロが最後の使徒と考えられます。私たちは今でもキリストと出会いますが、それはここでいう現れる顕現ではありません。
パウロは自分のことを「月足らずで生まれたような私」と言います。これは原語通りの翻訳で正しいのですが、私は個人的にはこの表現が好きではなく、差別用語の様に感じるので止めて欲しいと思います。これはパウロに反対する人がパウロをけなすために使った言葉を、パウロは自己卑下するために使っているようです。
「月足らずで生まれた」という意味は「早産の子」という意味で、早産は誰も望んでいる訳ではありませんので、早産のために未熟児で生まれる人や家族に対して失礼な表現だと思います。これはパウロが早産で未熟児で生まれたという意味ではないと思います。
パウロが自分をその様に表現する理由は、神の教会、キリスト教会をパウロは異端の教えだと思って熱心に迫害したので未熟者という意味です。
だから自分は使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者だと言います。パウロという名前は「小さい者」という意味です。クリスチャンはパウロの様に自分が小さい者、値打ちのない者であると認める必要があります。
5、私と共にある神の恵み
クリスチャンになるとは、「神の恵みによって、今の私があるのです」と心から信じて告白することです。自分が小さい者、値打ちのない者であると認めない者は、「神の恵みではなくて、自分の力によって、今の私があるのです」となってしまいます。
パウロは神の恵みではなくて、自分の力で生きていた時に何をしたでしょうか。勘違いして良かれと思って、神の教会を迫害しました。私たちが自分の力で何かをしようとするとパウロと大差がありません。良いことをしていると思いつつ間違ったことをしてしまいます。
私たちが自分は小さい者、値打ちのない者と認めて謙る時に、自分に死に、私と共にある神の恵みが働かれて、復活の力が働きます。それは先週まで続いていた、解き明かす者がいない時に教会で異言を語ることとは正反対の姿です。
パウロはこのように宣べ伝えているのであり、コリント教会はこのように信じました。私たちも同じ様に信じています。福音の言葉に正しく従って、神の恵み、復活の力に生きる者とさせて頂きましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはキリストの復活と聞くと、つい何度も聞いた話であると感じてしまいがちです。しかし私たちのより頼む力の源はキリストの復活にあります。聖霊の満たしの中で、自分が小さい者、値打ちのない者であることを覚えさせてください。
そして私たち自身が自分に死に、神の恵みが働き、復活の力に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。