勝利を与えてくださる神

2021年3月21日
コリントの信徒への手紙一15章50~58節

主の御名を賛美します。今日は召天者記念礼拝ですが、今年度は3名の教会員の兄弟姉妹が天に召され、その他にも教会関係者の方が召されました。Youtubeですので召された方のお名前を挙げることはしませんが、ご遺族に主からの慰めがあることをお祈りします。

召されるということは時が来れば全ての人に起こることです。召される方、そして私たち全ての人に将来、どのようなことが起こるのかということを御言に聴かせて頂きましょう。

1、秘義

肉と血は神の国を受け継ぐことはできませんが、肉と血とはどういうことなのでしょうか。3:1に肉の人という表現がありましたが、肉は生まれながらの人である罪の性質を表します。しかし肉と血と言う時には、単純に肉と血を持つ私たち人間の肉体を表していて特に悪い意味ではありません。

ただ人間の肉と血である肉体は、土からできた人であるアダムのかたちを持っていて地に属します。ですので、天である神の国を継ぐことはできません。また土からできた人のかたちは朽ちるものですので、朽ちないものである神の国を受け継ぐこともありません。

クリスチャンは神の国を受け継ぐ者です。しかし現在は朽ちる体を持つクリスチャンは、どのようにして朽ちない神の国を受け継ぐのでしょうか。35節で二つの質問を想定していました。どのように復活するのかと、どのような体で来るのかです。

どのような体で来るのかは、先週の内容と合わせて朽ちない霊の体と言えますが、もう少し説明するためにパウロは秘義を告げます。秘義を新改訳では奥義と訳していますが、私は個人的には奥義の訳の方が好きです。秘義の一つは、私たち皆が眠りに就くわけではありません。

眠るというのは、この世の死の遠回しの言い方です。私たち皆がこの世の死に就くわけではないというのはどういうことでしょうか。パウロは36節で、死ななければ命を与えられることはないと言いました。そうするとこの世で死んだ人は復活することは分かります。

しかし主イエスが再びこの世に来られる時に、まだ死んでいない、生きている人はどうなるのかということが問題になります。しかし、私たちは皆、変えられます。ここでいう秘義は、皆が変えられるということです。死んだ者は朽ちないものに、生きている者はそのままの土からできた自然の体ではなくて、霊の体に変えられます。

パウロはここで「私たち皆が眠りに就くわけではありません。しかし、私たちは皆、変えられます」と「私たち」という言い方をしています。しかし、主イエスが再びこの世に来られるのがいつかは分からないと言っていますので、自分がその時に生きているつもりであるという意味ではありません。

ただこの手紙を読んだ人たちはパウロが生きている間に主が再び来られる再臨があると思ったようです。またコリント教会員はもう終末が来て、復活の体に与っていると思っていて、もうこれ以上の復活はないと考えていました。しかし、「私たちは皆、変えられます」と言うことによって、まだ復活の体には与っていないということと、これから変えられる必要のあることを教えています。

2、どのように復活、変えられる

そして、35節の二つの想定の質問の、どのように復活するのか、またどのように変えられるのかという内容になります。それは「終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。」ラッパは旧約聖書で、戦いの合図(民数記10:9)、自由と解放の合図(民数記10:10)、集合の合図(民数記10:3,4)等に使われました。

ラッパは26節の最後の敵である死が無力にされて、死から解放されて、皆が集められる合図です。そしてそれは一瞬のうちにです。時間を掛けてゆっくりとではありません。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たち、その時に生きている者は朽ちない体に変えられます。

しかしⅠテサロニケ4:16,17によると、「キリストにあって死んだ人たちがまず復活し、続いて生き残っている私たちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ」とあります。Ⅰテサロニケは死んだクリスチャンに注目して書いてありましたが、今は生きているクリスチャンに注目して書いています。

二つを読み合わせて考えると、順序はありますが一瞬のことであることが分かります。さて一瞬のうちにどのように変えられるのでしょうか。53、54節で2回繰り返して強調して、「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着る」と言います。

「着る」という表現は面白いと思います。復活の体になったら何か皆が霊の体になって、誰が誰だか分からなくなるのではなくて、それぞれの個性、人格は残るということです。

また「神の国を受け継ぐには、朽ちないもの、死なないものを着る」ということですが一体何を着るのでしょうか。マタイ22:1~14に婚礼の祝宴の譬えがあります。婚礼の祝宴である神の国で、礼服を着ていない人は放り出されてしまいました。

神の国はドレスコードが厳しくて、礼服を着ていないと放り出されます。神の国に入るための礼服とは何なのでしょうか。神の国に入るための礼服を、53,54節では、「朽ちないもの、死なないもの」と言います。そのことをローマ13:14は「主イエス・キリストを着なさい」と言います。

つまり私たちが神の国に入るために着る、朽ちない、死なない礼服とは主イエス・キリストです。主イエス・キリストを着ると言っても、新年の演芸会等で行われる二人羽織りの様な窮屈な姿をイメージする必要はありません。霊的に身にまとう様なイメージでしょうか。

また主イエス・キリストの礼服は、自分で仕立てたり用意する必要はありません。くださいと言えば誰でもただで貰える礼服ですが、この世にいる間にくださいと言って貰っておかないと貰えないものです。

主イエス・キリストの礼服は、神の国に入るためには絶対に必要なもので、全て揃えて与えられます。私たちが、死から復活させられる時、またはこの世の終わりに生きていて変えられる時には、フォーマルな全て完全なセットの礼服が与えられます。四重の福音の栄化の礼服です。

しかし、この世においても、セミフォーマルな簡易版の夏服の様な礼服を着ることが出来ます。四重の福音の新生、聖化の礼服です。着ていると快適に過ごせる服ですので、早く着ることをお勧めします。一人一人にぴったりと合うオーダーメイドの最高級品です。

3、勝利を与えてくださる神

この世の終わりに主イエス・キリストの礼服を着るとどうなるのでしょうか。旧約聖書の御言が実現します。「死は勝利に呑み込まれた」のイザヤ25:8、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか」のホセア13:14です。

パウロは死を決して軽く見てはいませんが、最終的に死に勝利はないと断言します。棘は力のある武器ですが、死の武器である棘はどこにあるのかと問います。死の棘は罪です。最初の人アダムが神の命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べる罪という棘によって人は霊的に死ぬ者となりました。

そして私たち人間は意識的ではなくても罪を犯してしまうものです。その罪を思い返すと、この世の死によって完全に滅ぼされてしまうのではないかと考えて恐れるものです。そのように人間が恐れる罪の力はどこから来るのでしょうか。それは律法からです。

律法自体は神の戒めですから善いものです。しかしローマ7:8、9にあるように、律法によって人間の内にある貪りを起こして、機会を捉えて罪が生き返ってしまいました。しかし主イエス・キリストを着ているとどうなるのでしょうか。

人は律法によって罪に定められて、罪が熟して死を生みます(ヤコブ1:15)。しかし主イエス・キリストは律法に従って、全ての人の罪を背負われて、十字架で死なれました。主イエスは律法の要求を全て成就されました。そしてその死からの復活によって既に死に勝利されました。

そしてその勝利はご自身お一人だけのものではなくて、主イエスを信じる者全てに与えてくださると約束されています。それは死に対する勝利であり、死の棘である罪からの解放であり、罪の力である律法からの解放です。

問題を解決する時に大きく二つの方法があります。それは臭い物に蓋をする方法と消臭剤のジョンソンのキャッチコピーだった、「臭い臭いは元から絶たなきゃダメ」の通りに根本的に元から解決する方法です。主イエスの十字架の死からの復活は、死、罪、律法の全てからの解放をもたらす根本的な解決です。

ローマ8:37は、「私たちは、私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります」と言いますが、圧倒的な勝利です。暫く前に勝ち組、負け組という言葉が流行りました。元々、勝ち組、負け組という言葉は、第二次世界大戦が終わった後に南米の日系移民の間で、なおも日本の勝利を信じていた人を勝ち組、日本の敗戦を認めた人が負け組と言われていたそうです。

現代の勝ち組、負け組はこの世的な価値観での出世や財産等で判断しますので聖書的なものではありません。しかし主イエス・キリストを救い主と信じることは、本当の勝利を得る真の勝ち組になることです。主イエスを信じて真の勝ち組、恵みの人になって頂きたいと思います。

勝ち組の者にはその証として、主イエス・キリストの礼服が与えられます。そしてその勝利を与えてくださるのは厳密には父なる神です。父なる神に感謝しましょう。私たちには勝利が与えられることが約束されています。

4、主の業に励む

勝利が約束されている勝ち組の者は、この世においてどのような生き方をするのでしょうか。「しっかり立って」ですが、どこに立つのでしょうか。3:11のイエス・キリストの土台です。イエス・キリストの土台に立つなら動かされることはありません。

何か高い所の作業をする時に椅子の上に立って作業をすることもあると思います。動かない椅子なら安心ですが、タイヤが付いていてクルクルと動く椅子の上に立って作業するのはとても危ないです。

私たちは動かされる、いつ変わってしまうか分からないこの世の土台に立ってしまうと、ふらふらして、死者の復活はないと言い出したりして、食べたり飲んだりしよう、どうせ明日は死ぬのだからと言って、悪いつきあいに入ったりしてしまいます。

しかし動かされることのない不動の岩であるイエス・キリストの土台に立つなら安心です。そして安心して、いつも主の業に励みます。しかし私は仕事をしているので、いつも主の業に励むことは無理だと感じる方もおられるかも知れません。仕事を引退したら主の業に励みますと。

しかし12:12からのところに、「一つの体、多くの部分」とあったように、クリスチャンはキリストの体であって一人一人はその部分です。体の一部分は全て24時間体制で体の他の部分に繋がっていて切り離されることはありません。

体の部分は24時間体制で繋がっているから他の部分から栄養等を貰って生きて行くことが出来ます。体の部分は体から切り離されてしまったら直ぐに生きて行けなくなってしまいます。クリスチャンとして生きて成長して行くことは、体の部分としていつも繋がり続けて、いつも全てを主の業として励むことです。

仕事をする時にも、それは主から与えられた主の業として励むことです。勿論、安息も必要です。さてなぜクリスチャンはそのような生き方が出来るのでしょうか。それは3:15にあったように、この世の終わりの、かの日に全て明るみに出されて明らかにされるからです。

全能の神がご存じでないことは何一つとしてありません。この世の誰も見ていない、知らないことでも神は全てご存じです。主の業に励んだ労苦が無駄になることはありません。神が豊かに報いてくださいます。

この世の死は単なる通過点に過ぎず、その先には勝利が待っています。この勝利は自分の力で手に入れるものではありません。主イエスが十字架に付かれて、神が与えてくださる勝利です。勝利を与えてくださる神に感謝して、そして期待しつつ主の業に励まさせて頂きましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世に生きる私たちにとって恐れるものはやはり死です。愛する方を召されたご遺族に慰めをお与えください。しかし私たちの救い主イエス・キリストは既に死に勝利され、主イエスを信じる者には同じ死に対する勝利を与えてくださいますから有難うございます。

私たちがいつも聖霊の満たしの中で、あなたを見上げて、主イエスを土台としてしっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励むことが出来ますようにお導き、お守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。