善い習慣による正しい生活

2021年3月7日
コリントの信徒への手紙一15章29~34節

主の御名を賛美します。32節の「明日は死ぬ」は英語の訳では、tomorrow we dieです。映画の題で tomorrow never dies というのをご存じでしょうか。日本語では「トゥモロー・ネバー・ダイ」で007の映画です。聖書の「明日は死ぬ」に対して、007の題を訳せば「明日は決して死なない」です。

007の題がこの聖書個所から来ているのかは知りませんが恐らくそうだと思います。因みに007の今年公開予定の最新作は no time to die、日本語の題もそのままですが、直訳すれば、「死ぬ時間はない」でしょうか。

 007のジェームスボンドは、死にかけても必ず蘇って、正しい者には奇跡的な行いが伴う等の聖書的な背景もあって英国を中心に世界中で人気があります。007の映画を英国で見た時には、ジェームスボンドが奇跡的な行いをした時には、映画館で大きな拍手が起こっていました。

ただ男女関係の描き方は、かつての東側の社会主義国家から「退廃した西側の映画」と言われた代表作の様なものですので勧められません。30年前に私が英国に住んでいた時に、英国の結婚期間(寿命)の平均は9年と言われていて随分と短いと思いました。

007の映画が英国の結婚生活に悪影響を与えているのかとも思いましたが、英国の映画は大体似たり寄ったりですので、英国の習慣なのかも知れません。男女関係の描き方は、日本の寅さんシリーズのプラトニックラブとは正反対で、寅さんの方が聖書的で良いと思います。

1、死者のための洗礼

パウロはこの15章でキリスト教の存在は死者の復活に掛かっていることを話しました。死者の復活がなければキリスト教が存在する意味はないことを説明して来ました。復活は福音の中心的な出来事で大切なことですので、さらに復活がなければと仮定して3つのことを問います。

一つ目は、「死者の復活がなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしているのでしょうか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」です。聖書には意味の良く分からない文章がありますが、この文章は聖書全体の中でも一番難しいとも言われます。

この文章を普通に考えますと、今生きている人が、既に死んでしまった人のために代わりに洗礼を受けることです。しかし聖書の他の箇所に他人の代わりに代理で洗礼を受けることは書かれていませんので、色々な説明がされて来ました。

キリスト教に対する弾圧によって、信仰は持っていたけれど洗礼を受けられずに天に召された人のための代理であるとも説明されます。しかしその様なことにパウロが同意しているとも思えません。

そうしますとパウロは認めてはいないけれど、ただコリント教会にある、死者のための代理の洗礼の習慣を取り上げて、死者のための洗礼は何のためにしているのか、死者の復活のためではないのかと問うているのかも知れません。死者の復活が無ければその様なことをする意味はないからです。

2、なぜ危険を冒すのか

二つ目の問いは、「また、なぜ私たちはいつも危険を冒しているのですか」です。パウロはまた「きょうだいたち」と親しく語り掛けて、「私たちの主キリスト・イエスにあって私が持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば」と言います。

パウロにとって、コリント教会の兄弟姉妹たちは誇りです。それは9:1にあった通り、「主にあるあなたがたは、パウロの働きの実」だからです。そしてそれは「主キリスト・イエスにあってパウロに与えられた」恵みです。

パウロはこの後にかなりきついことを言うこともあってか、コリント教会を立てる時には立てています。その誇りであるコリント教会にかけて言えば、パウロは日々、死んでいます。日々、死ぬということには二つの意味があります。一つは精神的に自分に死ぬことです。

それは10:33bの「私は、人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求める」ことです。それがクリスチャンの生き方です。そしてもう一つは肉体的に死ぬような危険な目に合うことです。具体的な内容はⅡコリント11:23~29にありますので後でご覧ください。

続けて「エフェソで獣と闘ったことがただ人間的なことにすぎないのなら、私に何の益になるでしょう」と問います。獣と闘ったというと、ああパウロもキリスト教の弾圧の映画に出て来る、円形闘技場のコロシアムでライオン等と闘ったのかと思います。

しかしこの手紙の後に書かれた先程のⅡコリント11:23~29の危険にあったリストの中にはその様なことは書かれていません。またもしそうであればパウロはライオン等との闘いを生き延びたことになります。ダニエル書6章ではライオンの穴に投げ込まれたダニエルは神に守られましたが、弾圧で獣と闘わされた殆どの人は命を落としたはずです。

実はこの時代にはまだ獣と闘わされる迫害は起こっていません。つまりここでいう獣は動物ではなくて、悪い人を獣に譬えたものです。現代でも極悪非道な犯罪を獣の様な犯行と言います。獣との闘いの具体的な内容は私たちには分かりませんが、Ⅱコリント1:8~10に書かれていることで、コリント教会の人たちには分かることだったと思われます。

「ただ人間的なことにすぎないのなら」を、新改訳では「もし人間の考えから」と訳しています。それは普通の人間の考えである、一つ目の問いの「死者の復活がなければ」という意味です。死者の復活がなければ、死の危険と闘って負ければ、そこで全てが終わりです。

それであれば何の益になるでしょうか。例え死者の復活があると分かっていても死の危険に向かって行くのは大変なことです。それでもパウロが死の危険に向かって行くのは死者の復活の確信があって、神は頼りになるお方だからです。

3、どうせ明日は死ぬ

死者の復活がないとしたら、三つ目に「食べたり飲んだりしようどうせ明日は死ぬのだから」ということになります。これはイザヤ22:13の御言です。確かに例え節制して清貧に生きても、食べて飲んでも明日には死んで全てが終わりだとしたら、快楽的な生き方に流されてしまわないでしょうか。

死者の復活は、この世の後の死の先のことだから、この世の生き方には関係ないということはありません。私たちはどこを見て生きるかで、この世の生き方が違って来ます。それは高速道路の運転と似ています。私たちは自分が向かって行く先の方をじっと見つめながら進んで行って、近くのものも視野に入れます。

近くのものだけに気を取られていると、自分が進むべき大きな方向を見失ってしまって危険です。クリスチャンはこの世の死も視野に入れつつ、見ているのは26節の「最後の敵として、死が無力にされ」ることで、復活することです。

この世の死を軽く見ることはしませんが、この世の死に捕らわれずに復活の希望に生きる者です。ですからクリスチャンは、マタイ4:4の「人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」者です。それが今年度の標語である「神のかたちに生きる」ことです。

4、悪いつきあい

死者の復活がないとしたら以上の3つの問題が起こります。ですから死者の復活がないなどと思い違いをしてはいけません。「悪いつきあいは、善い習慣を損なう」のです。この言葉はギリシャの喜劇作家メナンドロスの「タイス」という作品からの引用と言われます。

日本の諺でも「朱に交われば赤くなる」とか「悪貨は良貨を駆逐する」と言います。キリスト教的には「主」に交わればクリスチャンですが。ここの「悪いつきあい」とはどういうものでしょうか。直接的には死者が復活しないと考える人とのつきあいです。

しかしそれだけではなくて、広い意味では8~10章に書かれていた異教の習慣を持つ人たちとのつきあいです。聖書で知恵の書と言われる箴言の内容を一言で纏めると、「君子危うきに近寄らず」と言えます。

悪いものも含めて社会の現実を知るのも社会勉強であるというような考え方もあるかも知れません。しかし聖書は、危うきものには一切近寄らないのが、自分を守るための神の知恵であると言います。

人間は罪深い者ですので、悪いつきあいは、悪い習慣の人を善い習慣に導くより、善い習慣の人が悪い習慣に引きずられてしまい易いものです。そこには悪い霊の働きがあるためかも知れません。

ですから、悪いつきあいを捨てて、正気になって、正しい生活を送る必要があります。「正気になって」という表現は、ルカ15:17の放蕩息子が「我に返って」という表現を思い起こさせます。放蕩息子には恐らく悪いつきあいもあったのでしょう。

飲食い等を含めて無駄遣いをして財産を使い果たして困った挙句に我に返りました。そして正しい生活に戻りました。私たちは悪いつきあいの行き着く先を知っているのですから、正気になって正しい生活を送りたいものです。

そして罪を犯してはなりません。ここでいう罪とは、直接的には死者の復活を否定することです。キリストご自身が死者の中から復活されて、信じる者に永遠の命を与えると約束されています。ですから、死者の復活はないと神の言を否定することがまず罪です。

また死者の復活を否定することは、「食べたり飲んだりしようどうせ明日は死ぬのだから」といった放蕩息子の様な自堕落な生活に繋がって、罪の行いを犯すことになります。コリント教会も同じでした。

パウロがこの様なことを言うのは、コリント教会に神について無知な人々がいるからです。

パウロは神について知識が少ない人を責めているのではありません。パウロがこう言うのは、あなたがたであるコリント教会員を恥じ入らせるためです。

コリント教会員は8:1,10にあった様に自分たちは知識を持っていると言って高ぶっていました。しかしその生活はどうかというと、8章では、偶像に献げられた肉を神殿で食べて、良心の弱い人を躓かせたり、11章では、主の晩餐の前の食事の時には、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末でした。

それは死者の復活を否定する罪から起こって来る当然の結果であって、神についての正しい知識を持っていない証拠です。神について無知な人との悪いつきあいは、善い習慣を損なって、正しい生活が送れなくなります。逆に死者の復活があるという正しい知識を持つ人との善いつきあいは、善い習慣を作って、正しい生活に繋がります。

5、召命

ここで疑問を覚える方もおられるかも知れません。「悪いつきあいは、善い習慣を損なう」のは事実かも知れないけれど、では悪い習慣にいる人は誰が救いに導くのでしょうか。悪い習慣の人とつきあいをしなくては救いには導けません。クリスチャンは自分さえ良ければそれで良いのでしょうか。

確かに悪い習慣のありそうな盛り場等で伝道する牧師もいます。アーサーホーランド先生は有名です。しかし全てのクリスチャンが同じ伝道を行った方が良いかというと、それはまた別の問題です。20年以上前の話ですが、ある知合いの伝道者が酒場での伝道を始めたと言っていました。

私はとても心配になりました。その人は精神的にとても脆い感じの人だったからです。結果としてその伝道者は悪い習慣の人を救いに導くのではなくて、自分が悪いつきあいに引きずられてしまって、伝道者の生活から離れざるを得ませんでした。とても残念でした。

これは盛り場や酒場で伝道することが良いか悪いかの問題ではありません。自分がその働きに神から召されているかどうかです。神から召されているのなら必要な賜物は与えられます。しかし他の人が行っていて何か格好が良いからと言って、自分も同じことをして上手く行くとは限りません。

これは伝道に限ったことではありません。何かをする必要を感じた時に自分はどの様なかたちで関わるのが神の御心であるかを祈り求める必要があります。自分は現場の最前線での働きを担うのか、後方支援として祈り、また支える働きをするのかです。

盛り場等での伝道も必要だとは思いますが、私自身は現時点ではその働きに召されているとは思いませんので関わってはいません。ただキリストは全ての人の救いのために十字架に付けられました。私たちはまず救われて善い習慣を身に付けて正しい生活を送らせて頂きましょう。そして全ての人の救いのために召される働きに用いて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。キリストは死者の中から復活されました。そしてキリストを信じる全てのクリスチャンはキリストの復活の力に与かって復活されます。私たちが復活の確信を持って、聖霊の力によって善い習慣を身に付けて正しい生活を送らせてください。そして全ての人の救いのために私たちをお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。