何事も愛をもって
2021年4月25日
コリントの信徒への手紙一16章13~24節
主の御名を賛美します。再来週に茂原教会の教会総会が行われ、今日の午後には千葉教区の教区総会が行われます。教団の総会は先月に行われて、私は今書記として、その議事録の作成に追われていて正に総会シーズンです。
そこで感じることは、色々な制度や決まりを作ることは大切なのですが、本当に大切なのは、それをどのように運用するか人で決まることです。自動車会社のトヨタはToyota woven city という町を工場跡地の静岡県裾野市に作りますが、社長の豊田章男さんが未来を作るのはAIやテクノロジーではなくて、人であることに拘りたいというのは最もであると思います。
1、5つの勧め
今日の聖書個所は「結びの言葉」と小見出しが付いている通り、この手紙の結び、纏めの言葉です。パウロの手紙と言ってもパウロは福音を語っているのですから、内容は福音書に書かれている通りです。初めにこれまでの内容を纏めて5つのお勧めをします。
一つ目は、「目を覚ましていなさい」です。この言葉は軍隊で見張りをする義務です。何に対して目を覚ましているのでしょうか。マタイ24:42に書かれていたことで、22節にありますように、「主が再び来られる」ことに対して目を覚まして、いつも意識して、考えて、行動しなさいという意味です。
目を覚ましているということの具体的な内容は二つ目の、「信仰にしっかりと立ちなさい」です。聖書のいう信仰は人間が何かを信じることではありませんので、「鰯の頭も信心から」で何でも信じれば良いのではありません。
信仰は神が人になされた真実である福音を信じることですので、15:3、4の4つのことを信じることです。そして信仰に立つとは福音の中心であるイエスキリストを土台とすることです(3:11)。
信仰に立つことは三つ目の、「雄々しくありなさい」、四つ目の「強くありなさい」に繋がります。信仰に立つ者には神が共にいてくださいますので、雄々しくあることが出来ます。「雄々しく」とは勇気を表しますので、具体的には10章にあったような偶像礼拝をはっきりと断ること等です。
「強くある」は力を表しますので、5章にあった不品行な人に対して戒規処分を行うこと等です。
ただこれら四つのことも、五番目の、何事も愛をもって行います。それは13章にあったように、最も大いなるものは愛だからです。全ては人間の考える正しさによるのではなくて、愛に基づいて行う必要があります。いつも、「そこに愛はあるんか」と自分に問う必要があります。
2、熱心に奉仕する者に従う
何事も愛をもって行う具体的なこととしてパウロは3つのことをコリント教会にお願いします。内容に入る前に、この手紙は約2千年前に、お互いに面識のあるパウロがコリント教会に宛てた物ですので、両者の間では言わなくても分かることが、私たちには良く分からないこともあります。
そのような前提でパウロは、「知ってのとおり、ステファナの一家はアカイアの初穂であり、聖なる者たちのために熱心に奉仕してくれました」と言いますが、私たちは良く知りません。そもそもステファナって誰のことだろう、口語訳のステパノのことかと思うとステパノは協会共同訳ではステファノですので別人です。
アカイアは後ろの地図を見ると分かりますが、コリントを含むこの地域の名前です。パウロは1:16でステファナの一家に洗礼を授けました。
そして聖なる者たちのために熱心に奉仕したというのは、恐らく家の教会を開いて、色々な人たちを、もてなして仕えているということです。パウロもコリントでお世話になったことでしょう。それがコリント教会の礎となりました。そして、「どうか、あなたがたも、この人たちや、共に働き、労苦しているすべての人々に従ってください」と一つ目のお願いをします。
パウロがこのようなお願いをするということは、ステファナの一家と共に働き、苦労している人々もいますが、それが教会の働きになっていないということです。教会の中で、個人の自発的な働きとして奉仕が始まることもあります。
その様なことをいつまでも個人に任せたままにしないで、教会の働きとすることを検討する必要があります。そして「従ってください」ということは、ステファナの一家の人たちの下に付いて、愛を持って仕えなさいという意味です。
3、3人を重んじてください
次に、「ステファナ、フォルトナト、アカイコがそちらにいることを、うれしく思います」と言います。協会共同訳ですと、この3人がどういう状況にいるのか少し分かり難い感じがします。新改訳の「ステファナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます」は分かり易い訳です。
この当時は郵便のシステム等はありませんので手紙は誰かが持って行く必要があります。この3人はコリント教会からパウロのいるエフェソに船でパウロへの質問状を持って来て、パウロが書いたこの手紙を持って船でコリント教会に帰るようです。
そして「この人たちは、あなたがたの足りない分を満たしてくれました。私とあなたがたとを安心させてくれ」ました。現代はSNS等が発達して、携帯のメール等を使って、いつでもどこでも簡単に連絡が取れます。
しかし文字だけの連絡ですと、文章のニュアンス迄は伝わらないので、冗談で言っているのか、本気で言っているのか、笑いながら言っているのか、怒っているのか、良く分からない様な誤解を生むこともあります。
また口だけで伝えると、聞き漏らしたり、忘れてしまうこともあります。そういう意味では文章と口と両方で伝えた方が間違いは生まれ難いのかも知れません。この3人がコリント教会から来たことは、コリント教会からの手紙だけでは足りない分を満たしてくれました。
またこの手紙にパウロはかなり厳しいことも書きましたので、手紙だけでは受け取るコリント教会も心配するでしょう。またパウロも、コリント教会がどの様に受け取るのかと心配してしまいます。しかし手紙だけではなくて、直接に会って話してパウロのコリント教会に対する愛を知った3人が伝えてくれれば安心です。
パウロはこの手紙には書いていませんが、この3人からコリント教会の現在の状況を詳しく聞いたはずです。パウロは1:11で、「コリント教会のことをクロエの家の者たちから知らされました」とは書きましたが、この3人から聞いたとは書きません。それはなぜなのでしょうか。
パウロはコリント教会からの質問状に対する回答もしていますが、聞かれていないこともこの手紙に書いています。例えば、11章の礼拝のときのかぶり物や、愛餐会と聖餐式の混乱、15章の復活について等です。これは恐らくこの3人から聞いたことだと思われます。
しかしパウロがこの3人から聞いた話によると書けば、3人がコリント教会に帰ってから、どうしてパウロに、ちくったんだ、余計なことを言ってと責められるので、勿論書きません。しかしその様なことも見越してパウロは「このような人たちを重んじてください」と二つ目のお願いをします。
3人はパウロにちくったとか、そういうレベルの問題ではなくて、コリント教会の今の状況をありのままに正しく報告したのでしょう。3節にあった様に、手紙を持って送り出される人は、誤解が生まれない様に、正しく報告するために教会の承認を得た人である必要があります。
またこの当時に船で地中海を渡るのは命懸けです。その様な命のリスクを負って迄も3人はコリント教会のために仕えて、主の仕事をしています。「このような人たちを愛を持って重んじてください」とパウロはお願いします。
4、挨拶
19節からは本当に最後の挨拶です。まず、「アジアの諸教会があなたがたによろしくと言っています」。アジアはアジア州のことで今のトルコの西側の部分です。祈祷会で質問にも出たことですが、教会というのは、人の集まりという意味です。
ユダヤ人は13歳以上の男子が10以上集まると礼拝が出来ましたので、今、パウロがいるエフェソにも教会がありますが、それは茂原教会のような一つの集まりではなくて、エフェソにある家の教会の集まりを指しています。
コリント教会も一つの集まりではなくて、コリントにある家の教会等の集まりを意味しています。ホーリネス教団で言うと、千葉教区にある15の教会の集まりを千葉の教会と呼ぶ様な意味で、エフェソの教会、コリントの教会と呼んでいます。
教会全体も12:12からにありましたように一つのキリストの体ですから、よろしくと伝えます。アキラとプリスカとその家の教会が、主にあって心からよろしくと言います。アキラとプリスカは使徒言行録18章で、パウロがコリントで開拓伝道をしていた時に、二人の家に住み込んで、一緒にテント造りをしてお世話になって人たちですので、コリント教会の人たちも良く知っています。
二人はパウロと一緒にエフェソに移りました。それ以外のすべての兄弟もコリント教会によろしくと言っています。このようにすべてのきょうだいがコリント教会によろしくと言っているのですから、コリント教会員同士も、1:12にあるようにパウロ派、アポロ派等といって分裂等すべきではありません。
パウロは、「聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい」と3番目のお願いと言いますか、指示をします。この御言を現代の日本に生きる私たちはどのように受け止めたら良いのでしょうか。聖書が言っているのだからと早とちりして、自分の結婚相手ではない異性に、口づけの挨拶をするのは間違いです。
「何事も愛をもって」ですから、例え自分が望んだとしても、相手が望まなければそれは犯罪行為です。
マタイ26:49で、ユダが主イエスを裏切る時の合図として接吻をしていますので、この当時の習慣でした。聖書に書かれていることもあって、現代でも口づけによる挨拶を行う地域をあります。
ただ口づけと言っても、お互いに自分の口と相手の頬を付ける挨拶が多いです。ただ大切なのはどういう方法で行うかというよりは、愛をもって聖なる挨拶を交わすということです。
5、パウロの挨拶
本当の最後に、パウロ自身が自分の手で挨拶を記します。パウロは他の手紙でも同じ様に書いていますので、パウロの手紙はパウロが話したことを他の人が代筆で書いて、終わりの部分だけ自分で書いています。
この様な習慣は現代にも残っていて、パソコンで書いた文章でも郵便等で送る時にはサインだけは直筆で書いたり、年賀状等でも印刷の部分に一言だけ直筆で添えたりします。これは確かに本人が書いたという証拠でもあります。
さて、その様にして、最後に記すパウロの文章はどのようなものでしょうか。「主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来たりませ」です。最後の挨拶の言葉に呪いが入っていることは驚きです。今日の説教題でもありますように、私たちは何事も愛をもって行うことが何よりも大切なことです。
ところが残念ながら私たち罪人である人間の中には愛はありません。しかし福音は15:3、4で、その様な私たちの罪のために、キリストが私たちを愛して、身代わりとなって死んでくださいました。その主イエスの愛への応答として、感謝して愛するなら、主の愛が私たちに注がれて、何事も愛をもって行うことが出来るようにしてくださいます。
しかし私たちを愛してくださる主を愛さないなら、私たち自身の内には愛はありませんから、何事も愛をもって行うことは不可能です。主を愛さないことは、他の人も愛さないことですから、その様な者は、呪われよと言います。
パウロは自分の愛するコリント教会が呪われることなど勿論、望んでいる訳がなく、祝福されることを望んでいます。これは、そうであるなら心から主を愛して欲しいというパウロの強い願いの表れです。またそれと共に、この「主を愛さない者は、呪われよ」というのは、この当時、教会で使われていた表現のようです。
神の言は聞いて終わりではなくて、聞いた者は従うことにより祝福か、従わないことによる呪いかのどちらかを選び取ることが求められます。そして主を愛するなら、「主よ、来たりませ」、アラム語で、「マラナ・タ」と告白して、復活された主が再び来られる再臨を願うものです。
ただ主を愛すると言っても、自分の力で愛することなどは出来ませんので、「主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。主の恵みによって、主を愛せるように」と言います。この文章は祝祷の短いバージョンです。
最後の最後に、「私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように」と言います。パウロは色々と厳しいことも書いて来たけれど、それも全て、キリスト・イエスにあって、あなたがたを愛する愛から出て来たことであるということです。
「何事も愛をもって行いなさい」とコリント教会に勧めておいて、パウロ自身がコリント教会に対して愛をもって行っていなければ何の説得力もありません。またコリント教会がこの手紙を読むに当たって、キリスト・イエスにあって、パウロの愛がそこに共にあることを覚えて読むことを願っています。
そしてそれはコリント教会がこの手紙を読んで、パウロの愛に対する愛に基づく応答をして欲しいという願いです。そしてこれはコリント教会に対してだけではなくて、今、この手紙を読んでいる私たちに対するパウロの愛であり、パウロを通して語られる神の愛です。何事も愛をもって行うために、まず主を愛する者とさせて頂きましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは、何事も愛をもって行いたいと願いつつ、上手く出来ずに自分に失望してしまうものです。しかし主の恵みの福音によって、主を愛し、信じる者には、主の愛が注がれて、何事も愛をもって行う者へと変えてくださいますから有難うございます。
主の恵みに応答して、全ての人が主を信じることが出来ますようにお導き下さい。そして愛をもって生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。