愛による赦し

2021年5月16日
コリントの信徒への手紙二2章5~11節

主の御名を賛美します。現在、コロナウィルスの感染の拡大が続く非常事態の中にあっても、イスラエルのガザ地区でのイスラエルとパレスチナの武力衝突は復讐の連鎖が止まりません。不毛な争いが一刻も早く終わるようにと祈るばかりです。

1、悲しませること

先週の1節でパウロは、「コリントに行くことで再びコリント教会を悲しませることはすまい、と決心しました」。1~7節で、「悲しませる、悲しみ」という言葉が8回使われて強調されています。パウロとコリント教会の間には大きな悲しませること、悲しみがありました。

パウロは前回のコリント教会への訪問で、コリント教会をなぜ悲しませたのでしょうか。5節で、その人と呼ばれるある個人が、まずパウロを悲しませたからです。その人はパウロに対して、どのようなことをして悲しませたのでしょうか。具体的なことは書かれていませんので、はっきりとしたことは分かりません。

それは手紙一の5章の不道徳な人々のことを指しているのではないかとも言われます。しかしその人と呼ばれるのは個人ですので、個人の先導者がパウロを標的とした攻撃をしたと考えられます。それは7:11、12に書かれている、「あの事件」のことと思われます。

「それは、あなたがた皆に負担を負わせまいとしたためです」という文章を、新改訳は「あなたがたすべてを悲しませたのです」と訳していて分かり易い訳です。神がコリント教会の使徒として立てたパウロを攻撃して、神が作られた秩序を乱すことはコリント教会全体に大きな悲しみをもたらします。

それに対してパウロはそのままにして置くのではなくて、厳正に対処して、処罰を行いました。現代でいう、教会の戒規を執行しました。これは現代の教会でも求められることです。私たちは全てに対して愛を持って対応する必要がありますが、それは悪いことも好き放題にさせることではありません。

問題がある場合にはそのまま放置するのではなくて、問題が広がることの無いように適切に対応する必要があります。キリストの体である教会で問題を放置して拡大させることは好ましくありません。パウロは溢れるばかりの愛によって処罰を指示しました。しかし処罰が行われること自体は教会にとって大きな悲しみです。

2、処罰

さて処罰をした後は、どのようにするのでしょうか。パウロは、「その人には、大多数の者から受けたあの処罰で十分です」と言います。あの処罰というのも、どういうことであるのかは分かりません。しかし私たちキリスト教会の伝統から考えると、聖餐の式文にあるように、聖餐での陪餐の停止と考えられます。

この当時は聖餐と愛餐が一体となっているような感じですので、愛餐会への参加の停止、それは信徒の交わりへの参加の停止と言えます。日本的な表現ですと村八分のような感じでしょうか。そしてこの処罰は悔い改めに導いたと7:9にありますので、処罰の目的を果たしました。

処罰の目的は、罪を犯した人を滅ぼすことではありません。パウロは主が自分に授けてくださった権威は、あなたがたであるコリント教会を打ち倒すためではなく、造り上げるためであると、10:8で言います。

この精神はホーリネス教団の「戒規に関する規程」も引き継いでいて、規程の目的第1条の2で、「教団及び教会は、戒規処分を受けた者が立ち直って復帰できるように、必要な教育と配慮をするものとする」と定めています。戒規処分は処罰を与えることが目的ではなくて、立ち直らせて復帰させるためのものです。

処罰により悔い改めた人に対しては、赦して、慰めてやります。「赦す」という言葉は、ギリシャ語で「カリゾマイ」と言いますが、これは、恵み「カリス」と関連のある言葉で、「赦す」ことは、神の恵みから生まれる行いです。赦すことは人の思いですることではなくて、聖霊に満たされた神の恵みによって行うことです。

この箇所では「赦す」という言葉が5回使われて強調されています。そこで、パウロは、聖霊の導きによって、その人に愛を実際に示すことを勧めます。それは悔い改めた人は元の交わりに戻すということです。あなたがたであるコリント教会が何かのことで人を赦すなら、パウロもその人を赦します。

パウロは、それほどにコリント教会を信頼しています。またパウロが何かのことでその人を赦したとすれば、それは、あなたがたであるコリント教会のために、キリストの前で赦したことです。罪や悪は処罰しますが、悔い改めた人は赦します。「罪を憎んで人を憎まず」ということです。

3、赦し

しかし私たちは赦すということをするのが難しい時もあります。怒りが中々収まらなかったり、怒りは収まっても、一度怒ってしまった手前、収まりが付かなくなってしまうこと等もあります。しかし、いつまでも赦さないでいると、その人はもっと深い悲しみに打ちのめされるかもしれません。

悔い改めても赦されなければ、何の希望も無くなって、悲しみに打ちのめされてしまいます。それでは、処罰の本来の目的である造り上げることになりません。そしてそのような人の心の隙間にサタンはつけ込んで来ます。

悔い改めた人が、いつまでも赦されないでいると、絶望して、もうどうなっても良いと投げ槍になって、再び罪を犯してしまうことになりかねません。ですから、わたしたちがそうして赦すのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンにつけ込まれないようにするのは、罪を犯した人のためだけではありません。

罪によって悲しい思いをした人のためでもあります。悲しい思いをした人も、ずっと赦さないでいると、いつまでもその罪に縛られてしまうことになります。ローマ12:19は、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言います。悲しい思いをした人が本当に癒されるのは、キリストの前でその人を赦すことです。

悲しい思いをした人がいつまでも赦さないことは、自分自身を苦しめることになります。ですから主イエスは主の祈りで、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」とゆるすために、祈ることを教えてくださいました。私たちはサタンのやり口は心得ているのですから、つけ込まれない必要があります。

4、死刑制度

この聖書個所の内容を思い巡らしていた時に、思い浮かんだのは死刑制度のことです。信仰と政治的な信条とは余り関りはないものであって、同じ信仰を持っていても政治的な信条は全く異なることもありますので、聖書に関わる内容を中心とさせていただきます。

私は以前は個人的には死刑制度に反対する理由が良く分かりませんでした。ヨーロッパを中心に死刑制度が廃止されているのは知っていました。しかし死刑制度を認める国は大体三つの理由を挙げます。

一つ目は死刑が無いとなったら、どんなことをしてもどうせ死刑になることはないのだからといって、凶悪な犯罪を防ぐことが出来なくなってしまうという、犯罪の抑止効果が無くなることです。二つ目は、死刑に相当する凶悪な犯罪を行った者は、当然、死刑をもって報いを受けるべきだという因果応報的な考えです。

そして三つ目は過失ではなくて、確信犯である凶悪な犯罪者に対して、死刑をもって報わなければ、被害者の遺族が報われないという遺族への配慮です。

しかし一つ目の死刑制度があることによる犯罪を防ぐ抑止効果は証明されていないそうです。死刑制度がある地域と無い地域、また同じ地域でも死刑制度を廃止する前と後では犯罪の発生率は変わらないそうです。

二つ目の悪いことをした者は、その報いを受けるべきという考えはとても分かり易いものです。因果応報と言われて、善いことをした者には善い報い、悪いことをした者には悪い報いがあることです。元々は仏教用語ですが旧約聖書のヨブ記の中にもそのような考えが見受けられます。

この因果応報的な考えを持つ、日本を含むアジア、中東、アフリカの中で実際に死刑を行う国は55か国に対して、事実上、死刑を廃止している国は約3倍の144か国になります。因果応報は分かり易いのですが、それは果たして聖書的な考えなのでしょうか。

罪を犯した者は滅びるべきであるのなら、主イエスは何のために十字架に付けられたのでしょうか。罪を犯した者がそのまま死刑になれば、その者はこの世の死だけではなくて、永遠の滅びに定められてしまいます。そのことを喜ぶのは誰でしょうか。サタンです。

罪を犯した者を死刑にするのは、罪を犯した者を滅びに定め、そのような死を生み出そうとするサタンにつけ込まれた考えかも知れません。パウロは悪に対する処罰はしますが、悔い改める者には、愛をもって赦します。なぜならパウロは人を倒すためではなく、造り上げるために遣わされたからです。

罪を犯した者を死刑にするのではなくて、悔い改めさせることがサタンに対する最大の勝利です。主イエスが十字架に付けられたのは、全ての人の罪のためです。その対象者はこの世の裁判では死刑になる人も含まれています。

三つ目の凶悪な犯罪者が死刑にならなければ、被害者の遺族が報われないというのはどうでしょうか。確かに被害者の遺族の気持ちを考えると、せめて犯人を死刑にする位しないと可哀そうだと思ってしまいます。しかし犯人が死刑になれば遺族は本当に報われるのでしょうか。

犯人が死刑になれば一時的にはすっきりとするかも知れません。しかし愛する人を失った悲しみは何も変わることはありません。犯人が死刑で例え死んだとしても、犯人に対する恨みが晴れることは決してないでしょう。

犯人に対する恨みが軽くなるのは、犯人が心からその犯罪を悔い改めて謝罪することではないでしょうか。犯人への恨みから解放される唯一の方法はキリストの前で犯人を赦すことです。赦すというのは決して相手のためだけにすることではありません。

自分の精神の健康のためにも赦した方が良いものです。赦さなければ、自分の精神を病んでしまう可能性もあります。ですから主イエスは主の祈りの中で、赦すことを教えられました。赦すことは自分自身がサタンにつけ込まれないためでもあります。

このように考えて行きますと、聖書は死刑制度に反対の考えを持っていると思われます。キリスト教の影響の強いヨーロッパの国々の多くも20世紀迄は2回に渡る世界大戦で多くの命の犠牲を出しました。しかしその後の1960年代後半には、「死刑も殺人である」という考えによって死刑廃止へと移行して行きました。

カトリックは3年前の2018年に、信者の教理の手引きであるカテキズムに、「死刑はいかなる状況においても容認できない」と明記して、全面的に死刑に反対の立場を示しました。しかし良く考えると、それは二千年前に既にパウロが言っていたことに、やっと戻ったような気もします。

現実には複雑な問題もあるとは思います。悔い改める者は赦すことはまだ分かるけれど、どんなことをしても悔い改めようとしない者はどうするのか等、色々とあるかも知れません。しかし心から悔い改める者は、例えどんなことをしたとしても赦すというのが主イエスの教えであり、主イエスの十字架によって赦されない罪はありません。

罪を犯す者を赦すことには難しい部分もあります。しかし自分の力では出来なくても、神の力によって出来ないことは何一つありません。神から頂く聖霊の愛の力によって、罪を犯す者を悔い改めへと導き、赦し、慰めましょう。そのような神の愛を実際に示すことによって、誰もサタンにつけ込まれることにないようにしましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは日々の生活の中で、色々な悲しい思いをすることがあり恨みを抱いてしまうこともあります。しかしあなたは、「復讐は私のすること」と言われます。また私たち自身も罪を犯しあなたに罪を赦していただく必要のあるものです。

主の祈りに、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」とあるように、聖霊の力によって主の言に従順に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。