主と同じかたちに
2021年6月6日
コリントの信徒への手紙二 3章7~18節
主の御名を賛美します。時々、月を見ると本当に明るくて綺麗だなと思わされます。しかし月は昼間も出ていますが、薄く白く見えるだけで輝きが分かりません。月は輝きを持っていますが、それは月が輝いているのではなくて、太陽の輝きを映しているもので、太陽が出て来ると太陽の輝きの前に、月の輝きが失せてしまいます。
1、栄光
先週のところで、パウロは自分の推薦状の話から発展して、古い契約である旧約と新しい契約である新約について話しました。今日の個所でも二つの契約について比べて話します。古い契約は文字で書かれた十戒を中心とする律法に仕えます。
律法は神の完全なる基準を伝える聖なるものですが、人が律法を守る力を与えることは出来ません。石に文字で刻まれた律法を人は守ることが出来ませんので、律法は人を罪に定めることになります。そしてローマ6:23にある通りに、「罪の支払う報酬は死です」。
人は律法を守ることが出来ないので律法は人を殺します。そこで律法をもたらしたモーセの務めを、死をもたらす務めと言います。何か凄い言い方だなと思いますが。しかし新しい契約は愛である神の霊、聖霊に仕えます。愛なる神は、御子主イエス・キリストの十字架の贖いによって人を義として生かします。
そこで新しい契約である福音を宣べ伝える務めを、人を義とする務めと言います。これはモーセとパウロのどちらが優れているという話ではありません。モーセとパウロはそれぞれの契約に仕える務めをする働き人です。しかし旧約である律法は人を罪に定めて殺すのに対して、新約である福音は人を義として生かします。
二つの契約を比べて、一つ目のこととして契約の内容自体が旧約より新約の方が勝ります。そして契約の内容が勝ることが何に現れて来るかと言いますと、その務めの栄光に現れて来ます。7~11節の5節の短い文章の中に、「栄光」の言葉が10回使われて強調されています。
栄光は元々、神のご性質を現わす言葉で、栄誉、輝き等の意味がありますが、その中心は救いです。律法は人を罪に定めますが、神の聖なる基準を伝えるものですので、その務めに仕えたモーセは栄光に包まれて、モーセの顔には輝く栄光があって、イスラエルの子らがその顔を見つめることができませんでした。これは出エジプト記34:29,30の記事です。
そうであれば、内容で勝る新約の霊に仕える務めは、なおさら、栄光に満ち溢れています。事実、かつて栄光を受けたものは、この場合、はるかに優れた栄光の前に、栄光を失いました。律法は福音の前に、栄光を失いました。
この記事を読むとバプテスマのヨハネのことが思い浮かびます。マタイ3:2でバプテスマのヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えて主の道を備えました。
とても大切な働きです。しかし主イエスが活動を始められると自分の弟子たちに、ヨハネ1:36で「見よ、神の小羊だ」と言って弟子たちを主イエスに委ねて自分は退きました。
二つの契約を比べて、二つ目のこととして、旧約の律法はつかの間のものです。動物等の犠牲を献げるのは一時的なものですが、そのことの象徴として、モーセの顔に輝く栄光もつかの間のもので消え去るものです。それに対して福音は永続するものであって、永遠の命を与えるものです。
そうであるなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずです。パウロは福音の栄光が消え去ることがないという希望を抱いていますので、堂々と振舞います。なぜなら霊に仕える福音の務めは栄光に包まれているからです。パウロやクリスチャン自身が栄光なのではありませが、栄光に包まれた福音に仕える者も栄光に包まれるからです。
2、覆い
モーセは出エジプト記34:33で、顔に覆いを掛けました。その理由をパウロは、栄光が消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとしたのだと説明します。モーセの顔の輝く栄光がつかの間であったことは、モーセを通して与えられる律法が永続するものではないことを象徴しています。
実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼ら、聞く者の心には同じ覆いが除かれずに掛かっています。後半の13~18節には、「覆い」が5回使われて強調されています。覆いだけに、おーい、どうなっているんだという感じです。
覆いとはどういうものかと言いますと、例えば律法の中心である十戒は神の聖なる戒めであって完璧なものです。誰もそれに文句の付けようがありません。しかしその完璧な十戒を、どうしたら守ることが出来るのかということが旧約のどこにも書かれていませんし、守ることは不可能です。
そうしますと、そのような実行不可能な契約が朗読されると、聞く人の心はかたくなにされます。そして心に覆いを掛けざるを得ません。神の民として、聖なる律法を守れていませんと正直に言う訳には行きません。何とか屁理屈を付けて、辻褄を合わせて、律法を守っていると言うしかありません。
人間は皆、同じなので、お互いにそうだそうだ、これで守れていることにしようと決めて行きました。しかしそのような自分の心に嘘を付けない正直な人は悩んで、これまた心に覆いを掛けざるを得なくなります。そしてその問題を解決するために、主イエスが十字架に掛かってくださいました。
律法を自分の力で守れないと認める人は、その身代わりとして主イエスが十字架に掛かって罪を赦してくださったことを信じるだけで義とされます。人が主に向くならば、何もごまかす必要は無くなりますので、覆いは取り去られます。何も後ろめたさを感じることなく、堂々と振舞うことが出来ます。そして永続する栄光に包まれた福音を語る者は顔に覆い掛けるようなことはしないでオープンです。主は霊です。文字ではありません。
文字は聖なる律法を示すことは出来ますが、人に律法を守らせる力を与えて生かすことが出来ません。逆に律法は人を罪に定めてしまいますので、そこに自由はありません。しかし主の霊は、全能の神の愛によって導かれますので、クリスチャンには自由があります。パウロはこのように福音の真理を語っていました。しかしパウロの教える真理に反対する、11:13にある偽使徒がいました。
偽使徒は、救いには福音だけではなくて、律法による行いが必要だと教えてパウロに反対していました。しかし救いは福音による信仰だけであるというのは二千年前のこの時に分かっていたことです。しかし歴史は繰り返すと言われますが、同じようなことが16世紀にも起こっていました。
宗教革命を始めた修道士のマルチン・ルターは、禁欲的な生活をしていましたが、どうしても自分が神の前で義であると思うことが出来ないために悩んでいました。しかしある時に、人を義とするのは信仰のみによるという理解が与えられて心の平安を得ました。
そのようなルターにとって、その当時に罪の赦しのために販売されていた贖宥状(一般的には免罪符)は見過ごすことが出来ませんでした。それに端を発してプロテスタント教会が誕生することになりました。しかし5百年も経つとプロテスタント教会の中でもプロテスタント教会が誕生した精神が見失なわれてしまうこともあります。
3、主の栄光を映す
では見失わないためにはどうすれば良いのでしょうか。「私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見ます。」 この箇所を新改訳は、「鏡のように主の栄光を映し」と訳しています。私たちが主に向くならば、顔の覆いを主によって除かれて、鏡のように主の栄光を映すものとされます。
私たちは何かをする必要はありません。ただ主に向いているならば、主が私たちを鏡のように主の栄光を映すものとしてくださいます。
先週、お話させていただきましたが、私の兄は先週の日曜日に日付が変わった直後に天に召されました。私は先月号の「りばいばる」にも書きましたがかなりの自由人だと思います。しかし私の兄は私よりも遥かに自由人です。
私は映画の「男はつらいよ」のフーテンの寅さんこと、車寅次郎が好きですが、今思うと寅さんに兄の姿を見ていたような気がします。兄は寅さんと良く似ていて、自由人で寅さんのように良く冗談を言って人を笑わせて、義理人情に厚いところがありました。
寅さんの映画では妹のさくらや夫の博を初めとして、周りの皆が寅さんはどうしているのか、どうなって行くのかと心配していましたが、私の妹と私を初めとして親戚中が兄はどうなって行くのか心配していました。葬儀で私は、兄の人生は少し短かったのが残念ですが、自分の好きなことを、したいようにしていたので、それはそれで良かったと思うというようなことを話したところ、親戚中が納得していました。
兄が一月前位に入院した暫く後に、私が兄に神を信じてクリスチャンになって欲しいと言った時に、どのように答えるか心配もありましたが、義理人情に厚い兄ですから、いつものように「ああ、分かった」と二つ返事で了解で、次に会った5月13日に洗礼を授けました。
私は本音を言うと、兄はどこまで神を理解したのだろうかという思いがありました。しかし洗礼から5日後に兄に面会した時には、はっとさせられました。兄の顔が輝いているように見えたからです。そこには言葉には言い表せない、聖霊が共におられる神の子とされた栄光がありました。
それは神が私に、神の子となるのは神のことをどれほど理解したかではなく、信じると告白した者は神の子であると言われているようにも感じられました。私は兄は確かに救われたのだと確信しました。
4、主と同じかたちに
人がただ主に向くならば、鏡のように主の栄光を映し、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。今年度の茂原教会の標語は「神のかたちに生きる」です。主と同じかたちに変えられるとは、どのようなことでしょうか。かたちとは外見の意味もありますが、性質等の意味もあります。
一つの例として、殉教するステファノは、使徒言行録7:59で、「私の霊をお受けください」と言い、7:60で、「この罪を彼らに負わせないでください」と言いました。これは主イエスがルカ23:34、46で言われた通りの言葉です。
勿論、それは主イエスの言葉を知っていたステファノが真似して言ったとも考えられます。しかし知っていたとしても、石打に遭うという壮絶な状況で他人の台詞を真似して言うことなど出来るものでしょうか。これは主の霊の働きによります。
私たちは表面的に主と同じ台詞を言って、行動をしようとしても出来るものではありません。しかしただ人が主に向くならば、主の霊の働きによって主と同じかたちに変えられていき、鏡のように主の栄光を映して、同じ台詞、同じ行動をする者へと変えられていきます。
そしてそれは決して窮屈なことではなくて自由があります。主の霊の働きによって鏡のように主の栄光を映して歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは自分で何かをすることは出来ませんが、ただ主に向くならば、主の霊の働きによって、主と同じかたちに変えられていき、鏡のように主の栄光を映すものとされると約束してくださいますから有難うございます。
いつも心を主に向けて恵みの福音に生きる者とさせてください、そしてこの福音を伝える者としてお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。