「キリストの愛」
2021年7月4日説教
コリントの信徒への手紙二 5章11~15節
主の御名を賛美します。昨日は所用があって、午前に一宮川を車で渡ったところ、水はかなり一杯になってはいましたが、大丈夫そうな感じでした。皆さんの家などには被害はありませんでしたでしょうか。もし何かありましたらお知らせください。また被害に遭われた方々や関係者の方々に慰めがありますようにお祈りして致します。
1、主を畏れる
私たちは主なる神を畏れることを知っています。どういう意味で畏れるのでしょうか。主は全知全能のお方ですから、私たちが他の人には気付かれないでしていることや、他の人の目には見えない隠れた所でしたことも全てご存じです。
そしてそれらのことも含めて10節にありましたように、来る日に、クリスチャンもクリスチャンでない人も全ての人が、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、行った仕業に応じて報いを受けることになりますので、やはり主を畏れます。
主イエスを救い主と信じる全てのクリスチャンは罪を赦されて天国には入りますが、体を住みかとしていたこの世での仕業に応じた報いは受けます。そのことを知っている人は主を畏れます。こういうわけで、パウロたちはコリント教会員を含む人々の説得に努めます。
こういうわけというのは、報いを受けるからですが、そのために説得に努める理由は二つ考えられます。一つ目は手紙一の15:12にありましたように、コリント教会員の中に死者の復活などない、と言っている者がいるからです。これはギリシャの地域的な考え方の影響もあります。
復活がないという考えは、同じく手紙一の15:32の「食べたり飲んだりしよう、どうせ明日は死ぬのだから」といった放縦な生活に繋がって、報いを受けることになってしまいます。ですからそうはならないように説得に努めます。
もう一つのこととして、パウロたちのことは、全知全能の神の前には明らかにされています。明らかにされていることは、パウロたちは見えるものではなく、見えないものに目を注いで、ひたすら主に喜ばれる者であろうとしていることです。
しかしそのパウロたちのことは、あなたがたであるコリント教会員の良心には明らかになっていません。どうして明らかになっていないのでしょうか。大きな理由は11:13にある偽使徒の存在です。
偽使徒は3:1にありましたように、自分たちはコリント教会に対して、エルサレムの教会からの推薦状を持って来てそれを誇る一方で、パウロにも推薦状を見せるように要求した方が良いのではないかといった様な入れ知恵をしたりと、パウロに反対してパウロを貶めようとする影響を受けているからです。
パウロがコリント教会員の説得に努める二つ目の理由は、コリント教会員の良心にパウロたちのことが明らかになることを望んでいるからです。それは別に、自己推薦をしようとするのではありません。ただ、内面ではなく外面を誇る者たちに向かって、パウロたちのことを誇る機会をコリント教会に提供しようとしています。
内面ではなく外面を誇る者たちというのは、先程の11:13の偽使徒や偽教師等です。これらの人たちは、パウロたちが見えないものである内面に目を注ぐのとは反対に、見えるものである外面に目を注ぎます。外面の見た目は一見、立派に見えますが、内面は貧しい限りです。なぜでしょうか。
パウロたち、本当のクリスチャンは自分自身である外面は土の器であることを認めますが、内面に納められている宝である主イエスを現わそうとします。しかし外面を誇る者たちは器の外面は綺麗にしていますが、内面はそうではありません。
これはマタイ23:27で主イエスが、「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」と言われた通りです。
そこでパウロは、コリント教会員がそのような外面を誇る者に惑わされないで、パウロたちを誇る機会を提供しようとしています。そうでないとコリント教会員は悪い方向に惑わされてしまって、その挙句に行ってしまう悪の報いを受けることになってしまうからです。
2、外面を誇る者
残念ながら内面ではなく外面を誇る者というのはいつの時代にもいると言いますか、誰でもそのような部分を持っているものです。そしてさらに事態をややこしくしているのは、外面を誇る者は自分が御心とは、ずれていることをしているという意識がないばかりか、返って自分は正しいことをしていると思い込んでいることです。
時代劇に出て来るお約束の場面として、悪代官と悪徳商人である越後屋は悪い企みをしますが、彼らは自分たちが悪いことをしているという意識はあります。なぜかというと、悪代官は越後屋に向かって、「越後屋、お主も悪じゃのう」と言っているからです。
しかし律法学者とファリサイ派の人々はそうではありません。自分たちの考え方は律法に照らし合わせて正しいと思い込んでいます。自分たちは正しいと思い込んで御心とは正反対のことを行っています。このようなことは現代でも起こることです。
決まりを守ろうとする一見、几帳面な人が、決まりに縛られ過ぎてしまって、本来の決まりの精神である良いことをする方向からずれてしまうことです。律法学者とファリサイ派の人々が大切にしていた律法の重要なことはマタイ22:37~39にありますように、神を愛し隣人を愛することです。
神を愛し敬い、隣人を愛して守るためにある律法を用いて、律法学者とファリサイ派の人々は神をないがしろにして、隣人を裁いていました。神の聖なる律法は、御心に従って神を愛し隣人を愛するためのものであって、神をないがしろにして、隣人を裁くためのものではありません。しかしこれは律法に限ったことではなくて、現代の決まり等でもそうですが、用いる人によってどのようにもなってしまうものです。現代においても、例えば教会の決まり等の内面を大切にして、神を愛し隣人を愛することも出来ますし、逆に決まりの外面だけを用いて、神をないがしろにして隣人を裁くことも出来ます。
どうなるかは人がその決まりをどの様に用いるに掛かって来ます。パウロ自身がかつてはファリサイ派として自分たちの考えが正しいと信じて、クリスチャンは間違った考えを持った異端だと思って、正義感を持って迫害していました。しかしパウロは主イエスと出会って、主イエスの愛に捕らえられました。そして生き方を大きく変えられました。
パウロは正気ではないと思われたこともありました。使徒言行録26:24で、ユダヤ総督のフェストゥスからは、「パウロ、お前は気が変になっている。学問のし過ぎで、おかしくなったのだ」と言われています。勿論、パウロは正気でしたが、神のために熱心であると周りからはそのように見られることもあります。しかしパウロはコリント教会員に対しては正気と言いますか、いたって冷静に対応しました。それは牧会者として信徒に対する配慮です。
3、キリストの愛
そしてそれはキリストの愛が私たちを捕えて離さないからです。ですからキリストの愛に捕らえられて離されていなければ、内面に納められているキリストを誇る者となります。しかし、キリストの愛から離れていると外面を誇る者となってしまいます。キリストの愛に捕らえられるとはどういうことでしょうか。
キリストの愛は究極的には、十字架で表されました。ですから十字架をどのように考えるかでその人の考えは決まって来ます。キリストというのは救い主という意味ですが、キリストは罪人であるすべての人を救うために、身代わりとなって十字架で死なれました。
それによって、キリストを救い主と信じる人はキリストの義の衣を上に着させていただいて、この世の後に復活させていただき、天国に入れていただきます。それは良かった、目出度し、目出度しで、クリスチャンになった後は自分の好き放題をしていて果たして良いのでしょうか。
キリストを救い主と信じるクリスチャンは、なぜ復活させていただき、永遠の命を与えられるのでしょうか。それは十字架で死なれて三日目に復活されたキリストの命に与かるからです。キリストの命に与かる者は、復活の前に十字架で死なれたキリストの死にも与かります。
3:18にありましたように、クリスチャンは主の霊の働きによって主と同じかたちに変えられていきます。クリスチャンとなる時に洗礼を受けますが、その時に全浸礼で受洗される方は、全身を水の中に沈めますが、これは自分に死ぬことを象徴します。
ですから洗礼を受けたクリスチャンが、キリストの愛に応えて生きるのではなくて、律法学者やファリサイ派の人々の様に、自分の考える正義を主張して生きることは本来は有り得ないことです。しかしその様な自分のために生きるということが、この当時の教会にも起こっていましたし、現代の教会でも起こることです。それは洗礼で死んだはずの自我が甦って生きている姿でゾンビの様なものです。40年近く前に、マイケルジャクソンのスリラーという曲のミュージック・ビデオで、ゾンビが踊っているものがありました。スリラーはエンターテイメントとしては良いのですが、教会でクリスチャンが自分の考える正義に拘るのはスリラーの世界であって、相応しくありません。
クリスチャンはスリラーの世界に生きる者ではありません。クリスチャンは、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方であるキリストのために生きます。キリストのために生きるとはどういうことでしょうか。
キリストは死なれただけではなく、復活されました。その方のために生きるということは、これまでの生き方とは違う、復活の新しい命に生きることです。四重の福音の新生です。そしてキリストのために生きるとは、キリストが私たちに求める生き方、またキリストが生きた生き方をすることです。
主イエスはヨハネ13:34で、「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われました。主イエスは罪人と呼ばれる人たちを裁くのではなくて愛し、ペテロがご自分を裏切られても赦して愛されました。
パウロも同じように手紙一の13:13で、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です」と愛を強調しています。主イエスもパウロも愛し合いなさいと言われているのであって、自分の考える正義を主張して拘って、隣人を裁きなさいとは言っておられません。
もし私たちが何かをする時に、3:16にあったように、ただ主に向いているならば、キリストの愛が私たちを捕えて離しませんので、聖霊の力によって、キリストが罪人である私たちを愛してくださったのと同じ愛に基づいた行動に変わって行きます。
キリストの愛に捕らえられて離されないのが、私たち人間に取って本当の意味で、一番自由で、自分らしく、生き生きと生きられて、平安と喜びに満たされる生き方です。私たち人間は誰かに愛されなければ満たされることのない存在です。
何があっても決して私たちを見捨てられることなく、私たちを捕らえて離さないキリストの愛を感謝して、キリストのために生きる者とさせていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。キリストは私たち罪人を愛して、私たちの身代わりとして死んでくださり、復活されて私たちに新しい命を与えてくださいます。私たちがキリストの愛の中で自分に死んで、神を愛し、隣人を愛して生きる者とさせてください。
また昨日の大雨により大きな被害が出ました。今、苦しみの中におられる方々に慰めと助けが与えられますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。