「神の恵み」

2021年8月15日説教  
コリントの信徒への手紙二 7章13b節~8章6節

        

主の御名を賛美します。「受けるよりは与えるほうが幸いである」という言葉が使徒言行録20:35にとあります。しかし損得勘定で考えれば、明らかに「与えるよりは受けるほうが得」です。聖書のいう「受けるよりは与えるほうが幸いである」とはどういうことなのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、喜び

偽使徒の口車に乗せられたコリント教会は、パウロは不正を働いていると言って受け入れず、パウロは自分で開拓したコリント教会から悲しい思いをさせられました。そしてパウロはコリント教会のためを思って、コリント教会宛てに厳しい内容の、涙の手紙を書いてコリント教会も悲しい思いをしました。

しかしコリント教会の悲しみは神の御心に適った悲しみであって、悔い改めてパウロへの信頼を回復して、それによってパウロは慰めを受けました。パウロたちはコリント教会からの信頼の回復による慰めに、テトスの喜びが加わって、いっそう喜びました。

テトスの喜びというのは、テトスの心がコリント教会一同のお陰で元気づけられたことです。具体的にどのように元気づけられたのかと言いますと、テトスの説得によって、コリント教会がパウロを慕い、嘆き悲しみ、熱心になったことによってです(7:7)。

テトスはその目的のために遣わされましたので、自分の役割を果たして元気づけられました。パウロはテトスをコリント教会に送る前から、コリント教会のことを誇っていました。確かに1:14では「コリント教会が私たちの誇り」と言い、7:4でも「コリント教会のことを大いに誇っています」。

そして、パウロはそのことで恥をかかずに済みました。手紙一から続けて読むと、コリント教会は問題だらけです。そこでまずテモテを遣わしましたが上手く行きませんでした。状況的に考えれば、テトスを遣わして果たして上手く行くかどうかは微妙なところだったと思います。

パウロにとってテトスをコリント教会に送る前に、コリント教会を誇ることは一か八かの掛けだったのでしょうか。パウロは何を根拠にコリント教会を誇っていたのでしょうか。それ程にコリント教会を信頼出来る何かがあったのでしょうか。

パウロが根拠としたのは1:18の「神は真実な方」であることです。パウロはコリント教会にとって、とても厳しい内容も包み隠さず、すべての真実を涙の手紙の中で語りました。神の真実によって立てられた教会は、神の真実によって神が必ず回復させてくださるとパウロは信じて誇っていました。パウロが信頼しているのは真実である神であり、神の真実を誇っていると言えます。

テトスの前でパウロたちが誇ったことの具体的な内容ははっきりと分かりません。しかし、コリント教会にきちんと真実を語れば、パウロたちが不正を働かず、誰をも破滅させず、誰からも貪ったりしていないことは必ず分かって貰えて、コリント教会は必ず正しい方向に戻ると誇っていたと思われます。

そしてその通りに真実となりました。悔い改めたコリント教会は、パウロから遣わされたテトスに一同が従順に、恐れおののいて歓迎しました。コリント教会にとって、テトスが神の使者であるパウロから遣わされたということは、テトスは神によって遣わされました。

テトスは自分を神の使者として認め受け入れてくれたコリント教会に心を寄せています。パウロとコリント教会の間には大きな悲しみがありましたが、今や解決されて、万事につけ信頼できることを喜んでいます。正に「雨降って地固まる」です。

2、神の恵み

これまでパウロは自分の使徒としての説明を行って来ました。それはまた10章から続いて行きます。その間の8、9章はエルサレムの信徒のための献金についてです。これは手紙一の16:1~4に書かれていた内容の続きになります。

この献金についてのことがこの手紙のほぼ中心に書かれていますので、パウロがどれ程にこの献金を大切に考えていたかが分かります。そして献金について書いているのですが、献金という言葉は本文には一度も出て来ないで他の言葉で表現しています。

パウロは、「きょうだいたち」と呼び掛けます。大切なことを語り始める時の呼び掛けです。これはコリント教会との問題が解決されてキリストの一つの体として回復されたから伝えられる内容でもあります。マケドニアの諸教会に与えられた神の恵みを、コリント教会に知らせます。

マケドニアの諸教会というのは、聖書の後ろの「11 パウロの第一次および第二次宣教旅行」の地図にあります、フィリピ、テサロニケ、べレアの諸教会です。これらの教会はパウロの第二次宣教旅行の時に作られた教会です。しかし初めから迫害等の苦しみゆえの激しい試練を受けて、極度の貧しさの中にいました。

しかし彼らは喜びに満ち溢れています。それはパウロが7:4で、神からの慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ち溢れているのと同じです。そして溢れるばかりに豊かな真心を示しました。献金という言葉は出て来ないと言いましたが、ここでは豊かな真心と言います。

そしてパウロは証しすると言います。証しするとは、神の御業を証言することですが、どのような神の御業なのでしょうか。まず彼らの献金の姿勢です。一つは彼らは力に応じて、いや力以上にでした。そしてもう一つは、自ら進んででした。

パウロは彼らの極度の貧しさのために余り献金を勧めなかったのかも知れません。しかし彼らは力以上に自ら進んで、しきりにパウロたちに献金を願い出ました。彼らは献金をどのようなものと考えているのでしょうか。献金は聖なる者たちへの奉仕に加わることと言います。

奉仕と訳されている言葉はコイノニアで、奉仕の意味と共に交わりの意味があります。献金することは聖なる者たちへの奉仕であると共に交わりです。また奉仕に加わる恵みにあずかりたいと願い出ました。献金をすることによって、報いの恵みにあずかるということではなくて、献金の奉仕に加わること自体が恵みです。

神から与えられた恵みを、他の人に与えられることは恵みです。初めにお話しましたように使徒言行録20:35は「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言います。聖書のいう「受けるよりは与えるほうが幸いである」とはどういうことなのでしょうか。

神はこの世の生きているもの全てに必要な空気、水、光、栄養を与えられ、主イエスは信じる者に救い、永遠の命を与えられ、聖霊は求める者に力を与えられます。与えることは神のご性質であり、私たちが無条件で他の人に与えることは神のご性質に与かることであり、主イエスに似た者とされることです。私たちは色々な場面で与えることを経験します。

幼い子どもでも自分より幼い子どもに与えることをします。また色々なグループ、組織、近所等でも初心者等には必要な物を与えたりします。また親は自分の子どもに対しては損得勘定は抜きに与えるものです。それは親としての喜びでもあります。

しかし他人に対して与える思いは心が主に向いていないと難しいものです。ましてや極度の貧しさであったら、受けることは考えても与えることは普通は思いも寄らないことです。ですからマケドニアの諸教会に与えられた思いは、人の思いではなくて、神から与えられた神の恵みであり、神の恵み無しにはこのような思いにはなれません。

それも、パウロたちの期待とは異なり、神の御心に従って、彼らはまず主とパウロたちに自らを献げました。「パウロたちの期待とは異なり」という部分を新改訳では、「パウロたちの期待以上に」と訳しています。パウロたちは彼らがエルサレムの信徒のために熱心だと思ったのかも知れません。

しかし神の御心に従う時には秩序、順番があります。マタイ22:36で、主イエスが律法の専門家から、律法の中でどの戒めが最も重要かと聞かれた時に、第一は、「あなたの神である主を愛しなさい」で、第二が「隣人を自分のように愛しなさい」と言われました。

第一はあくまで主であって、隣人は第二です。第二である隣人が主よりも先に来てしまったら、それは神の御心ではありません。そこで彼らはまず主に自らを献げました。主に自らを献げることを見えるかたちで行うことの一つが献金です。

彼らはまず主に自らを献げて、次の秩序として、主の使者としての務めをして、エルサレムの信徒のための務めを果たしているパウロたちのために自らを献げました。自らを献げるということは、あらゆる場面においてパウロたちに尽くしました。その中には献金も含まれていたことでしょう。

そこにはⅠコリント12章に書かれていた、一人一人のクリスチャンはキリストの体の一つの部分であり、皆一心同体である一体感があります。献金のことを、これまでに他の言葉として、豊かな真心、聖なる者たちへの奉仕、神の御心、自らを献げる、神の恵み、と言って来ました。

3、恵みの勧め

ところでテトスは、この神の恵みの業をコリント教会の間で既に始めたと言います。手紙一の16:1にそのことが書いてありますので、手紙一をコリント教会に持って行った中にテトスがいたと思われます。そしてその恵みの業を始めたからには、やり遂げるようにとテトスに勧めました。

ということはテトスはこの手紙を持ってまたコリント教会に行くのでしょう。テトスはコリント教会にますます心を寄せていますので、今回は喜んで行くことでしょう。コリント教会とパウロたちとの間には誤解による悲しみがありましたが、今や解決されて主にあって一体となりました。

そこでパウロは一体となったコリント教会が、さらに神の恵みにあずかって欲しいと願ったのでしょう。それが1節でいう完全に聖なる者となる歩みです。

今、私たちはコロナウイルスの感染拡大という激しい試練を受けて、色々な制約を受けます。その部分だけを見ていると、心が委縮してしまいそうになります。しかしこのような時でも、いえこのような時だからこそ、喜びに満ち溢れ、溢れるばかりに豊かな真心を示され、神の恵みにあずかる方もおられます。

私たちもかたちは違っても皆、神の恵みにあずかる者でありたいと願います。そのためにはまず聖霊の導きの中で、主に自らを献げましょう。そして御心に従って神の恵みにあずからせていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは他に与えることは神の恵みであると言われますが、それは、この世の価値観とは異なるものです。しかし三位一体の神はあらゆる場面において私たちに与えてくださいますから有難うございます。

あなたの恵みによって救われる者が、あなたに似た者とされてゆく中で、御心に従って与えるという神の恵みを経験し続け、さらに喜びに満ち溢れ歩むことが出来ますようにお導き下さい。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。