「恵みの業」

2021年8月22日説教  
コリントの信徒への手紙二 8章7~15節

        

主の御名を賛美します。世界で一番長い川はアフリカのナイル川で、その長さは約6,700キロで、北海道から沖縄の距離の約3倍です。ナイル川の上流にあるエチオピアという国にグランド・エチオピアン・ルネサンス・ダムというダムが出来まして約1年前から水を貯め始めました。

エチオピアは自分たちの水を貯めるのは自分たちの自由だと言いますが、中流にあるスーダンや下流のエジプトはナイル川の水は皆のもので、エチオピアが勝手に貯めたりしたら堪らないと言います。「貯めるのは堪らないとはこれ如何に」ですが、どのように考えたら良いのでしょうか。関係者の皆に取って良い方向に進むようにと祈りつつ今日の御言を聴かせていただきましょう。

1、恵みの業

前の節でパウロはコリント教会にエルサレムの信徒のための献金をやり遂げるようにと勧めました。それはどのような理由からなのでしょうか。コリント教会は、信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、パウロたちから受ける愛など、すべての点で満ち溢れています。

これは前の手紙一の初めの1:5に、「あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされたからです」とありました。すべての点で満ち溢れて富んでいるというと、「コリント教会は富んでいるのに、とんでもないとはこれ如何に」です。

コリント教会はすべての点で満ち溢れているので、恵みの業にも満ち溢れる者となってくださいとパウロは望みます。先週、献金という言葉は出て来ないと言いましたが、ここでは献金を6節に続いて恵みの業と呼びます。なぜ恵みの業、献金に満ち溢れる者となることを望むのでしょうか。

それは、他の人々の熱心に照らして、コリント教会の愛が本物であるか、確かめたいからです。他の人々の熱心というのは、4節に書かれていたマケドニアの諸教会であるフィリピ、テサロニケ、べレアの諸教会の熱心に照らしてです。

愛が本物であれば、同じ一つのキリストの体で一心同体である、困っている兄弟姉妹を必ず助けるものです。マケドニアの諸教会のように4節の行動に出ます。そのためにパウロはコリント教会にマケドニアの諸教会の話をしました。

神の恵みは先週の内容にありましたように、本質的に与えることです。「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録20:35)。コリント教会はパウロたちから愛を受けていましたので、その愛はコリント教会の中にあるはずです。愛は自主的なものですから、パウロは命令するのではありません。恵みの業は他の人に命令されてするものではありません。

2、富みと貧しさ

ではパウロたちの愛はどこから来ているのでしょうか。それは私たちの主イエス・キリストの恵みからです。主は富んでおられました。主イエスは神のお独り子としての栄光を持って富んでおられました。しかし私たち、全ての人間のために貧しくなられました。

主が貧しくなるとは、私たち人間と同じ姿となられ、神の栄光を放棄されて、十字架にまで付けられること等です。富んでいたのに、貧しくなられたというのは、物質的な意味というよりは霊的な意味です。しかし霊的な意味でも富んでいたのに、貧しくなられたら、富んでいたのが貧しくなった分はどこかに行ったはずです。どこに行ったのでしょうか。

それは主の貧しさ、主が貧しくなられることによって、私たち人間が豊かになり富む者となるためでした。私たちが豊かになるとは、罪を贖っていただき、永遠の命をいただき、祝福を受けることです。パウロたちは主イエスの十字架によって満ち溢れる豊かさを頂きました。

そして頂いたらそれで終わりではなくて、次にその愛を持ってコリント教会を愛しています。受けた者は与える者とされて行きます。コリント教会が満ち溢れて豊かなのは、パウロたちと同じように直接的には主イエスの十字架によって豊かにされ、また間接的にはパウロたちから受ける愛によって豊かにされています。

コリント教会には間接的にパウロたちから、また主イエスから直接に恵みを受けて受ける一方です。ダムでもそうですが、一方通行の流れだけで貯めてばかりいるのは健全ではありません。ダムで貯めてばかりいると下流の方は干上がってしまいます。

そこでパウロはこの恵みの業について意見を述べます。実はコリント教会は昨年以来、自ら願って、このことである、エルサレムの信徒のための献金を始めていました。ですから敢えてパウロが命令する必要もありません。

3、やり遂げる

コリント教会はパウロからエルサレムの信徒のために献金が必要であることを聞いて自ら願って始めていました。しかし途中で止まっていたようです。そのあたりは何となく分かる気がします。コリント教会はパウロから献金の話を聞いて始めたけれど、話を持って来たパウロとの関係が悪くなるとパウロの持って来た話は何となく止まってしまったのでしょう。

私たちも誰かから話を聞いて、それは良いと思って始めても、その話を持ってきた人との関係が悪くなって来ると、あの人の持って来た話かとなって何となくその話は止まってしまいがちです。しかし今や、コリント教会とパウロの関係は回復されました。

そこでパウロは、あなたがたの益になるから、今それをやり遂げなさいと勧めます。パウロは、「やり遂げる」という言葉を、6節、11節で2回と、計3回使って強調して言います。神の御心と信じて言葉にして、自ら自分で始めたことはやり遂げることが御心です。神の言は出来事となるものです。

御心に忠実に仕えてやり遂げることは、仕えた者の益になります。私たちの周りでも何かを始めて、色々な困難があってもやり遂げる人は、神と人から忠実な人であると認められます。また御心に忠実に仕えて、やり遂げることによって神の祝福を受けて成長させていただきます。

4、自分の持っているもので

また心から願ったのですから、自分が持っているものでやり遂げることです、と言いますが、それはなぜなのでしょうか。ここのエルサレムの信徒のための献金で言いますと、献金の出所としては単純化すれば大きく二つが考えられます。一つは自分の持っているものから献金する方法です。

そしてもう一つは、エルサレムの信徒のための献金が必要ですと言って、他の人に出して貰って、自分の持っているものからは出さない方法です。どちらの方法を取ったとしても献金する金額は変わらないかも知れません。

しかし、その熱意があるなら、自分が持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられます。マルコ12:42で、貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を献金箱に入れたことを、主イエスは、この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れたと言われました。絶対的な金額としては決して誰よりもたくさんではありませんでした。

献金で大切なのは金額の多い少ないではなくて、神に受け入れられるかどうかです。そして神に受け入れられるのは、自分が持っているものに応じているかです。それは3節でいう、力に応じてです。マケドニアの諸教会は力以上に行いました。

神が私たちに持っているものに応じてと言われることは、私たちが持っているものは、他の人に与えることが出来る分を神が私たちに与えておられるということです。いや私にはそのような余裕は与えられていないと思われる方もおられるかも知れません。しかし献金はマルコ12:44で主イエスが言われるように、有り余る中から献げるものではなく、多少の痛みを覚えるものなのかも知れません。

献金は献金を受ける他の人々に楽をさせて、献げるコリント教会に苦労をさせようというのではなく、平等にするためです。Ⅰコリント11:21で、コリント教会の愛餐会には、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末でした。

クリスチャンは同じキリストの体ですから、体の一つの部分にだけ栄養が偏っていたら不健康であって体全体に行き廻って循環する必要があります。私もお腹の周りだけに栄養が溜まらないようにしたいと思っています。

5、平等に

そして今この時、コリント教会の余裕がエルサレムの信徒の欠乏を補うなら、いずれエルサレムの信徒の余裕もコリント教会の欠乏を補うことになり、こうして、平等になります。

パウロは平等という言葉を2回使って強調します。ここで余裕と欠乏という言葉が出て来ますが、これが物質的・金銭的な意味と考えますと、今、エルサレムの信徒の欠乏を補うなら、いずれエルサレムの信徒がコリント教会の欠乏を補うことになるということです。

余裕と欠乏が霊的な意味と考えますと、今、エルサレムの信徒の霊的な余裕がコリント教会の霊的な欠乏を補うことになるとも言えます。いずれの場合にも平等になることを求めています。平等になることを、出エジプト16:18を引用して「多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはなかった」と説明します。

この御言はエジプトを脱出したイスラエルが荒れ野にいた時に、神が食べ物としてマナを与えられて、人々が集めた時のことを言っています。旧約の時代は不思議な神の御業によって、多く集めた者も余ることがなく、少なく集めた者も足りないことはありませんでした。

しかし、一人一人に聖霊が与えられる新約の時代にあっては、平等にする方法が変わりました。まず聖霊の導きの中で各自が主イエス・キリストの恵みを深く知ります。御子主イエス・キリストが十字架にまで付けられて貧しくなられて、私たちを救って富む者とさせてくださいます。

この神の恵みに与かった者が富を自分だけで貯め込むことはしません。神の恵みに与かる者は、その富を他に与える恵みの業に、自分が持っているもので行いたいという思いが与えられます。そこには恵みの業のリレーが起こって行きます。そして恵みの業によって平等になって行きます。

主によって豊かにされた者が他に与える恵みの業を通して平等になることを、主はお望みです。主イエス・キリストの恵みは既に2千年前に行われて現在も提供されています。この恵みの意味を聖霊によって正しく知らせていただきましょう。そしてこの恵みに与からせていただきましょう。

そして既に主イエス・キリストの恵みを知っている者は、聖霊の力によって恵みの業を始めて、やり遂げさせていただきましょう。そこに主の望まれる平等が実現します。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちが自分で持っていると思うものは全て神の恵みによって管理を任されているのであって、自分の命を含めて自分自身のものは何一つありません。そして主イエス・キリストの恵みによって、罪を赦され永遠の命を与えられるものです。

私たちにこの神の恵みを感謝して受け取らせてください。そして神の恵みを受け取る者が、バトンを受け取った者として、喜びに満ち溢れて、他の人に与える恵みの業に用いられ、あなたの力によってやり遂げる者とさせてください。そしてあなたの望まれる平等を実現させてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。