「主の祝福」

2022年1月23日説教  
申命記 2章1~8a節

主の御名を賛美します。コロナウイルスのオミクロン株による感染拡大が急激に広がっています。重症化率は低いと言われていますが、やはり不安になるものです。本当にこの世は荒れ野であるとつくづくと思わされます。この様なこの世の荒れ野の生活に何か意味があるのなら、それはどの様なことなのでしょうか。御言を聴かせていただきましょう。

1、向きを変える

イスラエルの人々はカデシュ・バルネアから約束の地へ上って行けという主の命令に逆らって失敗しました。今日の「それから」は、1:45で失敗した後の続きで、この時から38年前のことを振り返っています。初めは主の命令に逆らって上って行かず、次は主の命令に逆らって軽々しく登って行って、失敗を繰り返して泣いた後です。

流石に悔い改めたイスラエルは、40節で主がモーセに語られたように、向きを変えて出発しました。1~8節には、「向きを変える」という言葉が3回使われて強調されています。主は私たちに今まで歩んで来たのとは違う方向に、向きを変えることを命じられることがあります。

その時に自分の思いではなくて、主の言葉に素直に従う者でありたいものです。イスラエルは向きを変えて出発し、葦の海の道を通って荒れ野へと進みました。セイルの山地を長い間歩き回りました、38年です。遠回りですがイスラエルにとっては必要な年月でした。

その後に主はモーセに言われました。「あなたがたはこの山地をもう十分に歩き回った。」 それはカデシュ・バルネアで主の命令に逆らった人々がいなくなりました。いずれにしても主の時が満ちました。主は時が満ちるとまた命じられます。「向きを北に変えなさい。」 向きを変えて新しいステージに向かって行きます。

2、エサウの子孫

向きを変えて新しいステージに行くとまた新しい課題に直面します。北に向かって進むイスラエルはセイルに住む兄エサウの子孫の領土を通ることになります。イスラエルは双子の兄弟である兄エサウと弟ヤコブの、弟ヤコブの子孫です。

セイルは、「毛深い」(樹木が茂った)という意味ですが、エサウが毛深かったことに関わるようです。聖書協会共同訳の聖書の地図2ではエドムと書かれていますが、エドムは、「赤、赤いもの」という意味でエサウが赤かったことに基づきます。この道は民数記20:17で「王の道」と呼ばれる大きな道で有名な通商路です。

兄エサウの子孫はイスラエルを恐れていると言います。なぜ恐れているのでしょうか。エジプトに行った弟のヤコブの子孫であるイスラエルの人数は僅かでしたが、今や二十歳以上の男子だけで60万人いますので巨大な民族です。神に祝福された民族としてのイスラエルをエサウの子孫は恐れています。

何をしても上手く行く人は周りから見ると恐ろしい存在かも知れません。そこで「くれぐれも気をつけなさい」と言います。イスラエルには例え攻撃をしようという気はなかったにしても、不用意な言動等があると、恐れている人は妄想によって怯えて、自分たちは滅ぼされてしまうと思い込んでしまうかも知れません。

恐れている人は妄想によって、妄想と現実がごちゃ混ぜになって普通では考えられないような攻撃的な言動をとることがあります。そしてその結果、「窮鼠猫を噛む」的な突然の攻撃が起こることがあります。恐れている人に対しては「くれぐれも気をつけ」て、誤解を招かないように細心の注意を払う必要があります。

そして、「彼らと戦ってはならない」と注意します。新改訳は、「彼らに戦いを仕掛けてはならない」と訳しています。例えエサウの子孫が攻撃的な言動をしても、見くびって自分から戦いを仕掛けてはなりません。

その理由は、主は、エサウの子孫の土地を、足の裏で踏むほども、全くイスラエルに与えることはないからです。セイルの山地は領地としてエサウに与えたからです。エサウも神が祝福の約束をされた、アブラハム、イサクの子孫です。

主はすべての人に恵みを与え、それぞれの人には主から与えられたそれぞれの領分があります。私たちは神から恵みによって自分に与えられている領分を感謝する必要があります。それは同時に神が他の人にも恵みとして与えている領分を尊重する必要があります。

マタイ22:39で主イエスが言われた律法の第二の重要な戒めは、「隣人を自分のように愛しなさい」です。自分に与えられている領分を超えて欲しがることは、十戒が禁じている貪ることです。神の御心に従って、向きを変えて出発する者は、神を愛し、隣人を愛しますので貪って他の人のものを奪うことはしません。

そうは言っても、イスラエルも生きて行くためには食べ物と水が必要です。そこで、「食べ物はエサウの子孫から銀で買って食べ、水も銀で買って飲まなければならない」と命じます。自分たちが必要とするものに対しては、その代価をきちんと払って礼儀を尽くします。

3、主の祝福

それは正論で理屈では分かってもイスラエルの人々にも不安はあることでしょう。イスラエルは全員で少なくとも2百万人はいると思われ、その人数分の食べ物と水の代価を払ったら莫大な金額になります。自分たちは果たしてこれからも食べて行けるのだろうかと不安になることでしょう。

そしてその不安はこの時のイスラエルだけではなくて、現代の荒れ野を生きる私たちも抱える不安でもあります。私たちには将来のことは分かりませんので、自分たちは将来も果たして食べて行けるのだろうか、また私たちは将来どうなるのだろうかとぼんやりとした不安を覚えることがあります。

その時に私たちが覚えておく御言葉は、ここのところ何度かお話していますが、創世記16:8で、主がサラの女奴隷ハガルに尋ねた、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」です。今、自分が何をして、将来にどうするかについて考える時には、必ず過去を振り返る必要があります。

現在は過去の延長線上にありますので、過去を振り返ることによって、自分が今どこにいるのかが分かります。そして将来もその延長線上にありますので、そのまま進むとどうなるのかという将来も見えて来ます。

そこでモーセは過去を振り返って、「あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福し、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださった。この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられ、あなたは何一つ不自由しなかった。」と言います。

神の民とされたイスラエルには主と共に歩んだ過去の四十年間の実績があります。そうであるなら、その過去の実績は将来もそのまま続いて行くことが分かります。それは現代を生きる神の民とされる私たちに対しても同じことです。ここで4つのことがあったと言っています。

一つ目は、主はあなたの手の業すべてを祝福してくださいました。主の祝福は周囲の人々がイスラエルを恐れる程の大きな祝福です。二つ目は、この広大な荒れ野の旅路を見守ってくださり、三つ目は、あなたの神、主はあなたと共におられました。

その神の臨在は、夜は火、昼は雲によって示されて、進むべき道を示し見守ってくださいました。神の臨在を示す火と雲は現代では内住のキリストであり聖霊です。四つ目は、何一つ不自由しませんでした。食べ物であるマナもうずらの肉も水も神によって与えられました。

そうであるならエサウの子孫に食べ物や水の代価を払うことに不安になる必要はありません。イスラエルの人々はそのような多くの祝福を過去に受けていながら、不安になると主の祝福を直ぐに忘れてしまいます。しかしそれは現代の私たちも同じです。

私たちはいつも創世記16:8の、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」の御言を思い起こして、いつも神の4つの祝福を覚えて歩みたいものです。私たちがこの世という荒れ野を歩む目的は、この4つの祝福を体験して神に信頼することを覚えるためです。

私たちがこの世の歩みを終える時に、もし4つの祝福を覚えて神に信頼することを学んでいないなら、この世の苦労はただ苦しいだけの空しいものです。

4、戦わずして勝つ

さてイスラエルは実際にはエサウの子孫とどの様に関わったのでしょうか。イスラエルは主の命令通りにエサウに、水などの代価を払い通るだけと伝えました。しかし民数記20:20で、「エサウは多くの民と強い軍勢を率いて、イスラエルを迎え撃とうと出て来ました。」恐れている人は攻撃的になります。

しかしイスラエルは主の命令通りにエサウと戦わないで迂回しました。イスラエルも荒れ野の38年で成長して主の命令に従うようになりました。そして2:28、29によるとエサウの子孫の中にもイスラエルに食べ物や水を売ってくれた人もいたようです。必要は備えられています。

「戦わずして勝つ」という言葉があります。何においても戦いが起こると必ず双方に被害が生じます。本当の勝利とは主の言葉に従って戦うこと自体を避けることです。ましてやエサウの子孫はイスラエルの親戚であって、戦う相手ではありません。

私たちもこの世の生活において、兄弟、家族、親戚等の間で、遺産、不動産、高齢者の世話等、色々な問題が生じることがあります。そして色々と不安の中にいる人は、この世の利害で妄想的になったり、攻撃的になることも有ります。

しかし神を信じる者はこの世の利害のために戦うことはしません。それは私たちはどんな荒れ野に行っても、主がすべてを祝福し、旅路を見守り、共におられ、何一つ不自由しないことを知っているからです。

創世記13章でアブラハムが甥のロトと別れる時に、アブラハムはロトに好きな方を選ばせて、潤って豊かに見えたヨルダンの低地一帯をロトに譲りました。しかし主はアブラハムを祝福されました。こうして、イスラエルはセイルに住む兄エサウの子孫のもとを去り、アラバの道、エイラトとエツヨン・ゲベルを離れました。

私たちも不毛な戦いは避けて本当の勝利を得ましょう。主を信じる者はどこへ行っても主が祝福してくださいます。主の祝福を信じて、主が示される方向に向きを変えて出発し、約束の地を目指して歩んでまいりましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルの民はセイルの山地を長い間歩き回り、4つの主の祝福を体験しました。私たちもこの世の荒れ野を長い間歩き回り、あなたから4つの祝福を受ける者です。私たちが内住のキリストによってあなたの祝福を覚えて、あなたへ揺るぎない信頼を持てるように強めてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。