「よく聞く」

2022年1月2日説教  
申命記 1章9~18節

主の御名を賛美します。岸田総理は聞く力ということを強調していました。人間はどちらかというと他人の話を聞くよりも自分の話をする方が好きなようで、話をしている方が楽しそうにしています。良く言われることに口は一つであるのに対して耳は二つあるのは、一つ話したら二つ聞くためだと言われます。聞くとはどういうことなのか御言葉に聴かせていただきましょう。

1、組織作り

神がホレブ(シナイ山)でイスラエルに、与えると誓われた地を占領しなさいと命じられたその時に、モーセは人々に言いました。「私一人では、あなたがたを負いきれない」。「負う」というのは、担う、運ぶという意味です。

それはなぜかと言うと、「あなたがたの神、主が、あなたがたを増やされたので、今やあなたがたは空の星のように多くなった」からです。そしてこれは、あなたがたの先祖の神、主が、かつて約束された通りです。確かに創世記15:5で、主はアブラハムにあなたの子孫は星の数のようになると言われました。

具体的にどの位の人数だったのでしょうか。民数記26:51で、土地を分配するために20歳以上の男子の数を数えた時に約60万人でした。女性や子どもを含めたら少なくとも二百万人はいたと考えられます。日本を含めた多くの先進国では今人口が減って行っています。

人口が減って行くと国の力も落ちて行きますので、イスラエルの人口増は大きな恵みであり祝福です。モーセは、「主が約束されたように、さらに千倍も増やし、祝福してくださるように」と祈ります。

人口増は大きな祝福ですが、モーセは、「だが、どうして私一人で、あなたがたの重荷(悩み)や、もめ事、争い事を負えようか」と問います。少なくとも二百万人もいて、そして荒れ野にいて、さらに直ぐに不平を言うイスラエルですから、色々な重荷や、もめ事、争い事があったことでしょう。

出エジプト記18:13は、「モーセは座について民を裁いたが、民は朝から晩までモーセのそばで立って待っていた」と言います。確かに二百万人の問題を一人で裁いていたら当然そのようなことになってしまうでしょう。

そしてその様子を見ていたモーセのしゅうとのエトロが組織造りをして役割分担をすることをモーセに提案しましたが、それは民数記に書かれているのでここでは省略されて、モーセの語った言葉だけが記されています。

モーセはエトロのアドバイスに従って、「あなたがたは部族ごとに、知恵と悟りと知識のある人を選び出しなさい。私はその人たちをあなたがたの頭としよう」と提案します。いつの時代にも、重荷、もめ事、争いがあります。そしてそれらを解決するには、知恵と悟りと知識が必要です。「知恵」という言葉には「賢い」という意味もあり、「悟り」には「聡明な、判断力がある」、「知識」には「物知り、経験に富む」という意味があります。これらは神が与えられる賜物です。そしてこれらの賜物を与えられている人たちを自分たちが選び出す必要があります。

自分たちが選び出すことによって、選ばれた人たちに権限を委託して自分たちは従うことになりますので、自分たちで選ぶことが大切です。自分たちで選びながら従わないというのはとても不誠実な行いです。人々が自分たちで選び出した人たちをモーセが神の任命として頭とします。

モーセの提案に対して人々は、「それは良い提案です」と答えました。役割分担を担って、権限を与えられることは人々にとっても悪い話ではありません。そこでモーセは、イスラエルの部族の頭で、知恵と知識のある人たちを選び、その人たちをイスラエルの頭としました。

組織として千人隊の長、百人隊の長、五十人隊の長、十人隊の長、またイスラエルの部族の役人としました。そして、その時、モーセはこれらの長を裁判の裁き人に命じました。これらの長は裁き人だけではなくて、軍事的な場面でも同じ組織で対応していたようです。いずれの場面でも、自分たちで選び出して任命される長に従って、組織の秩序を守ることが大切です。

2、よく聞く

それぞれの長の下に付く者は従うことが大切で、特に軍事的な組織では統率をとるために上からの命令は絶対に聞く必要があります。しかし同時にモーセはそれぞれの長である裁き人に命じました。それは、「同胞の間に入ってよく聞きなさい」です。ここでは「聞く」という言葉が3回使われて強調されています。

ユダヤ人が毎日朝夕に祈る祈りは、6:4の「聞け、イスラエルよ」から始まる御言葉で、何よりも大切なのはまず聞くことです。パウロもローマ10:17で、「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によって起こる」と言います。

聞くことは全ての始まりであり、知恵と悟りと知識のある人はよく聞きます。まずよく聞かないと真実が分かりません。そして真実が分からないと正しく判断することが出来ません。それとは反対に箴言18:13は、「よく聞きもせずに言葉を返す 無知も恥辱もこういう者のこと」と言います。

無知とは聞くことをしないで、自分は分かっているという思い込みで進めて行って恥辱を受ける者のことです。もめ事や争い事の多くは、よく聞くことをしないで、ただ自分の思い込みで、自分の考えだけを言っているところに起こるものです。

そしてよく聞くことは、「同胞の間に入って」です。「同胞の間に入ってよく聞く」を新改訳は、「同胞相互の言い分をよく聞く」と訳しています。箴言18:17は「最初に訴えを起こす者は正しく見えるが 隣人が来てそれを尋問する」と言います。

何か問題がある時に、当事者の一方だけから聞くだけでは真実は分からないものです。すべての関係当事者から、直接によく聞くことが大切です。直接に聞かないで、また聞きですと誤解を生む元になります。他の人の話を聞かない人と話をするのは、そもそも会話が成立しませんのでとても大変なことです。

3、裁き

そして裁きについては、同胞とのことであれ、寄留者とのことであれ、それぞれの間を正しく裁きます。そんなことは当たり前のことだとも思われるかも知れません。しかし日本を含めた先進国と言われる国の中でも、同胞と言われる同国人同士の間でも、また寄留者である外国人との間でも、本当に正しく裁判は行われているのでしょうか。

「裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい」と言います。日本に来て色々な苦労している外国人がいます。本当にその様な方々に偏らずに等しく耳を傾けているでしょうか。

「また小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい」と言われますが、「忖度」という言葉が流行りましたが、何か問題があった時に権力の座にある人に忖度していることは本当に無いのでしょうか。逆に言うと、なぜ裁判において偏りがあり、等しく耳を傾けないのでしょうか。

一度、組織が出来上がると、組織を守ろうとする力が働きます。これは決して悪い動機ではなく、良い働きにもなります。しかしそれは時に、組織の目先だけの損得のために偏りを生むことに繋がります。組織の目先の損得のために正義を無視して不正を行うのは悪いことです。

また権力の座にある者に対して不利な裁きをすれば、自分が不利益を被ることを恐れる心理が働きます。その結果権力の座にある者に対して忖度して偏りが生まれますが、それも悪いことです。その様な裁きは組織や個人のためのものとなってしまいます。

しかし裁きの座に人を任命するのは神ですので、裁きは神のものです。裁きはただ神の御心だけに従って行います。「誰をも恐れてはならない」は、直訳すると新改訳の、「人を恐れてはならない」です。「人を恐れてはならない」ということは、人を恐れて偏るのではなくて、神を恐れて偏らないということです。

しかし、あなたがたの手に負えない事柄は、私のところに持って来なさい、と言います。「手に負えない」は難しいという意味です。手に負えない、難しいというのは、単純にその問題が難しくて、裁くのが難しいと考えられますが、少し違う意味にも考えられます。

十人隊の長、五十人隊の長等は自分が良く知っている身近な人たちを裁くことがあると考えられます。身近であるからこそ、色々な事情が分かる利点があるかも知れませんが、それはまた身近であるからこそ、色々なしがらみに縛られ易くなることも考えられます。その様な意味では、何のしがらみも無い全くの他人の方が裁き易い部分もあります。

1999年に日産が赤字になった時にルノーと資本提携をして、カルロス・ゴーンが日産を回復させました。ゴーンは経営能力が優れていた部分もあると思いますが、ゴーンはそれまでのしがらみが無いので、長年の取引先との取引をすっぱりと止めたり、リストラ等のコスト削減を大胆に行えたこともあったようです。

モーセは、「手に負えない事柄は私がそれを聞こう」と言います。モーセもやはり、よく聞きます。誰から聞くのかといいますと、まず関係当事者からよく聞いて、それから神からよく聞きます。そうして、モーセはその時、人々が行うべきことについて神から聞いたことをすべて命じます。

主イエスは福音書で、ご自分が話されるよりも、まず人々に話しかけられて、人々の話をよく聞かれてから導きを行っています。主イエスは全能の神ですから何も聞かなくても全てご存じのはずです。しかしよく聞くというのは話し手の心理として自分の話を聞いて貰ったという満足感と、話し手は自分で話すことによって自分に気付きが与えられて考えが整理されることもあります。

日本でも、「話し上手は聞き上手」と言います。まず相手の話を聞いて理解した上で話すと、相手も自分の話を聞いて理解してくれます。ただよく聞くと言っても、自分の考えと違う人の話を聞くのは難しい部分もあり、知恵と悟りと知識が必要です。

知恵と悟りと知識は神からの賜物ですが、どのようにしたら賜るのでしょうか。知恵と悟りと知識については聖書に多く書かれていますが一つだけご紹介します。

ヨブ記28:28を新改訳は、「主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」と言います。主を恐れることが知恵であり、悪から遠ざかって実際に行動に移すことが悟りです。そこには主イエスの十字架による罪の赦しと聖霊による力が働きます。

知恵と悟りと知識によってよく聞くことによって、重荷、もめ事、争い事は解決へと導かれます。それは自分のためだけではなくて、すべての人のためです。聖霊の働きによって私たちがまずよく聞く者とさせていただきましょう。そしてよく聞く者として問題の解決のために用いていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、「よく聞きなさい」と言われます。理屈では分かっていても、私たちは何と聞くのに遅い者でしょうか。とても人の思いで出来ることではありません。主を恐れ、悪から遠ざかり、知恵と悟りを得させてください。そして主にある平安と喜びの歩みをさせていただけますようお祈り致します。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。