「幸せにするため」

2022年10月9日説教  
申命記 8章11~20節

        

主の御名を賛美します。

1、主を忘れないように

イスラエルはこれから神の約束の地であるカナンに導き入れられます。しかしモーセは約束の地には行くことが出来ないので、同じような内容を深めつつ遺言のようにイスラエルに語っています。今日は4つの命令がありますが、一つ目の命令は、「あなたの神、主を忘れないようにあなたは注意しなさい」です。

「主を忘れるな」は14節の終り、19節の初めでも繰り返されていますので、8章の小見出しにありますように、「主を忘れるな」が今日の個所の全体のテーマです。一つ目の命令の、「主を忘れないように注意し」と言われても、注意しても忘れてしまいそうですが、具体的にはどうすることなのでしょうか。

それが二つ目の命令の、「今日あなたに命じる戒めと法と掟とを守りなさい」です。主を忘れないとは主の戒めと法と掟である律法を守ることです。今日は4つの命令がありますが、後の3つの命令は1つ目の命令の一部、説明と言えます。また戒めと法と掟は、昔にモーセが主から聞いてイスラエルに語った過去のことと思うのではなくて、今日、今、自分自身がこの場で命じられているものとして聞いて守ることが大切です。

これからイスラエルが導き入れられる神の約束の地は、7~9節にあるように、良い地で水も食物も地下資源も豊富です。その豊かな地に行くイスラエルにはこれからどのようなことが起こるのでしょうか。食物が豊富ですから食べて満足します。これまでは限られた食物しかなかったイスラエルが食べて満足することは念願の夢のようなことでしょう。現代の私たちにとっても食べて満足することは大きな喜びです。

また立派な家を建てて住みます。これまでは天幕の移動式のテントのような生活でしたので、これも嬉しいことでしょう。私は自分の家を建てたことがないので良く分かりませんが、現代でも自分の家を建てて住むことは大きな喜びと満足でしょう。牛や羊が増えることは財産が増えることで、銀や金が増すことは資産が増すことです。

そして、「あなたのあらゆる持ち物が増えるとき」と言いますから、主の祝福によってそのような時が来るということです。人によって程度の違いはあるかも知れませんが、誰でもこのようなある程度は順調なときがあると思います。人生の上り坂のときです。そのような順調なときに人はどうなるのでしょうか。心が驕ります。新改訳は、「心が高ぶる」と訳します。

私たちは順調なときは、何の根拠もなく心が驕って、「私ってすごい」と思ってしまいがちです。そのときに私たちが忘れないようにするべき2つのことがあります。1つ目は、エジプトの地、奴隷の家から導き出された神、主です。

このことは現代の私たちにとっては罪の象徴であり、罪の奴隷の家であるエジプトから救ってくださった主です。これは四重の福音の新生のことです。新しく生まれ変わって永遠の命が与えられることです。2つ目は、40年の間の荒れ野での3つの訓練の結果です。第1は、主は炎の蛇とさそりのいる荒れ野をイスラエルに進ませました。炎の蛇というのは民数記21:6に出て来る蛇で、嚙まれると毒で炎のように熱く感じる意味のようです。しかし主に従っている限りは、イスラエルは何も問題はありませんでした。現代の人生の荒れ野にも炎の蛇とさそりのような危険なものがいますが、私たちはそこを進んで行きます。

第2は、水のない乾いた広大で恐ろしい荒れ野を進ませ、あなたのために硬い岩から水を湧き出させました。第3は、あなたの先祖も知らなかったマナを荒れ野で食べさせてくださりました。荒れ野でのこの3つの訓練は、人間の常識では考え難い、とても難しい訓練でした。

これは人間の常識ではとても難しい状況でも、神は必要なものは与えてくださるということを実際の体験を通して学ぶためです。これは人間の力に頼って生きるのではなく、神を信頼して生きるための訓練です。これは四重の福音の聖化のための訓練です。

2、幸せにするため

それは、あなたを苦しめ、試みても、最後には、あなたを幸せにするためでした。私たちは神を信じてクリスチャンになると、神が守ってくださるのだから、きっと幸せになれると期待します。それは正しい期待であり、実際に神は守ってくださいます。

ただ神は私たちをより深く幸せにするために、時に苦しみや試みを通して訓練をされることがあります。それは人間の親子でも同じで、親はひたすら子どもの幸せを願って、あらゆることをしますが、子どもの本当の幸せを考えるときに、過保護にはしません。

それは自立して一人前になるには、ある程度の訓練が必要だからです。ただ訓練をすること自体が目的ではなく、幸せにすることが目的です。そのような辛い訓練を経て、やっと祝福を得て満たされるときにこそ、細心の注意が必要です。

上り坂の先には真坂という坂が待っています。この真坂で失敗をしないために、様々な苦しみや試みの訓練がありました。そこで三つ目の命令として、「あなたは自分の強さと手の力で、この富を生み出したと考えてはならない」です。ではどのように考えればよいのでしょうか。

そこで4つ目の命令として、「むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい」と命じます。「思い起こしなさい」は、7:18、8:2で繰り返されている大切な御言です。7:18は主があなたの敵に行われたことを思い起こすことで、8:2では、主が荒れ野の困難であなたを導いたすべての道のりを思い起こすことでした。ここでは特に、あなたの富を生み出した、主を思い起こしなさいです。

クリスチャンが富に満たされるのは決して悪いことではありません。ただこの方である主が、あなたに力を与えて富を生み出させ、先祖に誓われたその契約を実行し、今日のようにしてくださいました。そのように恵みを与えてくださった主を思い起こして感謝し、忘れないようにする必要があります。そうすれば幸せに歩み続けることができます。

3、他の神々

これは理屈では簡単なことです。主を忘れずに、思い起こし続ければ幸せは続きます。しかし人間は弱いことに、順調が続いて上り坂になると、直ぐに心が驕り、高ぶります。そうするとどうなるでしょうか。もし、あなたの神、主を忘れるようなことがあって、他の神々に従い、これに仕え、これにひれ伏すなら、私は今日、あなたがたに証言する。あなたがたは必ず滅びます。

主があなたがたの前から滅ぼされた諸国民と同じように、あなたがたも滅びる。あなたがたの神、主の声に耳を傾けないからです。確かに私たち人間は調子が良いときが続くと、文字通りに直ぐに調子に乗って心が驕って高ぶり、主を忘れてしまいがちです。

しかし仮にも一応は主を信じる者が他の神々に従い、仕え、ひれ伏す等ということが果たして有り得るのでしょうか。イスラエルでは実際にありました。そこには巧妙な罠があります。主が異教の女性と結婚をするのを禁じられたにも関わらず、ダビデ王やソロモン王は多くの異教の女性を妻や側室としたために、そこから他の神々が入り込みました。

しかし現代のクリスチャンは流石にそのようなことは無いと思います。しかし他の神々というのは、異教の神々のことだけではありません。真の神を忘れて、従い、仕え、ひれ伏す、偶像のすべてです。真の神を忘れて、自己中心の思いを優先させたり、金銭的な利益、自分の名誉等、神を第一としないで神よりも優先するものすべてが他の神々です。主を忘れて、それらの偶像を優先するなら、あなたがたは必ず滅びます。

4、幸せにするため②

もう随分と古い話ですが、ブランデーの等級のVSOPに掛けて、Very Special One Pattern という言葉が流行りました。日本に限らずワンパターンの話というのは良くあります。「男はつらいよ」の寅さんの映画や水戸黄門のドラマ、007の映画も毎回、設定は違いますがストーリーは大体同じようなものです。そういう意味でいうと、聖書のストーリーもある意味でワンパターンです。

1,罪を犯す、2,裁きに遭う、3,悔い改める、4,救われる、そうすると心が驕って罪を犯すと、同じことが延々と繰り返されて行きます。聖書を読んでいると、なぜこのような同じことを繰り返しているのだろうと感じます。いくら昔は本が普及していなかったとしても、過去にどのようなことがあったかは、聞いて知っているだろうと思います。

イスラエルは歴史から学ぶということをしないのだろうかと思います。賢いユダヤ人は何とかこのワンパターンから抜け出す方法は無かったのでしょうか。旧約聖書の歴史は大体4千年間位と言われます。神の民として選ばれたイスラエルが4千年間、頑張ったけれど無理でしたので、恐らく他の人が同じことをしてもやはり人間の努力だけでは無理だと思います。

ところで人間の親子でも親は子どもを幸せにするためには、喜んで自分を犠牲にするものです。5節の御言の「訓練する」を「幸せにする」に言い換えることも出来ます。エジプトの地が象徴する罪、罪の奴隷の家から私たちを導き出すために、神はお独り子である主イエスを十字架に付けられました。私たちは救いのために、また主の十字架を忘れないように、主の十字架に与る洗礼を受けます。しかしそれで終わりではありません。聖化のための訓練があります。炎の蛇とさそりのような危険なものがいる荒れ野を進みます。水のない乾いた広大で恐ろしい荒れ野を、食べものの当ても無く進みます。異教の神々の誘惑もあります。私たちが手ぶらで無防備で進んで行けばイスラエルと同じ失敗をします。

しかし私たちを幸せにするために、主は助け手として聖霊を遣わしてくださいます。聖霊は私たちに主を思い起こさせてくださり、主を忘れないようにしてくださいます。そして主の道を歩んで行けば必要なものは与えられることを実際に体験して学んで行きます。

そして私たちが主の道から外れそうになれば警告を出してくださいます。その警告に従って悔い改めれば滅びることはありません。それ以外にも主は私たちが主を忘れずに思い起こして、幸せになるために、あらゆる手を尽くしてくださいました。旧約の時代には、主を忘れずに思い起こすために十戒を中心とした律法を授けられ、また毎週、礼拝を行うことを命じられました。

新約の時代には、主を忘れずに思い起こすために、主の祈りを教えられ、聖餐式を制定されました。それらは皆、私たちを幸せにするためでした。

2週間前の礼拝の後に、教育部主催の「教会について語ろう」が行われて、なぜ教会へ?何を求めて教会へ?教会に来つづけるのは?ということを皆で語り合い、色々な考えが出されました。私自身の答えは、真理を求めて教会に来て、教会に真理があると思うから来つづけていると思います。

しかし心情的に言うと、幸せになりたいからです。私は教会に来ることによって、そこにある真理によってまず自分が幸せになれると思うからです。そして自分が幸せになるだけではありません。私が教会に来つづけることによって、自分の周り、自分に近い家族等を幸せにするためです。そして近い人だけではなく、すべての人を幸せにしたいからです。

神はすべての人を幸せにしたいと願っておられます。そして幸せにするためにお独り子である主イエスを十字架に付けられ、また聖霊を遣わしてくださいます。すべての人が幸せになるために必要なことは神が既にすべて行ってくださいました。後は神の恵みを受け取るだけです。素直に受け取らせていただき、幸せにさせていただきましょう。そして幸せにさせていただいた者は他の人を幸せにするために用いていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちを幸せにするためにあらゆることを成してくださっています。しかし、「親の心子知らず」で、私たち人間には時として理解できないこともあります。全知全能の神が、私たち人間には計り知ることのできない中で最善を成してくださっていることを、私たちが受け入れることができますようにお導きください。

またあなたの恵みに私たちが満たされるときに、心が驕ることなく、あなたを思い起こし感謝し、主を忘れずに歩む者とさせてください。そしてあなたにあって幸せになり、他の人の幸せのためにお用いください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。