「神からの恵み」

2022年12月11日 礼拝説教  
ルカによる福音書 1章26~38節

     

主の御名を賛美します。寒くなって来ました。寒いのは苦手なのですが、寒さの中で迎えるクリスマスは何となく身が引き締まる感じがして良いなと思います。30年以上前のことですが、教会に通い始めて、寒いクリスマスの時期の夕方の暗くなっている時に輝いているオレンジ色の単色のライトの光が好きでした。教会は暗闇に輝く光でありたいと思います。

1、恵まれた方

前回に、祭司ザカリアに現れた天使ガブリエルが、また神から遣わされました。今日つかわされた場所はガリラヤにあるナザレという小さな田舎の町です。36節で、祭司ザカリアの妻エリサベトはバプテスマのヨハネをみごもって、もう六か月になっていますが、初めの六か月目はエリサベトの妊娠六か月目の意味です。

天使はナザレに住んでいるマリアというおとめのところにきました。マリアはヨセフと婚約しています。マリアとヨセフについて、聖書には詳しく書かれていません。しかし救い主イエス・キリストの両親ですので、どのような人であるのか皆、興味を持つからか伝説があります。

伝説は聖書ではなく外典のヤコブの福音書に書かれています。伝説ですので参考として短くお話します。伝説では、マリアは父ヨアヒムと母アンナの間に生まれて、3歳で神殿に捧げられました。どこからそのような伝説が出来たのかと思うのですが、背景としてこの後の46~55節にマリアの賛歌がありますが、旧約の詩篇から引用されています。

マリアはナザレという田舎のおとめですが、聖書に詳しかったことは、信仰深い環境で育ったと考えられます。そこで聖書には両親が出てきませんので、孤児として神殿で育ったという伝説ができたと思われます。そしてマリアが12歳の時に、初老のヨセフが結婚相手として選ばれました。

マリアとヨセフは若いカップルとイメージしがちですが、マリアとヨセフは年の離れた年の差婚と言われています。それは、ヨセフが聖書から早くに姿を消すところから来ているのかも知れません。絵本等でもヨセフの髪の毛が薄く描かれているものがあります。

聖書に戻りまして、天使はマリアに初めに3つのことを言いました。初めに、「おめでとう(喜べ)」です。アヴェ・マリアという歌を聞いたことがあると思います。アヴェ・マリアはマリアが日系人で名字が日本の阿部で阿部マリアということではなくて、アヴェはラテン語で「おめでとう」という意味です。天使がここで言った「おめでとう、マリア」という意味です。

なぜ、おめでたいかというと、二つ目の、「恵まれた方」だからです。「恵まれた方」は「恵む」という言葉の受身形で完了形です。恵まれることがもう既に完了していますので、分かり易く訳すと、「既に恵まれちゃった方」と言えます。恵まれたとはどういうことかと言いますと、3つ目の「主があなたと共におられる」ことです。

恵みとは、何よりも主が共におられることです。このことをしっかりと覚えていたいものです。主が共におられなければ、この世的にはどんなに豊かであってもそれは本当の恵みではありません。しかしこの言葉にマリアはひどく戸惑って、これは一体何の挨拶かと考え込みました。確かにそうでしょう。いきなり、天使が来てこのような事を言われたら何の挨拶だろうと誰でも思うでしょう。

最近は聞かなくなって来ましたが、以前に詐欺の電話のパターンがこの聖書箇所を真似したのかどうか知りませんが良く似ていました。「おめでとうございます。あなたは当選しました。」と言っていました。

信仰深いマリアは、主が共におられるという言葉から、主が共におられた旧約の人物たちである、モーセ、イザヤ、エレミヤ等のこと等が思い浮かんで、彼らが主の御用のために困難な道を歩んだことを思い出して戸惑ったのかも知れません。

すると天使は、「マリア」と名前を呼びます。マリアと名前を呼ぶことは、あなたの名は神に覚えられていることをまず表します。またマリアという名前は旧約のモーセのお姉さんのミリアムのギリシャ語名で、「高い場所、頂上」という意味です。それは名前の意味の通りに、賛美にもありますように、恵みの高き嶺を歩みなさいということです。

続けて天使は「恐れることはない」と言います。人は神から目を離して、自分の頭で物事を考えて恐れると不信仰に陥ります。「恐れることはない」は不信仰に陥るなという意味でもあります。

そして「あなたは神から恵みをいただいた」と言います。主が共におられることが何よりもの恵みですが、神からの恵みは私たち人間の常識を超えて、遥かに大きく、広く、深く、時に理解し難いものです。そして人間は自分の常識を超えた神からの大きな恵みに戸惑って、受け入れることが難しくなることがあります。

2、神からの恵み

神からの恵みの具体的な内容に入ります。「あなたは身ごもって男の子を産む」。この当時は出産の前に性別は分かりませんので、これは明らかに神の預言です。「その子をイエスと名付けなさい」。イエスは旧約のヨシュアのギリシャ語名で、「主は救い」という意味です。

その後も天使は主イエスは偉大な人になるという預言を続けますが、マリアは神からの恵みの一言目の、「あなたは身ごもって男の子を産む」という言葉に引っ掛かっていました。それは当然のことです。マリアは天使に言いました。「どうして、そんなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。」

マリアの言い分は最もで常識的なことです。また万が一にそのようなことが起きれば、先週の説教にもありましたように、マリアは婚約者のヨセフに対して不貞を働いて裏切ったと思われます。婚約中に不貞を働いたマリアは石打の刑になります。

12歳のおとめにとって重すぎる試練です。マリアの心の中の思いはどうだったでしょうか。マリアはまだ結婚前で特に今、子どもを願っていた訳ではなく、神からの一方的な恵みによって、このような、かなり変わった事になりましたので、マリアに対して天使は丁寧に説明をします。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

有名な聖書の御言葉ですが、今回改めてその意味を考えてみたいと思います。聖霊がマリアに降り、いと高き方の力がマリアを覆います。聖霊がマリアを覆いますが、それはマリア自身が何か変わるという訳ではないと思いますので、マリアは私たちと同じ人間であるはずです。

しかし、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。これは考えてみますと不思議なことです。マリアは私たちと同じ人間ですので、生まれる子は、人間と聖霊の間に生まれる子です。それは言ってみれば、人間と聖霊のいわゆるハーフなのでしょうか。どのように思われるでしょうか。

これはハーフの人に限ったことではありませんが、大抵の人は両親のどちらかの影響が強いという場合もありますが、両親のそれぞれの特徴を兼ね備えていて、両親のそれぞれに似ているところがあるものです。

もし生まれる子が人間と聖霊のハーフでしたら、両方の特徴を併せ持つはずですので、人間の子が聖なる者、神の子と呼ばれることは難しいのではないかと思います。どうして人間の子が聖なる者、神の子になるのでしょうか。

この問題を解決するために、カトリックには、無原罪の御宿りとか無原罪懐胎いう教理があります。それはマリアは母アンナの胎内に宿った時から原罪を免れていたとするものです。確かにそのように考えないと、子どもが聖なる者、神の子となるのは難しいものです。そのために聖母マリアも聖なる者として信仰対象になったようです。

しかしプロテスタントではそのようには考えません。プロテスタントでは、主イエスは完全に神であると共に、完全に人であり、その二つは本質的結合をしていると言います。ヨハネ4:24は、「神は霊である」と言います。私は個人的には主イエスは霊的な意味で完全に神であり、主に肉体的な意味で完全に人間であるのではないかと思います。

肉体の遺伝子的には人と聖霊のハーフではなく、100%人間でマリアにそっくりだったのではないかと思います。霊的には100%神なので聖なる者であり、神の子なのだと思います。ペテロの第一の手紙2:22はキリストについて、「この方は罪を犯さず、その口には偽りがなかった」と言います。それは霊的に100%神だったからだと思います。人間とのハーフでは無理だったのではないかと思います。ただ人間の肉体と神の霊は本質的結合をしていて一体であったと思います。

しかしいきなりそのようなことを言われてもマリアアはびっくりです。そこでマリアが天使の言葉を受け入れ易いように、天使はマリアにしるしを与えます。「あなたの親類エリサベトも老年ながら男の子を身ごもって、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」

3、お言葉どおりに

マリアは親類エリサベトの妊娠の事実を知らされて、聖霊の導きによって、「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように。」と信仰によって受け入れました。それによって全ての人に救いの道が開かれました。しかしこのような話を聞くと、独身の若い女性は心配になるかも知れません。

私の身にもマリアと同じことが起こったらどうしようかと。しかし心配する必要はありません。マリアには主イエスが人としてこの世のお産まれになるために必要な特別の役割がありました。しかしもうその必要はありませんので同じことは起こりません。

ではこの聖書箇所の記事は過去の記録であって私たちには何も関係がないのでしょうか。そうではありません。聖書は全ての人のために記されたものです。全てに人にマリアとはかたちが違いますが、神からの恵みが与えられます。しかし神の恵みは、マリアの妊娠のように、私たち人間の常識を超えて、大きく、広く、深く、時に理解し、受け入れ難いものです。

神からの最大の恵みは、私たちの救いのためにクリスマスに主イエスがこの世にお生まれになったことです。主イエスは私たちの罪の贖いのために十字架に付かれ、主イエスを信じる者は罪を赦され永遠の命が与えられます。この恵みもマリアの妊娠のように、人間の常識では理解し辛い部分もあるかも知れません。

しかしマリアのように、主は私たちと共におられ、聖霊が私たちに降ってくださいます。そして聖霊の働きによって私たちは、「私は主の仕え女、僕です。お言葉どおり、この身になりますように」との告白に導かれます。まず神からの最大の恵みである主イエスを受け入れて、救いに与らせていただきましょう。

そして既に救われている方には、神からの次の恵みが待っています。それは何でしょうか。それは人それぞれに異なるものでしょう。その恵みが例えどのようなものであったとしても、聖霊の働きによって、それが神からの恵みであると示されるのであれば、恐れることなく、喜んで受け入れさせていただきましょう。神からの恵みを受け入れることは全ての人にとっても喜びとなります。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。マリアへの神からの恵みは、おとめがみごもるという驚くべきことでした。マリアはそのことを聖霊の働きによって信仰によって受け入れ、それによって全ての人に救いの道が開かれました。

アドベントのこの期間、改めてその意味をじっくりと味わわせてください。そして自分に与えられている神からの恵みをそれぞれが、聖霊の働きの中で信仰によって受け入れることが出来ますように、お導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン