「神は霊である」
2022年3月27日説教
申命記 4章10~24節
主の御名を賛美します。今日は2021年度の最後の主日です。年度の最後の主日を、このように皆さんで集まり礼拝出来る恵みを感謝します。今週末から新年度に入りますが、人によっては新しい生活に入る方もおられると思います。
特に変化の無い方でも年度の変わり目を節目として、新しい年度をどのように歩んで行くかを考える切っ掛けにされると良いと思います。そのような時に信仰の偉人、有名な働きをされた方の話を思い出すことがあります。早朝に起きて、毎日何時間も祈って働きをされたといったような話等です。私たちはどのように歩んだら良いのか御言葉を聴かせていただきましょう。
1、主を畏れる
イスラエル、そしてクリスチャンは正しい掟と法である律法を持つ大いなる国民です。しかし大切なのはその掟と法を実際に守り行うことですので、モーセはイスラエルが神の約束の地に入る前にもう一度その大切さを教えます。
そこで出エジプト記19章で、律法が与えられた時のことをイスラエルに語って、思い起こさせます。ホレブ、シナイ山で主はモーセに、「民を私のもとに集めなさい。」と言われました。私たちも今日、ここに集められました。それは何のためでしょうか。「私の言葉を聞かせよう。」 それは主が主の言葉を聞かせるためです。私たちも主の言葉を聞くために、今日ここに集められました。
主の言葉を聞かせられるとどのようになるのでしょうか。一つ目は、この地上で生きているかぎり、主を畏れることを学びます。私たちは主の言葉を聞いたら、「ああ良かった」と言って終わるのではなく、主の言葉が語る、主を畏れることを学ぶ必要があります。
箴言1:7に、「主を畏れることは知識の初め」とありますように、何よりも初めに私たちが知ることは主を畏れることです。そして主を畏れることは知識の初めですから、主を畏れることを自分だけが学べば良いのではありません。二つ目に私たちは、主を畏れることを子らにも教えます。
何事においても大切なのは基礎となる土台です。間違った土台の上にはどんなに沢山の知識を築いても間違った方向に進んでしまいます。プーチン大統領も大国ロシアの大統領になったのですから優秀な人なのだと思います。しかし主を畏れることを知らないと大きな間違いを犯してしまいます。そしてその間違いは自分だけでは無く、多くの人の犠牲を伴うことになります。
2、主は火
イスラエルが山に近づき、麓に立つと、山は燃えて火が中天に達し、闇と雲と蜜運が垂れ込めていました。イスラエルの神、主は、火の中から語りかけられました。雲と火は神がおられる臨在を表すものです。イスラエルが荒れ野にいた時には、1:33にあるように、夜は火、昼は雲によって、進むべき道を示されました。
神は火として他にどのようなことをされるでしょうか。20節では、主はイスラエルを選んで、エジプトという鉄の炉から導き出し、今日のように、ご自分の民とされました。神は火で鉄を製錬するように、イスラエルを製錬されます。神は火として人を製錬されます。ここの鉄の炉というのは厳しい試練の場であるエジプトです。しかしいつまでも試練の場である鉄の炉には置かずに、導き出し助け出されます。他に24節では、あなたの神、主は焼き尽くす火、妬む神です。それは焼き尽くす火のように、さばかれ、滅ぼされるということです。それは妬むほどに強く愛されるが故です。
3、十戒
主が火の中から語られたのは契約ですが、まずは行うことを命じられました。それが十戒です。十戒は原語では「10の言葉」です。ここで、「それが十戒である」と言われていることは、2節で、「あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。」と言っているのが十戒を指しているというのは文脈から明らかです。
その意味でも、十戒に何一つ加えても、削ってもならないと聖書が言っていることを良く覚えておく必要があります。異なる教えは十戒に加えたり削ったりします。十戒に何一つ加えても、削ってもいないかどうかが、正しい教えかどうかを見分ける初めの判断の一つになります。
また十戒はただ授けられれば良いものではありません。イスラエルが渡って行って所有する地で、“行うべき”掟と法です。掟と法は飾りではありませんので、実際に守り行わなければ意味がありません。
4、偶像
火の中から語られる声をイスラエルは聞きましたが、声のほかには何の形も見ませんでした。新改訳は形を姿と訳しています。これはとても大切なことなので、15節でももう一度繰り返します。イスラエルはなぜ主の姿、形を見なかったのでしょうか。それは勿論、主がお姿をお見せにならなかったからです。
それはなぜなのでしょうか。そのヒントが16節にあります。「堕落して、自分のためにどのような形の彫像も造ってはならない。」からです。それは逆に言うと、人は堕落すると、自分のために彫像を造るということです。確かにローマ1:18からの「人間の罪」のところに、不信仰者が初めにすることは偶像礼拝とあります。
彫像の例として、「男の姿も女の姿も、地上のいかなる獣の形も、空に羽ばたく翼のあるいかなる鳥の形も、地の上を這ういかなる生き物の形も、地の下の水に住むいかなる魚の形も造ってはならない。」のです。
初めに、「男の姿も女の姿も」とあります。イスラエルがこれから渡って行くカナンの地の神であるバアルは男の姿で、豊穣の女神アシュトレトは女の姿に造られています。これらの偶像の神は、道徳的、性的に堕落した行いと強く結ばれています。
3節のバアル・ペオルで起こった性的不品行のようにです。ローマ1:18からの「人間の罪」のところに、偶像礼拝の次に来るのが性的不品行とあります。偶像礼拝は男や女の姿以外にも色々な生き物の形を造ります。
イスラエルが荒れ野に脱出して来る前にいたエジプトには、雄羊や鰐、鳥である鷹の頭を持つ神もいたようです。現代でも海外の都会から離れたジャングルや人里離れた地域等で生活する民族では色々な生き物の形をした偶像の神を見ることが出来ます。日本の寺や神社等にもあります。そのような偶像の神を造る気持ちは全く分からないでもありません。神が造られたこの世のすべての生き物はとても素晴らしく神秘的です。この世のすべての生き物を造られた神を知らなければ、造られたものが神のように感じてしまうかも知れません。
また強さで言うと、素手で戦えばライオン等は人間より圧倒的に強いものです。その強さにあやかりたいと思う気持ちは分かります。そのような心理からか強い動物の剥製を好む人もいます。また空を飛ぶ鳥も空を飛べない人間に取っては不思議な神秘的な存在です。
また、目を天に向け、太陽や月、星などの天の万象を見れば、さらに不思議なものです。太陽は私たちに明るい光と共に熱を与え植物を成長させます。神を知らなければ、太陽を神のように感じるかも知れません。実際、エジプトには太陽神ラーがいました。
月も神秘的でメソポタミアでは月の神も礼拝されていました。星も星座の神話は沢山あります。しかし、それらに惑わされ、ひれ伏し、仕えないようにしなければなりません。なぜならそれら自身は神ではないからです。太陽も月も星も創世記1:16で神が造られたものです。
それらは神、主が造られて、天の下のすべての民に分け与えられたものです。太陽が無ければ植物は育ちませんので人間は生きて行けません。また月も夜に魚介類を取る漁を行うにはとても大切なもので、月の状態によって漁は変わって行きます。また星も方角を知るためにも大切なものです。
それらは恵みとして神がすべての民に分け与えられたものです。しかし太陽、月、星は神ではないので、ひれ伏し、仕えるものではありません。その神秘さは造られた神の神秘性を表すものです。それらを見て、神の素晴らしさを知って、それらを造られた、形を持たれない霊である神を礼拝します。
5、形を造ってはならない
しかし多くのクリスチャンは、そのようなことは良く知っていると思われると思います。そこで、「形を造ってはならない」という御言葉の意味をもう少し深く聴かせていただきたいと思います。初めにお話ししましたように、色々なクリスチャンの話を聞くことがあります。
クリスチャンにとって、神の言葉である聖書を読むことは大切なことです。毎日、聖書を1章づつ読んでいる人はいると思います。またある人は1章ではなく、内容の纏まり毎に読んでいる人もいるかも知れません。毎日、2章づつ読んでいる人も、3章づつ読んでいる人も、10章づつ読んでいる人もいるかも知れません。
祈りの時間も人によって、大体10分、30分、1時間、2時間等とあると思います。献金も収入の1割、2割等とあるかも知れません。朝起きる時間や睡眠時間等も人によって違うことでしょう。信仰の熱心さによって、聖書を多く読み、多く祈り、多く献金し、睡眠時間を少なく早起きして働くことは素晴らしいことだと思いますし、否定されるものではありません。
ところで、毎日、聖書を2章読む人は、1章読む人よりも2倍の量を読むことになりますが、それは信仰の熱心さも2倍なのでしょうか。10章読む人は10倍の信仰なのでしょうか。モーセは23節でも、もう一度、「あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。」と言います。聖書を読む量、祈りの時間、献金の額、睡眠時間等といった形を、丸で偶像のようにして崇めるようになると、それは聖書の教えとは全く異なるものです。それは2節でいう、モーセの言葉に加えることになります。
マルコ12:43で、レプトン銅貨2枚を献げた貧しいやもめを、誰よりもたくさん入れたと主イエスは言われました。大切なのは献金の額という形ではありません。ただ形はすべてどうでも良いと言っているのではありません。日本の伝統芸等では、まずは形から入って、そこに心を込めて行くという考え方があります。
信仰の形においても全く同じで、形はどうでも良いというのではなく、形が整えられて規則正しい行いの形に心、霊が伴って行くなら意味があります。ただ形だけのものは偶像です。しかし私たち人間は目に見える形のあるものに心を惹かれ易いものです。
そして形のある、神に造られた被造物である生き物や天体だけではなく、人の行いを偶像として、惑わされ、ひれ伏し、仕えてしまう弱いものです。自分は、またあの人は、聖書を毎日何章読んでいるとか、何時間祈っているとか、いくら献金しているとか、何時に起きているとか等です。
勿論、それに心がきちんと伴っているなら素晴らしいことですし、一つの目標にすることは悪いことではありません。しかし貧しいやもめのように、人それぞれ置かれている状況が違いますし、同じ人でも時間が経てば状況は変わって行きます。
それなのに形だけに拘ってしまうと意味がないどころか偶像になってしまいます。モーセがヨルダン川を渡ることも、イスラエルの神、主が相続地として与える良い地に入ることもないと誓われて死ぬのも、民数記20章のメリバの水でイスラエルの民が食べ物も水もないと物質に囚われて、モーセに軽率な言動を引き起こしたからです。
ヨハネ4:24は、「神は霊である」とはっきりと言います。神は霊でおられて形を人に見せられませんでした。見せると人は形に囚われて偶像礼拝に陥ってしまうことをご存じであるからです。そうであるなら人が造った形を偶像として従い礼拝するのは愚かなことです。
霊である神に従い、また神を礼拝するには、神から与えられる聖霊に従うのが唯一の方法です。人が造る行いの形を一つの参考とするのは悪いことではありません。しかし人の行いの形を偶像化してはなりません。神は霊であり、神の子であるクリスチャンは神の霊によって生きる者です。私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます(Ⅱコリント4:18)。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。今年度の歩みもあなたがお守りくださり有難う御座います。私たち人間は、目で見えるものに心を惹かれ易い弱い者です。しかし神は霊です。神の子とされる私たちが見えない霊である神を見上げて、この世の形から解放されて生きて行けますようにお守りお導きください。
今、ウクライナの問題でこの世の見える形に囚われている者たちが、形から解放されて霊である神を畏れることを知りますようにお導き下さい。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。