「与えてくださる相続地」

2022年4月17日説教 
申命記 4章32~40節

        

ハッピー・イースター! 今日は一昨日の金曜日に十字架に掛かられた主イエスが死から甦られたイースターです。「ハッピー・イースター」と言いつつ、聖書箇所はいつもと変わり映えしないではないかと感じる方もおられるでしょうか。折角のイースターなのだから、聖書箇所は福音書の主イエスが十字架の死から復活するところではないのかと。

私も初めはそのように思いまして、どこの聖書箇所にしようかと少し考え始めました。その時に心に浮かんだのは、ヨハネ5:39で主イエスが言われた、「聖書は私について証しをするものだ」の御言です。その御言から私たちは聖書のどの御言からでも、主イエスの十字架と復活の証しを聴くことが大切なのだという思いが与えられて、敢えて講解説教の続きとさせていただきました。

1、大いなる神

モーセは自分は行けない、神の約束の地に入って行くイスラエルの祝福を願って、遺言のような説教を語り続けています。先週の個所でモーセは神の御性質として、憐れみ深いことを語りました。今日の個所では、神の御性質の一つとして、「大いなる」という言葉を3回(32,34,37節)使って強調しています。

モーセは、「これほど大いなることが起こったであろうか。そのようなことを聞いただろうか。」と問います。この大いなることの起こったことを他と比べる時間の期間と場所の範囲はどの位なのでしょうか。まず期間は、「あなたに先立つはるか昔、神が地上に人間を創造された最初の時代に遡り」です。

期間は人間をこの世に創造された時からすべての歴史を通してです。そして場所は天の果てから果てまでです。しかしそれを、「巡って、尋ねてみるがよい」と言われても、どのように巡って、誰に尋ねれば、そのように広い範囲のことが分かるのでしょうか。それはモーセです。

モーセは神が地上に人間を創造される前のことまで創世記に書いています。人間が創造される前のことは誰も知らないはずですが、モーセは神の啓示によってそれらを知りました。そのように神の啓示によりすべてを知らされているモーセがここで語るのですから間違いはありません。

2、神の声を聞かせ、生かす

神は、どのような大いなることをされたのでしょうか。まず一つ目として、「火の中から語られる神の声を聞き、なお生きているあなたのような民があったであろうか」と問います。出エジプト記20:19によると、この当時、神の声を聞くと死ぬと考えられていました。

しかし、神の声を聞き、なお生きているイスラエルが大いなる存在なのではありません。そうではなくて、神の声を聞いたイスラエルを生かしている神が大いなる方です。神の大いなることの一つ目は神の声を人に聞かせ、生かしていることです。

主は何の目的でイスラエルに天から御声を聞かせたのでしょうか。それはイスラエルを訓練するためです。主は神の民を甘やかせるのではなくて、訓練されます。出エジプト記19章のシナイ山で、主はモーセと語りましたが、主は雷鳴でも答えられましたので、イスラエルは雷鳴で答えられる主の声を聞きました。また昼は雲の柱、夜は火の柱がイスラエルに見えましたが、主はイスラエルを訓練するために主の臨在を表す大いなる火を見せました。

神は現代においても、私たちに神の声を聞かせてくださいます。人の声を通して神の声を聞かせることがあります。またその声はもしかすると音としては聞こえないかも知れませんが、聖書の言葉として心に聞かせてくださいます。

3、一つの国民を選び出す

神の大いなることの二つ目は、諸国民の中から一つの国民をご自身で選び出されたことです。それはどのように選び出されたのでしょうか。それはイスラエルの神、主がエジプトで、イスラエルの目の前でなさったことです。

それは、さまざまな試み、しるしや奇跡を行い、戦われたことです。具体的にはエジプトに下された10の災いや、エジプトを脱出した後に、紅海の水を退かせてイスラエルは歩いて渡り、エジプト軍には水を戻されたこと等です。それらは、主の力強い手と伸ばした腕によって行われた大いなる恐るべき業です。

それらを通して、神は諸国民の中から一つの国民をご自身で選び出された大いなる方です。これは先程の、神の声を聞き、なお生きている民と同じことですが、大いなるのは、諸国民の中から一つの国民として選び出されたイスラエル、ユダヤ人ではありません。

イスラエル、ユダヤ人が他の民族より何か優れているから選び出された訳ではありません。ただ神の恵みによりますので、選び出された神ご自身が大いなる方です。それはクリスチャンでも全く同じです。選び出されたクリスチャンが大いなる存在なのではなくて、クリスチャンを選び出された神が大いなる方です。その点が少しユダヤ人の中に、又はクリスチャンでも誤解をしている人がいるかも知れません。

ユダヤ人やクリスチャンが初めに選び出されるのは、創世記12:2でアブラハムに言われたように、祝福の基となるためです。自分たちだけが神に選び出された選民で偉いという訳ではありません。神に選び出された真の選民は祝福の基となって、すべての人を祝福する役割が与えられています。

イスラエルは、主こそ神であって、この方をおいてほかに神はいないということを示され、知るに至りました。それはどういう意味なのでしょうか。偶像の神は28節にありましたように、木と石でできていて、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできません。

しかしイスラエルは主が火の中から語られる声を聞きました。またイスラエルは主のさまざまな試み、しるしや奇跡を見て体験して、偶像の神にはできないことを見聞きしてきました。それで、主こそ神であって、ほかに神はいないと知るに至りました。

それは歴史的な事実ですが、それは現代を生きる私たちにどのような関りがあるのでしょうか。先週、旧約聖書を新約の福音の光に照らして霊的に読むことをお話しました。同じように今日の個所を読みますと、初めの二つは文字通りで、神の大いなる一つ目のことは、神の声を聞かせてくださることで、二つ目は選び出してくださることです。

これはクリスチャンも同じで、それまではキリスト教と全く関りの無かった人がそのように選び出されることもあります。この中にはクリスチャンホームからクリスチャンになった方もおられるでしょうし、家族から初めてのクリスチャンの方もおられるでしょう。私も家族では初めてのクリスチャンです。

4、エジプトから導き出された

神の大いなることの三つ目は、エジプトからイスラエルを導き出されたことです。その理由は、主は、イスラエルの先祖、先祖は複数形ですので、アブラハム、イサク、ヤコブたちを愛されたので、その後に続く子孫を選び、ご自身が大いなる力によって、エジプトからイスラエルを導き出されました。

エジプトは罪の世界を象徴して、エジプトから導き出すことは救いを表します。救いについて、この箇所では、「主はあなたの先祖を愛されたので、その後に続く子孫を選び」と言います。クリスチャンの家系が続く家を、周りの人は、「あの家の宗教はキリスト教だからね」の一言で済ませるかも知れません。

しかしこの箇所は、「主はあなたの先祖を愛されたので、その後に続く子孫を選び」と説明していることは、これは5:10の、「私を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にわたって慈しみを示す」という神の約束の成就であり、祝福です。

5、与えてくださる相続地

エジプトから導き出されたイスラエルはどこに行くのでしょうか。神の大いなることの四つ目は、相続地を与えてくださることです。何もないところを相続地として与えるのではありません。主は、イスラエルより大きく、強い諸国民をイスラエルの前から追い払い、彼らの地に導き入れ、これを今日のように相続地として与えてくださりました。今の時点では、イスラエルはまだヨルダン川の東側の地にいます。

このことの霊的な意味はどういうことでしょうか。罪を象徴するエジプトから導き出され救われる者はどうなるのかということです。「主は、あなたより大きく、強い諸国民をあなたの前から追い払」われます。主が追い払われる、私たちより大きく、強い、最大、最強の敵は何でしょうか。それは死です。

主は私たちより大きく、強い死を、私たちの前から追い払い、相続地を与えてくださいました。相続地は、永遠の命であり、天国です。それはどのようにして与えられることになったのでしょうか。主イエスは先週の金曜日に、私たちの罪の身代わりとして十字架に掛かられました。

それによって主イエスを信じる者は、エジプトが象徴する罪の世界から導き出されます。そして主イエスは十字架の死から三日目の今日のイースターに復活されました。そして主イエスを信じる者は、主イエスの復活の命に与って、永遠の命、天国が与えられます。38節の御言はイスラエルの歴史を表すと共に、主イエスのイースターの復活を証しする御言です。

6、命令と約束

神から与えられた相続地に入って行くイスラエルにモーセは二つのことを命じます。それは洗礼を受けてクリスチャンになり、相続地である永遠の命、天国を与えられる人への命令でもあります。一つ目は、「そこで今日あなたがたは、上は天においても下は地においても、主こそ神であり、ほかに神はいないことを知って、心に留めておきなさい。」です。

イスラエルは35節で、「主こそ神であって、この方をおいてほかに神はいないということを示され、知るに至った。」のです。しかし、25節にありましたように、人は年齢を重ねて年を取ると堕落し易い弱いものです。そこで、「心に留めておきなさい」と命じます。

本当に心に留めてあることは、行いとなります。そこで、二つ目の命令として、「だから今日私が命じる主の掟と戒めを守りなさい。」と言います。ここに書かれている順番の通りに、主の掟と戒めである律法は相続地を与えられた神の民が、神の民として相応しく生きるためのものです。順番的に考えると、主の掟と戒めである律法を守るならば、相続地が与えられて神の民になれるとは言っていませんので注意が必要です。また、「心に留めておきなさい。主の掟と戒めを守りなさい。」と命じられても、つい忘れてしまい、守れない弱い私たちです。

しかし新約時代の恵みは、イースターに復活された主イエスの復活の力に私たちも与り、罪から導き出され、自分の力ではなくて、聖霊の力が、主こそ神であることを私たちの心に留めてくださり、主の掟と戒めを守らせてくださることです。

そしてこの二つの命令を守る者には二つの約束が伴います。一つ目は、そうすればあなたもあなたの後に続く子孫も幸せになります。相続地が与えられても、クリスチャンになって天国が与えられても、幸せでなければ意味が薄れてしまいます。二つの命令を守ることは幸せになるために必要なことです。

また幸せは神の命令を守る者に与えられるものです。そしてその幸せは自分だけのためではありません。自分の後に続く子孫、また血縁関係があっても無くても自分の後の世代のためです。自分の生き方に多くの人々の幸せが掛かっていますので、一人の人の生き方は責任重大です。自分の人生、どう生きようと自分の勝手だということはありません。

また約束の二つ目は、あなたの神、主が生涯にわたってあなたに与える土地で長く生きることができます。この当時は医療も発達していませんので、現代であれば簡単に治る病気でも命を落とす人がいて平均寿命は短かったと考えられます。

その意味では長生きは幸せと同じに大切なことだったのでしょう。いくら幸せでも長生きでなければ寂しいものです。また逆にいくら長生きでも幸せでなければ辛いものです。幸せと長生きは共に一緒であることが大切です。

長生きについては、新約の時代は主イエスを信じる者は、はっきりと永遠の命が与えられると約束されていますので感謝なことです。また御心に適うならば、この世においても幸せに、長生きしたいものです。

そのために、大いなる神は私たちに、神の声を聞かせ、選び出し、主イエスを信じる者を導き出し、相続地を与えてくださいます。これにより長く生きる永遠の命が与えられます。また大いなる神は、私たちに聖霊を遣わし、主こそ神であることを心に留めさせ、主の掟と戒めを守らせます。これにより幸せになります。

これらすべては、神が私たちの罪の身代わりとして主イエスを先週の金曜日に十字架に付け、三日目の今日のイースターに主イエスが死に打ち勝ち、甦られたからです。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルは大いなる神の恵みによって、神の声を聞き、選び出され、導き出され、相続地を与えられました。それは現代を生きる私たちも同じです。

さらに主イエスを信じる者はイースターに復活された主イエスの復活の力に与り、聖霊を与えられ、主こそ神であることを心に留め、主の掟と戒めを守る力を与えられますから有難うございます。

そしてこの世においても、幸せに長く生きることが御心に適いますように。特に今、ウクライナの方々に幸せと長生きが与えられますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。