「逃れの町」

2022年4月24日説教  
申命記 4章41~43節

  

主の御名を賛美します。社会の制度には色々なものがありますが、私には以前にどうしても理解出来ないものがありました。それは恩赦という制度です。恩赦は、刑罰を受けている人のその刑罰の全部又は一部を消滅させることです。刑罰を受けて刑務所に入っている人が恩赦によって無罪放免になったりします。

恩赦がどのような時に行われるかといいますと、日本では戦前では天皇が亡くなった時や、親王が生まれた時、戦後では、国連の加盟時、皇太子の成婚、憲法の交付時等です。恩赦は日本に限ったことではなくて、世界中で行われていることですが、罪を犯して受けた刑罰と恩赦の理由とは全く関係が無いように思われます。

なぜ恩赦等という制度があるのか以前の私には全く理解出来ませんでした。皆さんはどのように思われるでしょうか。実際、恩赦の制度に反対する人たちもいます。そのことを覚えつつ今朝の御言を聴かせていただきましょう。

1、逃れの町

申命記はモーセの3つの説教と最後の言葉から成っていますが、今日の個所は1章から始まった第一の説教の最後の部分です。3節の短い文章ですので、正直なところ私も初めはそれ程の重きを置いていませんでしたので、先週の時点では聖書箇所を4章の終わり迄と考えていました。しかし第一の説教の纏めとして、とても大切な内容であることに気付かされましたので今日は3節だけにしました。

「それから、モーセはヨルダン川の向こう、東側に三つの町を取り分けた。」と突然に言われると何か唐突感があって、これまでの話と何か関係があるのだろうかと考えてしまいます。それは文脈から見ると直前の40節の文章の、「主の掟と戒めを守る命令に伴う約束である、あなたもあなたの子孫も幸せになり、あなたの神、主が生涯にわたってあなたに与える土地で長く生きる」ために必要なことです。

逃れの町は民数記35:9で主がモーセに命じて作らせたものです。3つの町は、「ルベン人のためには平地にある荒れ野のベツェル、ガド人のためにはギルアドのラモト、マナセ人のためにはバシャンのゴランで」す。

3つの町はヨルダン川の東側ですが、ヨルダン川の西側にも3つの町を取り分けます。そしてこれら6つの町は、民数記35:6でレビ人の町であることには深い意味があります。

逃れの町は直接的には、「以前から憎んでいたのでもないのに、過って隣人を殺した者をそこに逃すため」です。「以前から憎んでいたのでもないのに、過って隣人を殺す」というのは具体的にはどのような場合なのでしょうか。聖書は誰にでも良く分かるように、具体的な例を書いています。

19:5では、「例えば、隣人を伴って木を切りに森に入り、切ろうと斧を振り上げたとき、斧の頭が柄から抜けて、隣人に当たって死んでしまったような場合である。」と言います。良く、人生の3つの坂として、上り坂、下り坂、まさかがあると言われますが、人生には、まさか思いも寄らないことが起きるということがあるものです。

そのような過失の殺人を犯してしまった者は、3つのいずれかの町に逃れて生き延びることができます。逆に言うと、そのような過失殺人者はそのいずれかの町に逃れなければ生き延びることができないかも知れません。それはなぜでしょうか。

民数記35:18は、「殺害者は必ず死ななければならない」と言います。これは元々は命の大切さを教えて人を殺してはならないことを教えるためです。では殺害者が死ぬ時に、その死なせることは誰が行うのでしょうか。

その後の民数記35:19は、「血の復讐をする者は、自分でその殺害者を殺すことができる。」と言います。血の復讐者は、殺害された被害者の近親者等のようです。これはこの世から殺人という悪を取り除くことと、被害者の無念を晴らす意味もあるのでしょう。

しかしここに問題が起こります。初めの殺害者が悪意を持った殺人者であるなら、血の復讐者に殺されても、殺人者の近親者も一応納得してそこで問題は終わるかも知れません。しかし、殺害者に悪意が全く無く、先程の例のように全くの偶然の場合には、殺される必要はないと言います。

そのような時にはきちんと裁判を行う必要があります。しかしもし逃れの町が無い場合には、悪意の無い過失殺人者が血の復讐者に殺される可能性があります。そうすると殺された過失殺人者の近親者が今度は血の復讐者となって、復讐を繰り返して復讐の連鎖が止まらなくなってしまいます。

この世にはそのような復讐の連鎖による戦争や抗争があったりします。復讐に囚われていたら、幸せに、長く生きることはできません。復讐から解放される必要があります。ローマ12:19は、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言います。逃れの町は復讐の連鎖を止めることと、正しい裁判を行うためのものです。

ただいくら逃れの町に逃れても、初めから人を殺そうと思っていた故意の確信犯である殺人者は赦されることはありません。逃れの町は、過って隣人を殺した過失殺人者のためだけではなくて、被害者の近親者や加害者の近親者を含めて、すべての人が復讐に囚われることなく、幸せに長く生きるためのものです。

2、恩赦と贖い

逃れの町にはもう一つの機能がありました。それは逃れの町に逃れた悪意の無い過失の殺害者は、その町の大祭司が死ぬと自分の家に帰れることです。それは丸で初めにお話しした恩赦のようです。聖書には恩赦の記事は書かれているのでしょうか。実は書かれています。

マタイ27:15は、「ところで、祭りの度に、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。」と言います。過越しの祭りの時には刑罰を受けた者の一人が恩赦になって釈放されていました。そこでピラトは民衆にバラバと主イエスのどちらを釈放してほしいのかと問いました。それはどちらの恩赦を望むのかと問うたことです。

犯罪者の刑罰と恩赦は全く繋がりが無いように見えて、聖書を読むとそうでもない感じがします。過越しの祭りでは、小羊の血の贖いによって主の使いが過ぎ越されました。逃れの町に逃れる過失の殺害者は、いくら以前から憎んでいたのでもなく、過って隣人を殺したといっても、隣人の血が流れて死んだという事実はあります。そして民数記35:33は、「血は土地を汚し、土地の上に流された血は、それを流した者の血によらなければ贖いをすることができない」と言います。隣人を殺した殺害者に責任があるかないかということも大切なことかも知れませんが、その理由はともかく一人の人が死んだ殺人という罪を贖うことも大切です。

贖うというのは、賠償するとか、罪を償うという意味です。悪意も無く人を殺してしまった過失の殺害者の血によって贖うことは命を奪うことになりますのでできません。そこで神と人との間を取りなす大祭司の死によって贖うこととしました。

このことは私たちも同じです。私たちも自分の罪を自分で贖おうとしたら自分の命を献げざるを得なくなります。しかしそのようなことをすると誰もいなくなってしまいます。そこで大祭司である主イエスが十字架で私たちを贖ってくださいました。先週に続き、逃れの町も主イエスの十字架の贖いを証しする御言です。

3、霊的解釈

初めの方でお話しましたが、1章から4:43迄がモーセの第一の説教で主に過去の振り返りです。4:40でモーセは、「だから今日私が命じる主の掟と戒めを守りなさい」と言って、そのまま、44節の、「さて、これから述べるのは、モーセがイスラエルの人々に示した律法である。」と続けて、第二の説教である律法の内容に入って行った方がスムーズな感じがします。

神はなぜモーセを通して律法の内容を語られる前に、逃れの町について書かれたのでしょうか。このことに思いを巡らしている中で、そこには深い意味があるように思えて来ました。この後の44節から28章の終わり迄に渡って、第二の説教として律法を中心に語って行きます。それは40節でいう今日モーセが命じる主の掟と戒めです。

そしてそれを守るなら、あなたもあなたの後に続く子孫も幸せになり、長く生きることができるものです。先週の、律法を守るなら幸せになり長生きできるということに皆さんは心から完全にそうであると納得されたでしょうか。

私は自分で語りながらここのところ狡いかも知れませんが、原則的にはそうであると納得していますが、完全にはそうとも思っていない部分もあります。「主の掟と戒めを守りなさい」と言われても完全に守れる人はいません。それはクリスチャンでも同じです。

しかしクリスチャンは、主の掟と戒めを聖霊の力によって守る者へと変えられて行く者です。しかし同じクリスチャンでも幸せそうに長く生きる人もいますし、残念ながらそうでない人もいるのが現実です。そしてそれが単純に、主の掟と戒めを守っている人が幸せで長生きし、そうでない人が幸せでなく長生きでないなら納得は出来ます。

しかし現実には、そうでもなさそうなことが起こります。他の人と比べて特に何か悪いことをした訳でもないのに、幸せそうでなく、早死にをする人はいます。早死にどころか、生まれて直ぐに悪いこともできない内に亡くなる人もいます。

神を信じない人は全能の神がすべてを支配しているのなら、なぜそのような理不尽なことを許すのかと問います。クリスチャンでも何とか自分の心を整理するためにも理屈を付けて納得しようとします。そのような場合の理由として、もしその人が長生きをしたら将来に大きな不幸に遭うので、不幸を避けるための早死にであるということが言われたりします。

確かにそうなのかも知れません。しかし家族としては例え将来にどんな大きな不幸があったとしても、長生きをして欲しかったという思いはあるものです。また今、ウクライナの問題があります。これは明らかにプーチン大統領の罪によるものだと思います。しかしそうだとしても、なぜウクライナの人たちがこれ程に酷い目に遭わなければならないのでしょうか。それを理屈で説明するのは不可能ではないでしょうか。

逃れの町はイスラエルの歴史では現実に取り分けられた町です。そのことの現代の霊的な意味は、逃れの町は私たちの心の中に取り分けるものです。この後の44節から律法を語って行きますが、律法では白黒の判断の付かないものがあり、それは心の中の逃れの町に取り分けて逃します。

周りの人と比べて見ても、特に悪いことをしたとも思えない善良そうな人が、幸せでもなく、長生きでない場合に私たちは葛藤を覚えます。そのような現実があることから、ある人は神は存在しないのではないかと考えたり、そのようなことを許す神であるなら信じたくないと思う人もいるようです。

しかし神がおられることと、人間の目にこの世に不条理なことが起こることは別次元のことのように思います。私たちはこの世に起こる不条理なことをすべて人間の理屈で説明しようとする必要はありません。こじ付けて何とか人間の理屈で説明しようとするとやはり無理があるものです。

自分でも説明できないことは心の中の逃れの町に逃せば良いのです。人間の理性には限界があります。そうすることによって、私たちは幸せになり、長く生きることができます。牧師ならば、すべてのことを信仰で乗り越えて来ていると思われるかも知れません。他の牧師はどうかは分かりませんが、残念ながら私はそうではありません。

私は自分の心の中で整理できないことは、心の中の逃れの町に逃して自分では考えないだけです。そしてそのような理不尽なことのためにも、大祭司である主イエスが十字架に付かれて苦しまれて贖われました。主イエスが十字架で贖われたことを私たち人間がとやかく言う必要はありません。すべての罪のために主イエスが十字架に付かれて贖われた。それが唯一の解決なのではないでしょうか。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。イスラエルの過失の殺害者は逃れの町に逃れ、その罪は大祭司の死によって贖われました。それが唯一の解決方法でした。私たちも人間の理屈では解決できない問題もあります。

しかしそのような問題のためにも主イエスは十字架に付かれて苦しまれ、贖ってくださいました。私たちも自分の手で何かをしようとするのではなく、すべてをあなたの御手に委ねて解放され、幸せに長く生きるものとさせてください。

ウクライナで不条理な苦しみの中にいる方々が一刻も早く解放されますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。