「裏切りを知っていても」

ヨハネ2:23~25                                                野田栄美

 主イエスの返事

今日も主イエスがどのような方なのか、また、人を愛するとはどのようなことなのかを見させていただきましょう。

先月のメッセージでは、主イエスが神殿で商人を追い出したのを見て、ユダヤ人たちは、「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と主イエスに詰め寄ったことを読みました。ここで言う「しるし」とは、主イエスが神から何らかの権威をいただいていることを示すものです。それは、単なる不思議な奇跡ではなく、神から使わされたことの保証となる奇跡のことです。

この彼らの要求の言葉に対して、主イエスは、不可能だと思われる返事をされました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」質問をした者にとっては、相手にしてもらえなかったように感じる返事です。また、主イエスがこのとき意味していたのは十字架と復活のことでしたが、その十字架と復活という「しるし」を見させていただくまで、彼らは返事をいただけないということでしょうか。それは、返事をはぐらかしているとも取られかねません。

 今日読んでいただいた聖書には、その後、彼らが求めた「しるし」を主イエスが見せてくださったことが書かれています。「過越の祭り」は、すぐ後の「種を入れないパンの祭り」と合わせて約一週間続きます。この一週間の間、主イエスは、23節にあるように数々のしるしを見せてくださいました。病人を癒やし、悪い霊に取り憑かれた人を解放し、奇跡を見せてくださいました。主イエスは、ユダヤ人の求めることに、丁寧に対応してくださったことが分かります。

② 人々の信じたこと

 その「しるし」を見た人々は、主イエスの名を信じました。主イエスが神から権威を与えられた者だと信じました。しかし、24節には、主イエスが信じた人々を信用されなかったとあります。それはなぜでしょうか。それは、その人々の信じる心がどのようなものであったかを知ると分かります。

 主イエスのしるしを見た人々は、主イエスが神から使命を与えられていると信じました。その使命とは、ユダヤを支配していたローマ帝国からの解放することです。政治的に独立するための指導者を神が与えてくださる、その人が主イエスだと信じました。

主イエスは、十字架にかかられる五日前にエルサレムへ入城されます。そのとき、人々は自分の上着を脱ぎ道に敷きました。更に、シュロの葉も敷き、主イエスの入城を歓喜して迎えました。まるで、映画祭で有名俳優の入場のために、レッドカーペットが用意されているようにです。大歓迎した人々は熱狂していました。「いよいよ、私たちの国がローマから開放される」そう思って歓喜していました。

 エルサレムへ入城されたのが日曜日、でも、主イエスはローマに対して旗を揚げる様子は見られません、月曜日、病人を癒やされました。火曜日、これから起きる十字架の預言や、将来起こる黙示預言をされました。木曜の夕方には、最後の晩餐といわれる過越の食事をされ、その場で別れの説教をされました。そこには、政治的な動きは何もありません。人々はその数日で、主イエスは期待外れだと、幻滅していきます。そして、金曜日、あの映画スターを取り囲む群衆のようだった人々は、手のひらをかえして、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆の中に消えてゆき、主イエスを裏切りました。

 これが、彼らの信仰の結果です。数々の奇跡を見て、それを「しるし」と信じた結果がこれです。彼らは、主イエスが本当は何の為に神から使わされたのかを、理解することができませんでした。四月のメッセージにあったように、ご自分が十字架にかかり、人々の罪の贖いをすることにより、神と共にいる本当の幸せを人々にもたらそうとしてくださっていることを、人々は理解することができませんでした。

③ 裏切ったペトロ

 まさか、そんなことはないだろう、信じ続けていた人は一人くらい居たのではないかと、思われるかもしれません。では、主イエスの一番近くにいた十二弟子はどうだったでしょうか。主イエスがローマの兵士に連れ去られたとき、彼らは、主イエスを見捨てて逃げ出してしまいました(マタイ26;56)。十二弟子の中心人物であるペトロという人がいましたが、彼は一度逃げた後に、主イエスが捕まっていた大祭司の中庭に入りました。少しの信仰が残っていたように見えます。しかし、そこで「あなたは主イエスの弟子だろう」と門番の女に言われたとき、三回も「私は違う」と否定しました。一番弟子と言われてもいいペトロでさえ、完全に主イエスを捨て去りました(ルカ22:54~62)。

 これが、人の心です。

④ 裏切ることを知っていた主イエス

これらのことから、数々の奇跡や「しるし」を見ても、人の心には完全な信仰は宿らない。そのことがはっきりと分かります。24、25節に「しかし、イエスご自身は、彼らを信用されなかった。それは、すべての人を知っておられ、人について誰からも証してもらう必要がなかったからである。」とある通りです。サムエル記には、「人は目に映るところを見るが、私は心を見る。」(Ⅰサムエル16:7)と書かれていますが、主イエスは正に、心を全て見ることができました。全知全能の神の子であるからです。

 そして、それは、目の前で奇跡を見て感激している人々が、いつか裏切るということを知っていたということです。

 あなたは、裏切ることが分かっている人と友だちになるでしょうか。長年育ててきた子どもが裏切ったら許せるでしょうか。それも、自分を死刑にすることを分かっていたとしたら、逃げださないでいられるでしょうか。

主イエスは逃げませんでした。人々が裏切ることを知っていても、決して見放しませんでした。そして、苦しみの道を歩き通されました。

⑤ ペトロに現れた主イエス

主イエスが復活されてから、弟子たちに現れてくださった話の中で、とても好きな場面があります。弟子たちが故郷のガリラヤ湖に戻って、魚を捕っていると、そこへ復活された主イエスが現れてくださった場面です。

愛弟子であるペトロもそこにいました。彼は、先ほどもお話ししたとおり、主イエスをはっきりと裏切った人でした。そのペトロに、主イエスは、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」とおっしゃっいました。「はい」と答えたペトロに「私の羊を飼いなさい」と言われました(ヨハネ21:15、16,17)。「あなたは、私を裏切ったからもう弟子ではない、追放だ」と言われるところです。「あなたは信用できない。私はあなたの心の中にあることが分かっていた。」と責めてもおかしくないところです。

 「私の羊を飼いなさい」とは、どのようなことでしょうか。それは、「私の愛している人たちの世話をしてほしい。」「私はこれから天の家に帰るから、あなたが代わりに大切な神の子どもたちを世話してほしい。」ということです。それは、つまり「私は命をかけて救った大切な人たちをあなたに託すほど、あなたを信用しているよ。」と言うことでした。

⑥ 神と共にいること

 主イエスが、全く信用できないペトロに、こんな大事なことをお任せになったのは、無責任ではないでしょうか。いいえ、違います。主イエスは、ペテロにはできないことをご存じでした。そんなペトロが信用できる者になる方法、それは、神と共に生きることです。

それを実現するには、ペトロの弱さ、愚かさ、欲望という罪を洗い流すために、聖い血が流される必要がありました。そのために、罪一つない主イエスは十字架におかかりになり、全てを成し遂げてくださいました。このことによって、ペトロは聖なる神と共にいることができるようになる道が開かれました。

ペトロが自分を裏切った時、主イエスはそばにおられたとルカ22:61には書いてあります。それでも、もうやめたと投げ出すことなく、主イエスは十字架への道を進んで行かれました。ペテロが神と共にいることを願い続けられました。そして、苦しみの末に、すっかり、神と共にいる道を開いてから、主イエスはペトロの所に、ご自分から会いに来てくださった。「あなたを信用するよ。」というためにです。

⑦ 信用される人生へ

 これが主イエスが、人生をかけて見せてくださった「人を愛する」ということです。どんなに踏みにじられても、裏切ることを知っても尚、決して見捨てない。その人のために自分を捧げ尽くす、それが、「人を愛する」ことです。先ず最初に、その愛を主イエスが実践してくださいました。

 

 私たちがどのようなものかは関係ありません。全知全能の神である主イエスは、25節にあるように「何が人の心の中にあるかをよく知っておられたのである」とあるように、私たちのことを全部ご存じです。私たちがすべきことは、主イエスを神の子だと信じる選択を、自分の意思ですることです。「しるし」を見て感情的に信じるだけでなく、決断することです。

 その時に、私たちは神と共にいることができるようになります。そして、人を愛する心をいただきます。その愛で、人を愛する生き方をさせていただけます。これは、人生の一大転機です。神に信頼されない生き方から、神が信用してくださる人生へ。それは、愛にあふれる人生の始まりです。