「聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる」
2023年元旦礼拝説教 ヨハネによる福音書 14章15~26節
主の御名を賛美します。新しい年となりました。今年も宜しくお願いいたします。
1、もうひとりの弁護者
今日の個所は、場面としては13章から始まる、主イエスが弟子たちと食事をした最後の晩餐の席です。話の内容は主イエスから弟子たちへお別れの告別の説教で、大切な内容を伝えています。主イエスはご自身がまず弟子たちを愛されていることを13:34で伝えました。
その応答として、「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。」と言われます。愛するとは、愛する人の言う戒めを守ることです。確かに私たちも愛する人の言うことは守ろうとします。
この内容は逆の言い方をしても同じことで21節では、「私の戒めを受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。」と言います。愛する人の戒めを守ることによってその人を愛していることを表します。
23節ではまた元の順序に戻して、「私を愛する人は、私の言葉を守る。」と言います。更に24節ではその裏として、私を愛さない者は、私の言葉を守らないと4回同じ内容のことを言って強調します。ある人を愛することと、その人の言う戒めを守ることは同じことです。
この新しい戒めの記事の間に、13:38で主イエスは、ペトロが主イエスのことを裏切って知らないと三度言うと預言されています。一見すると何か関係の無い記事が突然に挟まれているような感じがします。しかし主イエスの預言の通りに、ペトロは自分の命欲しさに主イエスを知らないと三度言うことになります。
その後に、復活された主イエスがペトロにお会いした時の質問は、21:15から3回、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」でした。愛するとは、その人の言う戒めを守ることであるとここで主イエスが言われたことを、ペトロは後で思い出すことになります。
ところで主イエスの戒めとは具体的にどのような内容でしょうか。それは13:34で、「互いに愛し合いなさい。」です。これはとても大切な戒めですので、この後の15:12でも繰り返します。主イエスを愛する弟子たちは主イエスの戒めである、「互いに愛し合う」ことを守るはずです。
しかし私たちが自分たちの力では新しい戒めである、「互いに愛し合う」ことを守れないことを主イエスはご存じです。そこで主イエスは父なる神にお願いをしてくださいます。そして父なる神はもうひとりの弁護者を遣わしてくださいます。「もうひとりの弁護者」ということはまずひとり目の弁護者がいます。
ひとり目の弁護者はどなたでしょうか。Ⅰヨハネ2:1は、「私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。」と言いますので、ひとり目の弁護者は主イエスです。そしてもうひとりの弁護者は、真理の霊(17節)である聖霊(26節)です。
弁護者(ギ/パラクレートス)の元の意味は、「そばに呼ばれた者」で、その意味の通りに、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださいます。一緒にいて何をしてくださるかと言うと、「あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」のです。
聖霊がすべてを教え、ことごとく思い起こさせてくださる、今は聖霊の時代と言われます。しかし、この世は、聖霊を見ようとも知ろうともしないので、聖霊を受けることができません。しかし、神を信じる弟子たち、またクリスチャンは聖霊を知っています。
ただクリスチャンは三位一体の神の一位格としての聖霊を一応は知ってはいますが、どの程度のことを知っているかというと少し心許無い部分があります。それは聖書に三位一体の神について詳しく書かれていないこともあるかも知れません。
聖書には三位一体については書かれていますが、三位一体という言葉は書かれていません。キリスト教界では、これまでは父なる神と御子イエス・キリストに比べて聖霊の地位が低かったと言われています。それは正しく理解されていなかったこともあるでしょう。
また教会学校で子どもに話をする時には聖霊は伝え難いので、便宜上、聖霊を主イエスに言い換えている部分もあるでしょう。主イエスはここで聖霊について、どのように語られているでしょうか。クリスチャンが聖霊を知っているのは、聖霊がクリスチャンのもとにおり、これからも、クリスチャンの内にいるからです。
クリスチャンは神が共にいてくださることを知っていますが、その共におられる神は三位一体のどの神でおられるかというと聖霊です。少し疑問や違和感を覚える方もおられるかも知れません。もう少し主イエスのお話を聴かせていただきましょう。
主イエスは弟子たちをみなしごにはしておきません。みなしごとは親のいない子ですが、そうはさせないために主イエスは、「あなたがたのところに戻って来る。」と言われます。主イエスが戻って来ると言われるのはいつのことを指しているのでしょうか。
読み進めますと、「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが分かる。」と言われます。
ここの主イエスの戻って来られるかの日がいつのことであるのかは、3つの可能性が考えられます。1つ目は、この後に十字架に付かれて3日目に復活されるその日です。確かに主イエスが生きておられるので、私たちも主イエスの復活の力に与って生きるという意味が分かります。
2つ目はペンテコステ、聖霊降臨日です。主イエスは天に上げられますが、聖霊としてこの世に戻って来られるということです。以前はこの説が割と人気があったようです。3つ目は、主イエスが再びこの世に来られる再臨の日です。3節との繋がりを考えると再臨の日のことであると思われます。
2、三位一体の神
この箇所で主イエスは聖霊のことを語られ、また父なる神のことを語られます。ところで主イエスと聖霊と父なる神のご関係はどのようなものなのでしょうか。神は三位一体の神と言われますが、今一つ良く分からない部分があります。
今年度の茂原教会の中心聖句で、「私があなたと共にいる」と言われる神は旧約聖書のイザヤ書からですので、そこで共におられると言われたのは父なる神です。旧約聖書で神と呼ばれる方は基本的にそのほとんどが父なる神です。しかし福音書に入ると、マタイ28:20で、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われるのは子なるイエス・キリストです。
しかし今日の個所で主イエスは私たちのもとにおられるのは聖霊であると言われます。神は三位一体ですが、時代によって主役を担われるお方が、旧約時代は父なる神、福音書の時代は子なるイエス・キリスト、使徒言行録以降の時代は聖霊となっています。
また三位一体の神は役割に違いがあり、それは祈る時にも表れて来ます。祈る対象は主イエスが主の祈りの中で、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えて下さっているように、父なる神に対してです。そして13節にあるように、主イエス・キリストの御名によって祈ります。また祈りは聖霊の力による聖霊の導きに従って祈ります。
以前から三位一体を説明する色々な譬えがあります。その一つに氷、水、水蒸気があります。氷、水、水蒸気はその本質において同じですが、3つの形態があります。私はこれは譬えとしては良いのではないかと思います。しかしこの譬えには反対する多くの人がいます。
反対する理由はこの譬えは容態論であるという考えです。容態論というのは旧約の父なる神が福音書の時代には子なる主イエスに変化して、使徒言行録の時代以降は聖霊にその容態が変化したというものです。勿論、容態論は間違っています。
しかし譬えというのは物事の全てが同じであると言うのではなくて、言葉だけでは伝わり難いことを、言葉の限界を超えて表現をするために使うものです。例えば果物を食べてとても甘い時に、「砂糖のようだ」と言うことがあります。それは砂糖のように甘いという意味で、甘いという言葉だけでは伝わらないニュアンスが伝わります。
その譬えに対して、その果物は砂糖のように色は白く無いし、砂糖のように細かい粒でも無いので、果物を砂糖のようですというのは間違っているというのは譬えの意味が分からない人です。
譬えは「~のようだ」とか「~に似ている」というのであって、「~と全く同じ」とは言いません。聖書にはとても多くの譬えが書かれていて、主イエスも多くの譬えを話されています。マタイ13:34で主イエスは天の国について、「たとえを用いずには何も語られなかった。」と言います。氷、水、水蒸気の譬えが良いかどうかは別として、譬えの豊さを味わいそこから何かを得られたら良いと思います。
私といつも共にいてくださるお方は主イエス・キリストだと思っていたのに、そうではなくて聖霊と言われると驚かれるかも知れません。しかし三位一体の神は人間の理性による理解を超えています。カトリックを含む私たちの西方教会では、聖霊は父なる神と子なるイエス・キリストから発出すると言います。
父なる神の霊は聖霊で、子なるイエス・キリストの霊も聖霊です。しかし元々、神は霊ですので、霊である神の霊は聖霊と言われると、人間の理解を超えていると思います。
主イエスは23節で、自分の内に聖霊を宿し、主イエスを愛し、主イエスの言葉を守る人について、「私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む。」と言われます。
三位一体の神ですから、3位格の1位格の神とだけ共に生きるということはなく、神と共に生きることは三位一体の神と共に生きることになります。
主イエスご自身が神でおられながら、いつも父なる神の御心を求め、聖霊の導きに従って三位一体の神として歩まれました。ただ私たちに教え、思い起こさせて、導いてくださるのは聖霊です。主イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架につかれて、復活されて天に帰られ、もうひとりの弁護者として遣わされたのが聖霊です。
聖霊を知ろうともしないと受けることができないと言われますので、正しく知りたいと思います。知ると言うのは理性で理解することではなく、信仰によって受け入れて体験することです。新しい1年が始まりましたが、今年も聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる者として祝福の道を歩ませていただきましょう。
3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちを愛し祝福を願われる主イエスは、私たちの身代わりとして十字架に付かれ、もうひとりの弁護者として聖霊を遣わすことをあなたにお願いしてくださいました。
私たちが聖霊に導かれ、聖霊と共に生きる者として、主イエスを愛し、主イエスの新しい戒めである、互いに愛し合うことによって祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン