「罪を犯すことのないため」

2023年9月24日礼拝説教  
申命記 20章10~20節

        

主の御名を賛美します。

1、降伏の勧告

20章は戦いについての内容ですが、その目的は悪を取り除くことです(19:19)。悪を取り除くことについて、まず第1は自分の中にある悪を取り除きます。第2に自分たちの共同体の中にある悪を取り除きます。そして第3は、自分たちの外にある悪を取り除きます。この順序を守るときに神は共に歩んでくださいます。

第1段落(1~4節)では、戦いでは主が救ってくださるので恐れる必要がないことを語られ、第2段落では戦いを免除されるときについてでした。今日の個所は、実際の戦いの内容に付いてです。3、4節で、霊的な指示を告げるのは祭司であり、5~8節で戦いの免除の実務を告げるのは役人で、9節からの戦いにおいては、将軍たちが民の先頭で指揮を執ります。

それぞれの内容にはそれぞれの役割を神から与えられている人がいますので、自分の与えられている役割を良く理解して自分の役割を正しく果たすことが大切です。

イスラエルがこれから攻める町は2種類に分けられます。それは神がイスラエルに相続地として与えられる町と、もう一つはその町から遠く離れた町です。初めは相続地から遠く離れた町についてです。イスラエルが相続地に入る前には、相続地から遠く離れた町を通って行くことと、その町が後で攻めて来ないようにしておく必要があります。

そこでその町を攻めようとして近づくときは、まず降伏を勧告します。初めから戦いを仕掛けることはしないで不要な戦いはしません。降伏の原語はシャローム(和平)です。降伏を勧告する場合には2種類の反応が考えられます。初めは、その町が降伏を受諾し、門を開く場合です。その場合には戦いは生じず、そこにいるすべての民は苦役に服してイスラエルのために働くことになります。

しかしもし降伏に応じず、抗戦するならば、町を包囲します。神はその町をイスラエルの手に渡されるので、兵士である町の男はすべて剣にかけて打ち殺します。残酷なように聞こえますが、このことの現代における霊的な意味としては、悪を取り除くということです。

ただし、女、子ども、家畜、および町にあるものはすべて、戦利品として奪い取ることができて、自由にすることができます。イスラエルの戦いにおいて、このように戦利品が自由にできる場合とそうでない場合がありますが、それはどのような場合でしょうか。

今回は、戦利品を自由にできるのはイスラエルの相続地から遠く離れた町に対してです。イスラエルの相続地から遠く離れているということは、イスラエルに対する悪い影響力はほとんどないと考えられます。またイスラエルが相続地として支配しないということは、悪が満ちていないとも考えられます。そのような場合には利用できるものは利用してよいということです。日本で言う、もったいない精神もあるでしょうか。

2、罪を犯すことのないため①

しかし神がイスラエルに相続地として与える民の町では違います。相続地では聖絶をする必要があります。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、神が命じられたように、必ず滅ぼし尽くさなければなりません。これは7:2で命じられたとおりで、悪が満ちているからです。

これらの町の息のあるものを生かしておいてはなりません。日本語的には息のあるものといいますと、家畜等も含まれる感じがします。しかしヨシュア記11:14では、「家畜は奪い取ったが、息のあるものは何も残さなかった。」と言いますので、ここの息のあるものは人間だけを指すと考えられます。それはこの後の聖絶の理由からもそのように考えられます。

聖絶をするのは、彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行いをあなたがたに教えて行わせ、あなたがたの神、主に対して、あなたがたが罪を犯すことのないためです。悪を行う者は自分が悪を行うだけではありません。他の人にも悪を教えて行わせますので恐ろしいものです。

そして悪い行いというのは簡単に他の人にうつって行きます。悪いことをされた人は初めはそれは悪いことであると感じるものだと思いますが、いつの間にかその悪に影響されてしまうのでしょうか。

悪を見たり経験した者は同じ悪を行うようになって行きます。

今、ジャニーズ事務所の問題が話題になっていますが、悪を行っていた者も初めは自分もその悪をされたか、見るなどをしたものと思われます。そして悪を始めたのは1人のようでしたが、加害者は複数に増えて行ったようです。

また別の意味でも、人は自分が他に人にされたようにしか他の人にできないと言われます。不幸にも虐待を受けた人は、虐待は良くないと分かっていながら、自分が受けた虐待以外にどのように表現したら良いか、その表現方法が分からないために、同じように虐待を行うようになると言われます。

凶悪犯罪が起こるとその犯人の生い立ちやそれまでの人生の歩みが良く紹介されます。それらを見ていますと、ほぼ例外なく凶悪犯は複雑な家庭環境に育ち、その後も色々な苦難の道を歩んで来ています。この世的な物質的には恵まれた環境で育つ人もいますが、その場合には精神的に追い詰められるような厳しい環境が多いようです。

そしてそれは、その犯人だけが厳しい環境で育つのではなく、その親もそのような環境で育ったために、犯人となる子どもをそのような環境で育つことになるようです。そういう意味で、凶悪犯というのはある真面目な家系から突然変異のように出て来る場合もあるかも知れませんが、その家系の代々の罪や関わる人々の代々の罪が積み重なって生まれて来るようです。

この箇所に思いを巡らしていたときに、11:26~28の、「神の戒めに聞き従うならば祝福を、他の神々に従うならば呪いを置く。」が思い浮かびました。神の戒めに聞き従うならばそれは良い習慣となって祝福は積み重なって行くでしょう。しかし神の呪いとは一体どのようなことなのでしょうか。

神の呪いとは神が積極的に何か悪いことをされるのではないような気がします。むしろ神の呪いとは神が人と何も関わらず何もされないことかも知れません。人間は罪深いものですから、神がもし何も関わられなければ、人間の罪が積み重なって行って自分の罪によって滅びてしまいます。それが神の呪いなのかも知れません。

しかしそのような罪深い私たち人間を救うために、父なる神は、御子イエス・キリストを十字架に付けて私たちの身代わりとされ、私たちが間違った方向に進むことがないように助け手として聖霊を遣わしてくださいました。しかしそれでも私たちは弱い存在ですので、罪を犯すことのないように、あらゆる誘惑となる可能性のあるものは、滅ぼし尽くす必要があります。

3、木

戦いは長期にわたることもあることでしょう。町を包囲し、これを占領しようと攻めるとき、町に木があると気になるかも知れません。戦いが長期にわたるといらいらとして木があると見通しも悪くなり、目障りに感じるかも知れません。

ベトナム戦争でもジャングルの植物を取り除くために、枯葉剤を蒔いたり、火炎放射器で植物等を焼いたりしていました。ウクライナの戦争では町を徹底的に破壊して、世界遺産等も破壊しています。これらは長期戦によるストレスもあるためでしょうか。

しかし斧を振るって町の木を切り倒してはなりません。その理由は、木は実が食料になるものだからです。やはり利用できるものは大切にします。果樹も神の恵みによって成長したものですから無駄にすべきではありません。特にイスラエルにとって、果樹が食べられるようになるには植えてから5年を要するものですので、大切にする必要があります。

ただし、実がならないと分かっている木は切り倒します。しかしそれでも木も無駄にはせずに有効利用します。その木で、戦っている町に向かって塁を築き、町が陥落するまで攻めます。「塁」と言われても分かり難い感じがしますが、新改訳は「砦」と訳しています。

この箇所からは、マタイ7:19で主イエスが言われた、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」ことが思い浮かびます。実がならない木は切り倒されますが有効利用されます。しかし悪い実を結ぶ悪い木は切り倒されて火に投げ込まれます。

ここでいう良い実というのは、ガラテヤ5:22の(聖)霊の結ぶ実である愛、喜び、平和等で、悪い実というのはガラテヤ5:19の肉の行いである淫行、汚れ、放蕩等です。良い実は聖霊の結ぶ実ですから聖霊を与えられて初めて結ぶことができます。聖霊が与えられていなければ悪い実を結ぶことになり罪を犯すことになります。

4、罪を犯すことのないため②

私たちは誰でも出来ることなら罪を犯すことなく良いことだけをして祝福の人生を歩みたい、また自分と関わるすべての人に良い影響だけを与えたいと願うものです。私たちの人生は、自分でも気付かない内に、色々な人の影響を受けています。

家族からの影響が一番大きいとは思いますが、親戚や近所の人たち、友人、学校の先生等から色々な影響を受けます。その中には良い影響もありますが、悪い影響もあり、それまでの色々な人たちの影響が積み重なっているものもあります。

場合によっては、利用できるものと悪い影響が表裏一体のようになっていることもあるかも知れません。そのような場合に過信は禁物です。自分は悪い影響は分かっているから、利用できるところだけを上手く利用して悪い影響は受けないように出来るから、良いとこ取りだけをしようと思うかも知れません。

しかしサタンの策略は巧妙です。そんな真面目なことだけを言っていたら疲れてしまう、少し息抜きをしてストレス発散等と思うかも知れません。ところがこの世にはサタンの巧妙な罠が多く仕掛けられています。そして私たちの戦いは、先週もお話しましたが、人間に対するものではなく、悪の諸霊に対するものです。

到底、人間の力では対抗出来るものではありません。神の武具を身に着けて戦う必要があります。私たちを罪から救うために既に主イエスは十字架に付かれました。そして私たちが罪を犯すことのないように神の武具を揃えて準備されています。聖霊に導きに従って、主イエスを信じ、準備されている神の武具を手に取り、罪を犯すことのない祝福の道を歩ませていただきましょう。

5、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世は色々な情報やサービス、物に溢れています。便利なものも多くありますが、怪しさを感じるものも少なくなく、巧妙な罠のように感じるものもあります。私たち一人一人を聖霊で満たし、主イエスを心から信じさせてください。そして私たちに巧妙な罠を見分ける知恵をお与えください。罪を犯すことなく、祝福の道を喜びを持って歩ませてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。