「悪を取り除く」
2023年10月15日礼拝説教
申命記 21章18~23節
主の御名を賛美します。
1、反抗する息子
今日の説教題は何度か聞いたことがあると思います。以前に今日の中心聖句と全く同じである、「あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除きなさい。」(13:6、17:7)から2回同じ説教題を付けました。聖なる神は、神の民の中にある悪をそのままにしておくことはできませんので、悪を取り除くことを本当に強く望んでおられます。
先週は例え長子が疎んじられている妻の息子であっても長子の権利を認めなければならないという、親が子に行う必要のある内容でした。今日は息子の両親に行う必要のある内容です。ある人にかたくなで反抗する息子があり、父母の言うことも聞かず、父母が懲らしめても聞かない場合です。
まずここでかたくなで反抗するのは息子であって娘は含まれていません。なぜ娘は含まれないのでしょうか。娘は従順なのでしょうか。そうかも知れませんが、恐らくは、当時の時代背景として娘がかたくなで反抗するということは、そもそも初めから全く許されなかった状況だったと思われます。息子も本来は十戒の5番目の戒めにあるように、父と母を敬わなければなりません。
この場合、両親はその町の長老たちに、「私たちの息子は、かたくなで反抗し、私たちの言うことを聞かず、放蕩にふけり、大酒飲みです」と言います。少し不思議な感じもします。現代の感覚で言いますと、息子がかたくなで反抗するのは家庭の中の問題のような気がするからです。
しかし神の民であり神の家族であるイスラエルでは、一人の問題は全体の問題として、連帯責任を持って対応をします。町の人々は皆、彼を石で打ち、彼は死ななければなりません。石で打つのは両親ではなく、町の人々です。とても厳しい裁きです。こうしてイスラエルの中から悪を取り除きます。
悪を放置することは出来ませんので、悪を取り除くためには、これ程の厳しい対応が求められます。イスラエルは皆、このことを聞いて恐れるであろう、と言います。そしてイスラエルに人々を恐れさせるためでしょうか、処刑される場合には処刑者を木に掛けます。見せしめにするということでしょう。
但し、その死体は必ずその日のうちに葬らなければなりません。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからです。呪われた者を夜通し木に残しておくと相続地である土地が汚されるので木には残しません。これらのことが実際に実行されたのかは分かりませんが、語られて聖書に書いてあることによる効果はあると思われます。
この御言葉はユダヤ人に後で大きな影響を与えることになります。主イエスは十字架である木に掛けられました。この御言葉から主イエスは木に掛けられたのだから、神に呪われた者であり、救い主、メシアであるはずがないと考えるようになったようです。
いずれにしても、このようなことにならないためには、町の人々は普段から自分のことだけを考えるのではなく、町のすべての人と関わって、誰かが間違った生き方をしていないかを見守る必要があります。
2、発達障害
ここで考えさせられることが2つあります。1つ目は、かたくなで反抗し、両親の言うことを聞かない原因が本当に悪から来ていることなのかということです。少し前までは学校等でも、かたくなで先生の言うことを聞かない少し変わっていると思われていた子が、実は発達障害であるということが分かって来ました。
発達障害には3つの種類があると言われて、1つ目はコミュニケーションや対人関係に課題のある広汎性発達障害、2つ目は不注意、多動、多弁等の注意欠陥多動性障害、3つ目は読み書き、計算に課題のある学習障害です。これらは親のしつけが悪いとか、本人が悪いというのではなくて、障害というよりも個性のようなものかも知れません。
これらは大人になっても残るものですので、周りの人が理解してサポートを行う必要があります。このことについて教団でもしっかりと学ぼうということで11月22日(水)に講演会があり礼拝堂からオンラインでの参加を考えていますので、ご参加いただければと思います。
発達障害の人は拘りがとても強いですので、それが良い方向に生かされると良い結果に繋がるようです。発達障害のあると言われている有名人は、コミュニケーションや対人関係に課題のある広汎性発達障害は、元野球選手のイチロー、起業家では、アップルのスティーブ・ジョブズやテスラのイーロン・マスク等と言われます。
不注意、多動、多弁等の注意欠陥多動性障害ですと、長嶋茂雄、黒柳徹子、ジミー大西、学習障害ですと、俳優のトムクルーズや映画監督のスティーブン・スピルバーグ等です。私たちのホーリネス教団では、現在の教団委員の9名の内、教団委員長を含む3名はご自分は発達障害であると公言しています。
使徒パウロの行動も考えてみますと、クリスチャンを迫害するために、わざわざダマスコまで行く執念深さや石打に遭っても福音を宣べ伝える執着心等から発達障害のような感じがします。発達障害自体は悪ではありません。発達障害は良い方向に生かされると賜物として用いられますが、そうでないと困った人になってしまいますので、周囲の理解とサポート、また本人の自覚も必要です。
3、罪人
次に2つ目のこととして、かたくなで反抗し言うことを聞かないことが悪から来ていたとして、その者を死刑にすることで、皆が聞いて恐れて、本当に悪を取り除くことが出来るのかということです。この箇所は約3千4百年前に書かれていますので、もしも本当に文字通りに実行されて悪が取り除かれて来ているならば現在のイスラエルにはそのような悪は存在しないはずです。
実際はどうなのでしょうか。私は3千4百年前と今のイスラエルの実態を知りませんが、恐らく昔も今も余り変わらないのではないでしょうか。死刑制度について議論される時に良く言われることで、死刑がある方が、死刑を恐れて犯罪と止める抑止効果になるという意見があります。
しかし単純な比較は出来ませんが、死刑制度が有っても無くなっても犯罪の発生率は余り変わらないと言われますので、死刑には犯罪の抑止効果は余り無いということです。そもそも悪を行う者を死刑にして行くことで悪を取り除くこと出来るのでしたら、主イエスが十字架に付かれる必要は無かったことでしょう。
では神はなぜイスラエルに実行することが不可能なことを命じられたのでしょうか。それは人間が自分たちには悪を取り除く力が無いということを知るためだと思われます。人間は傲慢ですので自分の力で散々やってみて、どうしても出来ないということを知らなければ、神に聞き従うことが出来ないものです。
その意味で旧約聖書は神の言葉であり、書かれていることはすべて正しいことですが、人間の力だけでは実行不可能な内容も命じられていると言えます。放蕩にふける息子は、この箇所では石打の死刑です。もしも厳密に、少しでもかたくなで反抗し、言うことを聞かない息子を全員、石打の死刑にして行ったら悪は取り除けるかも知れませんが、罪人である人間は誰もいなくなってしまいます。
4、悪を取り除く
ではここの聖書箇所はどのように受け止めたら良いのでしょうか。旧約聖書を読む原則は新約聖書の福音の光に照らし合わせて読むことです。放蕩にふける息子と言いますと、ルカ15章の放蕩息子の記事が思い浮かぶと思います。そこでは放蕩することを望む放蕩息子に対して父親である神は自由にさせます。ただ自由にさせただけではありません。
放蕩息子が我に返って悔い改めるのを待っていました。放蕩息子は父親に対して、「私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と悔い改めの告白をして赦されました。
しかしここで放蕩息子の犯した罪、悪はどうなったのでしょうか。放蕩息子の犯した罪は主イエスの十字架の死によって赦されることになります。放蕩息子の時には主イエスはまだ十字架に付かれていません。主イエスの十字架は、十字架の後の時代の人の罪の赦しのためだけではありません。十字架の前の時代に犯された神を信じる人の罪のためでもあります。
旧約聖書に出て来る神を信じる人たちが天国に行けるのは主イエスの十字架による罪の赦しのためです。主イエスの十字架の効果は十字架の後の時代の人にも前の時代の人にも及びます。旧約の時代には死刑という、ある意味で、恐れによる恐怖によって悪を取り除こうとしましたが上手く機能しませんでした。
全能の神は勿論、初めからそのようになることはご存じであったと思いますが、それは人間が自分で納得するためのものであったのでしょう。そこで何とか人間を救おうとされる神は、新約の時代になって、悔い改めて主イエスを信じる信仰によって、悪を取り除き救われることとされました。
私たちの悪を取り除くために、父なる神は御子イエス・キリストを既に2千年前に十字架に付けてくださいました。更に私たちが悪による罪を悔い改めて主イエスを信じることが出来るように聖霊も与えられています。私たちの救いの道は、三位一体の神によって全て備えられています。
後は聖霊の導きに素直に従って、悔い改めて、悪を取り除いていただくだけです。悪を取り除いていただいて喜びに溢れた人生を歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。いつの時代にも悪は存在するものです。何とかして悪を取り除こうとしても、人間が自分の力で取り除くことは不可能です。しかしそのような私たち人間のために、主イエスを信じる信仰によって悪を取り除く道を備えてくださり有難うございます。
聖霊の導きに従って主イエスを信じさせてください。そして悔い改め続けることによって、悪を取り除き続けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。